東京製鐵全株式を取得していた大丸製鋼の吸収合併と九州工場の開設
市況の底で拠点を買うか、待つか——電炉4極の生産網をどう組み上げたか
- 概要
- 1971年9月、東京製鐵が1969年7月以降に全株式を取得していた大丸製鋼(資本金500万円)を吸収合併し、その設備を自社の九州工場として操業を始めた経営判断。前年2月に取得していた福岡県北九州市の工場用地とあわせ、岡山・高知に続く西日本の生産拠点を九州へ広げた。
- 背景
- 東京製鐵は1960年代に主軸を東京から岡山県倉敷市へ移し、1962年に岡山工場の平炉、1969年に大形圧延工場を稼働させていた。同じ1969年には土佐電気製鋼所から高知工場を譲り受けている。九州の用地取得は1970年2月で、鉄鋼需要が縮んだ時期と重なった。
- 内容
- 買収した会社を子会社として残さず、法人を消して自社の一工場に組み替えた。合併から2カ月後の1971年11月には九州工場に50トン電気炉2基と連続鋳造設備2基が完成し、設備の更新合理化を終えて生産に入った。1973年2月には圧延工場が完成して中形形鋼の生産が始まった。
- 含意
- 1971年11月期の単独売上高は251億円と前期の335億円から縮み、当期純利益は1億円まで落ちていた。市況が落ちた年に拠点を一つ増やす選択で、1975年12月の土佐電気製鋼所の吸収合併とあわせ、岡山・九州・高松・関東の4極が揃った。
買った拠点を、買った形のまま使わない
この合併で東京製鐵が得たものは、大丸製鋼という会社ではなく、北九州に鋼をつくる場所を持つ権利であった。全株式を先に押さえて2年余り置き、用地を隣に確保してから法人を消し、2カ月後には50トン電気炉2基と連続鋳造設備2基へ設備を入れ替えている。買収した事業をそのまま動かして果実を待つやり方とは、時間の使い方がまるで違う。市況が沈んで自社の当期純利益が1億円まで落ちた年にこの工程を進めたところに、池谷太郎氏の「10年の先取り」という物差しがそのまま表れているとみることができる。
一方で、4極という配置そのものは経営の目標ではなかったようにみえる。千住も高知も高松も、需要と原料の集まり方が変われば閉じられ、あるいは物流の拠点へ姿を変えた。残ったのは工場の数ではなく、買った敷地の中身を最新の炉へ入れ替える手順のほうであった。1971年に九州で試したその手順は、1978年の岡山工場の平炉停止と140トン電気炉、1991年の岡山工場のホットコイル設備へと、同じ形で繰り返されている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
東京から岡山へ移した主軸と、西日本での拠点づくり
東京製鐵は1934年に東京都足立区で創業した電炉メーカーであったが、1960年代に入って生産の主軸を西日本へ移した。1960年7月に岡山県倉敷市で工場用地約50万3,000平方メートルを工場誘致条例に基づいて取得し、1962年10月に岡山工場の第1号平炉が操業を始めた。以後この工場には120トン平炉5基と中形小形圧延設備が並び、1969年1月には大形圧延工場が完成して大形H形鋼の生産に入った。同年2月には土佐電気製鋼所から高知工場を譲り受け、四国にも足場を置いた[1]。
拠点を足していく手つきは、当時の経営者であった池谷太郎氏の考え方から出ていた。池谷氏は戦前に東亜鋼管工業を興し、戦後は戦災を免れた東京製鐵の経営に入って、鋼材の公販制度に反対し、鉄屑カルテルにも加わらない独立の道を選んだ。設備投資については「10年の先取り」を基準に置き、需要が読める時期ではなく、市況の落ちた時期にこそ更新と増設を重ねた。1970年2月に福岡県北九州市で工場用地約15万4,000平方メートルを取得したのも、この考え方の延長にあった[2][3]。
需要が縮んだ1971年という年
九州への進出が動いたのは、鉄鋼の需要が縮んだ時期であった。1971年11月期の単独売上高は251億円で、前期の335億円から4分の1が消えた。経常利益は32億円から10億円へ、当期純利益は23億円から1億円へと落ちている。手元の資金を守って市況の回復を待つ選択もありえたが、東京製鐵は北九州の用地取得に続けて、すでに株式を押さえていた同業他社の設備を自社の工場へ組み替える作業に入った[4]。
