この合併で東京製鐵が得たものは、大丸製鋼という会社ではなく、北九州に鋼をつくる場所を持つ権利であった。全株式を先に押さえて2年余り置き、用地を隣に確保してから法人を消し、2カ月後には50トン電気炉2基と連続鋳造設備2基へ設備を入れ替えている。買収した事業をそのまま動かして果実を待つやり方とは、時間の使い方がまるで違う。市況が沈んで自社の当期純利益が1億円まで減少した年にこの工程を進めたところに、池谷太郎氏の"10年の先取り"という物差しがそのまま表れているのだろう。
一方で、4極という配置そのものは経営の目標ではなかったようにみえる。千住も高知も高松も、需要と原料の集まり方が変われば閉じられ、あるいは物流の拠点へ姿を変えた。残ったのは工場の数ではなく、買った敷地の中身を最新の炉へ入れ替える手順のほうであった。1971年に九州で試したその手順は、1978年の岡山工場の平炉停止と140トン電気炉、1991年の岡山工場のホットコイル設備へと、同じ形で繰り返されている。