ニチアス祖岳製作所を合併し竹鼻工場(現羽島工場)を岐阜の生産拠点として受け入れ

工場を建てるか、動いている会社ごと引き受けるか——中部に生産基地を置く方法の選択

時期 1959年10月
意思決定者(推定) 日本アスベスト 取締役会
論点 生産拠点網の拡張と合併による工場取得
概要
1959年10月、日本アスベスト(現ニチアス)が株式会社祖岳製作所を合併し、同社の竹鼻工場(現羽島工場、岐阜県羽島市)を新たな工場として受け入れた経営判断である。東西2工場だけで全国の需要に応じていた生産体制に、中部の拠点が加わった。
背景
同社は1937年に王寺工場(奈良)、1939年に鶴見工場(横浜)を設けて以来、この2工場で石綿製品の製造を担っていた。1952年の店頭公開、1955年の両工場のJIS表示工場指定、1956年の研究所設置と、戦後の設備・研究体制の整備が続いていた。
内容
更地から工場を起こすのではなく、1943年から操業していた竹鼻工場を、会社の合併という手段でまとめて取り込んだ。合併の2年後に東証二部、3年後に東証一部へと上場区分が上がり、同社は複数市場に上場する素材メーカーとなった。
含意
受け入れた工場は、シール材のグランドパッキンやうず巻き形ガスケットを長く製造する主力工場となり、後年のアスベスト問題では被害と対応の中心にも置かれた。現在は半導体製造装置向けの高機能樹脂製品などを手がけている。
筆者の見解

引き受けた工場が背負ったもの

1959年の合併は、経営判断としては地味な部類に入る。買収額も交渉の経緯も記録に残らず、社史の年表では一行で済まされている。それでも、この一行が同社の後半世紀を規定した面はある。中部に工場を1つ得たことで、製品ごとに工場を割り振る多工場体制が組めるようになり、シール材という同社の中核製品を量産する場所が確保された。会社を丸ごと引き受ける方法を採ったために、立ち上げの時間を買えた点も見落とせない。

同時に、引き受けたのは製造能力だけではなかった。石綿を扱う工場を持つとは、そこで働く人と周囲に住む人の健康にかかわる長い責務を持つことでもあり、その重さが表に出るまでには40年以上が必要であった。1959年に受け入れた工場は、2003年までシール材を作り、2005年には住民説明会の会場となる地域に立ち、いまは半導体装置向けの樹脂を作っている。ひとつの工場が抱えた時間の長さが、この合併の性格をよく表している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

商社から多工場メーカーへ移った戦前・戦中

日本アスベストは1896年4月、大阪市福島区で石綿製品の取扱いを始めた会社である。同年8月には大阪工場を建てて自社製造にも入り、輸入素材を右から左へ流す商いから、加工して工業ユーザーへ納める製造業へ性格を移した。1909年3月に本社を大阪から東京中央区へ移し、1916年9月には東京品川に東京工場を設けた。1930年4月、その東京工場で最初の国産ジョイントシートパッキングが完成し、それまで欧米からの輸入に頼っていた配管用シール材を自前でつくれるようになる[1]

1936年4月に大阪工場を奈良県の王寺へ移し、1939年12月には東京工場を横浜の鶴見へ移した。この2度の移転で、同社の製造機能は王寺と鶴見の2カ所に集約される。鶴見工場は1939年、王寺工場は1937年の操業で、以後の主力工場となった。第二次大戦中は軍需品の生産にあたり、終戦後はすぐ工場設備の復旧に取りかかって、重要産業部門向けの石綿製品の製造を再開している。増資を重ねた資本金は、鶴見工場を設けた頃に180万円となっていた[2][3]

東西2工場のまま迎えた1950年代後半

戦後の同社は、資本市場と品質認証の両面で体裁を整えた。1952年6月に東京証券取引所の店頭売買承認銘柄として公開し、1955年には鶴見工場(石綿板・石綿ジョイントシート)と王寺工場(石綿ジョイントシート・石綿糸・布ほか)がJIS表示工場の指定を受けた。翌1956年4月には横浜市に研究所を設けて各種アスベスト製品の研究体制を厚くしている。売る先も、石油精製・石油化学・鉄鋼・自動車・建築と広がっていた[4][5]