熱源の問題も残っていた。主力の岡山工場は重油でくず鉄を溶かす120トン平炉が中心で、電気炉への切り替えはまだ済んでいない。九州の新拠点をどちらの炉で立ち上げるかは、後の全社の設備更新の順序を決める選択でもあった。実際に岡山工場が平炉を止めるのは1977年12月で、電炉の操業技術を先に身につけたのは九州工場のほうであった。岡山工場が1978年に140トン電気炉を据えたとき、同工場は電炉の操業を学ぶために九州工場へ人を送っている[5][6]。
決断
全株式取得から吸収合併へ
大丸製鋼は資本金500万円の小さな会社であった。東京製鐵は1969年7月以降にその全株式を取得して傘下に収め、1971年9月に吸収合併して、その設備を自社の九州工場として操業させた。買った会社を子会社のまま残して収益を待つのではなく、法人格を消して一つの工場に畳み込む形を採っている。用地は前年2月に取得した北九州市の約15万4,000平方メートルで、買収と用地取得が九州工場という一つの拠点へ束ねられた[7]。
合併は設備の入れ替えと一体であった。1971年11月、九州工場に50トン電気炉2基と連続鋳造設備2基が完成し、設備の更新合理化を終えて生産に入った。鋼塊をいったん固めて分塊圧延にかける従来の工程を省き、溶けた鋼をそのまま鋼片へ鋳込む連続鋳造に切り替える工程である。旧来の設備を引き継いで動かすのではなく、買った拠点の中身を電気炉と連続鋳造へ丸ごと差し替えたところに、この合併の実質があった[8]。
九州工場に圧延の工程が加わったのは1973年である。同年2月に圧延工場が完成して中形形鋼の生産が始まり、6月には岡山工場にも連続鋳造設備が入った。1993年時点で日経ビジネスがまとめた同社の主な投資一覧では、この1973年2月の九州工場圧延工場建設に20億円が充てられている。製鋼から圧延までを一つの敷地で完結させる形は、九州工場ではこの時点で整った[9]。
結果
4極の完成と、その後の縮小
九州工場の稼働から数年のうちに、生産網と資本の形が続けて整った。1974年5月に本社を足立区から千代田区へ移し、同年7月に東京証券取引所市場第二部へ上場する。1975年12月には土佐電気製鋼所を吸収合併して高松工場とし、四国の拠点を譲受から合併へ切り替えた。1976年9月には二部上場からわずか2年で東証一部と大証一部に同時上場している。岡山・九州・高松に関東の千住・江戸川を加えた配置が、この時期の生産網であった[10]。
生産量の伸びは拠点の数に見合っていた。1960年に棒鋼を中心に年間14万トンだった同社の生産量は、1975年には140万トンと10倍に増えている。当時の社員数は2,413人で、1人当たりの生産量は580トンであった。買収と合併で得た敷地に電気炉と連続鋳造を据える手順を繰り返した結果として、東京製鐵は高度成長の終わりまでに全国規模の電炉専業メーカーの形を得た[11]。
もっとも、そろえた拠点がそのまま残ったわけではない。1986年1月に千住工場、1987年3月に高知工場を閉め、生産の機能は中部・西日本へ寄せられた。1975年に合併で得た高松工場も、2012年3月に需給ギャップによる稼働率低下を受けて生産を止め、翌4月には跡地に高松鉄鋼センターが開かれて物流の拠点へ変わった。1971年の合併で加えた九州工場は、2007年1月に厚板設備が完成して現在も稼働している[12][13]。
- 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
- 東京製鐵「東京製鐵の歴史」(沿革)
- 日経ビジネス 1979年3月12日号「10年先の市場をみた設備投資で飛翔」
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「東京製鉄、気迫の生産性倍増」
- 会社年鑑1976年版(日本経済新聞社)掲載の東京製鐵 単独業績