それでも製造の足場は、西の王寺と東の鶴見の2カ所しかなかった。静岡の袋井工場は1964年3月、奈良の郡山工場は1967年9月、茨城の結城工場は1974年9月の設置で、いずれも1959年より後になる。石綿の輸入量が1960年代に急増し、1974年に35万トンの山をつけたことを思えば、1950年代末は需要が伸び始める手前にあたる。製造能力をどこにどう足すかという問いが、東西2工場のままの同社に残されていた[6][7]

決断

稼働中の工場を、会社ごと引き受ける

1959年10月、同社は株式会社祖岳製作所を合併し、その竹鼻工場を新たな工場として受け入れた。竹鼻工場は岐阜県羽島市竹鼻町にあり、後に羽島工場と改称される。更地を買って建屋を起こし、要員を集めて立ち上げるという道を採らず、動いている工場を持つ会社と一緒に取り込む方法を選んだ。工場網の拡張を、設備投資ではなく合併という手段で片づけた一件である[8][9]

受け入れた工場は、新しい設備ではなかった。竹鼻工場の操業開始は1943年で、合併の時点で16年を経ている。同社の公表した製造経緯によれば、この工場ではグランドパッキンが1948年から、うず巻き形ガスケットが1952年から、けい酸カルシウム保温材が1943年から作られていた。合併で手に入ったのは土地と建屋だけでなく、シール材と保温材をすでに流していた製造ラインと、それを回す人であった[10]

上場区分の引き上げと重なった時期

合併は、資本市場での格を上げる動きと時期が重なった。1961年10月に東京証券取引所市場第二部、1962年2月に第一部へと上場区分が上がり、1968年9月には大阪証券取引所市場第一部にも上場した。1952年の店頭公開から東証一部まで10年で、同社は地方に工場を持つ中堅製造業から、複数市場に上場する素材メーカーへと制度上の位置を変えている。竹鼻工場の受け入れは、その途中に置かれた出来事であった[11]

1968年時点で同社は半期売上高67億円強、利益3億円をあげていた。製品の種類が多く需要も強いことから、景気の振れに対しては安定していると当時は見られている。その製品群を作る場所は、合併前の2工場から、竹鼻・袋井・郡山を加えた5工場へと増えていた。1つの工場に何を作らせるかを割り振れる規模になったことが、製品別の専門工場を並べる後年の体制につながった[12]

結果

半世紀を超えて残った工場

竹鼻工場は羽島工場と名を改め、同社の主力工場の1つとして長く動いた。グランドパッキンとうず巻き形ガスケットは2003年まで石綿を含む仕様で製造が続き、合併から数えて44年にわたる。一方で、この工場は同社のアスベスト問題の中心にも置かれた。2005年の週刊東洋経済は、羽島工場で21名の死亡者が出ていること、工場の四方が住宅地であることを伝えている。同社は同年7月9日に住民説明会を開いた[13][14]

石綿含有製品の製造・販売を国内で終えた2006年以降も、羽島工場は閉じられていない。同社の事業所案内によれば、この工場は半導体製造装置向けの高機能樹脂製品、各産業向けのパッキン・ガスケット、オフィス向けのフリーアクセスフロアを作っている。1943年に操業を始めた建屋の系譜が、素材を石綿から樹脂へ替えたうえで、80年を超えて続いている[15]

出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • ニチアス 有価証券報告書 第209期(2025年3月期)【沿革】
  • ニチアス「過去におけるアスベスト含有製品の製造経緯」(2005年7月5日、同年7月17日改)
  • ニチアス 羽島工場(事業所案内)
  • 日経ビジネス 1991年3月11日号「ニチアス。能力主義で脱アスベスト、ぬるま湯体質一掃」
  • 週刊東洋経済 2005年7月23日号「[TheHeadline/ニュース最前線]周辺住民にもついに被害波及 増殖するアスベスト不安 企業公表相次ぐも、本格救済に問題山積」
  • 週刊東洋経済 2005年7月30日号「SPECIAL REPORT 増殖するアスベスト被害 10万人死亡説でもまだ少ない! 石綿"地雷"招いた官民の大罪」

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