オニツカ・ジィティオ・ジェレンク3社合併によるアシックス発足

創業者・鬼塚喜八郎氏はなぜ、対等合併の条件に「同族企業からの脱皮」を掲げたのか

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時期 1977年7月
意思決定者 鬼塚喜八郎 社長
論点 総合スポーツ用品メーカーへの再編と脱同族
概要
1977年7月、シューズ専業のオニツカが、スポーツウエアなどを手がけるジィティオ・ジェレンクの2社と対等合併し、株式会社アシックスが発足した。社名はラテン語「健全な身体に健全な精神があれかし」の頭文字に由来し、シューズから総合スポーツ用品へ事業を広げた再編であった。
背景
国内シェア首位のシューズ専業として東証一部まで駆け上がったオニツカだが、ウエアや用具まで含む総合力を求めると、専業のままでは間口が狭かった。オニツカ・ジィティオ・ジェレンクの3社は事業が相互に補い合う関係にあった。
内容
3社が対等の立場で合併し、鬼塚氏が他の2者に求めた条件は「同族企業からの脱皮」であった。互いの子弟を後継者として特別扱いしないと申し合わせ、縫製7工場やジェレンクU.S.A.を引き継ぎ、社名も一新した。
含意
創業者が自らの世襲を断つことで対等合併を成立させ、合併後は社長が対外活動に回って内部業務を副社長へ委ねる分権へ進んだ。売上は合併後初の通期で前期の2倍超に伸びた。
筆者の見解

世襲を断つことで統合を成立させた合併

この再編の核心は、事業の足し算そのものよりも、対等合併を成立させるために創業者が差し出した「世襲の放棄」にあったとみることができる。オーナー3人が集まる合併では、誰の子が跡を継ぐか、どの社が主導権を握るかをめぐる争いが起きやすい。鬼塚氏はその火種を、合併の入り口で「同族企業からの脱皮」という約束に置き換えた。自らも創業者でありながら、真っ先に自分の一族の特権を手放して見せたところに、この合併の説得力があったとみられる。

社名からオニツカという創業者の姓を外し、青少年育成というスポーツ観をラテン語の頭文字に託したことも、同じ思想の延長にあった。合併後の規模の倍増は、3社の事業が確かに補い合っていたことを示している。もっとも、脱同族の理念を掲げた合併が、その後の非創業家による経営承継や近年のプロ経営者の登用までまっすぐに結んだかどうかは、後年の歩みが答えることになる。創業家の世襲と対等統合をどう両立させるかという問いを、アシックスは発足の時点で経営の中心へ据えていた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

シューズ専業として東証一部へ

合併に至るまでのオニツカは、スポーツシューズの専業メーカーとして着々と地歩を固めていた。1964年に神戸証券取引所へ上場すると、多品種少量生産を特長にスポーツ用シューズのシェアで国内首位を占め、量産できる製品は一貫生産で作り分ける体制を敷いた。1972年に東京証券取引所第二部、1974年6月には東京・大阪証券取引所第一部へと市場区分を上げ、創業から25年で一部上場企業となった[1][2]

1975年8月には欧州市場の開拓に向けて現地法人を設けて欧州事業を始め、輸出比率の高い専業メーカーとして海外へも踏み込んだ。売上高は1976年1月期の104億円から1977年1月期には139億円へ伸び、シューズ一本での成長は続いていた。それでも、競技靴の周辺にはウエアや用具といった隣接市場が広がり、シューズだけでは総合スポーツ用品の間口を覆いきれない状態にあった[3][4]

事業が補い合う3社

合併の相手は、鬼塚氏の率いるオニツカと商圏を接する2社であった。スポーツウエアを手がける寺西光治氏のジィティオ、そして臼井一馬氏のジェレンクである。シューズのオニツカ、ウエアのジィティオ、縫製工場や米国拠点を持つジェレンクという3社の顔ぶれは、競技者の足元から装いまでを一つの企業でそろえる総合スポーツ用品メーカーの輪郭を描いていた[5]

もっとも、事業が補い合うだけでは合併は成立しない。3社はいずれもオーナーが率いる同族色の濃い会社であり、対等の統合には、それぞれの創業者が自社への執着や後継の思惑を持ち込まない覚悟が要った。合併をまとめるうえで最大の難所は、事業の組み合わせよりも、経営者どうしのエゴをどう抑えるかにあった[6]

決断

対等合併とアシックスの誕生

1977年7月、オニツカを存続会社として、商号を株式会社アシックスへ変更し、株式会社ジィティオおよびジェレンク株式会社と合併した。この統合で、縫製7工場やジェレンクU.S.A.,Inc.(のちのアシックススポーツオブアメリカ)などを引き継ぎ、シューズにウエア・用具を束ねた事業構成を一つの会社に集約した[7]

新社名には、創業以来の志が言葉として刻まれた。「アシックス」(ASICS)は、ラテン語「Anima Sana In Corpore Sano(健全な身体に健全な精神があれかし)」の頭文字を並べたもので、スポーツによる青少年育成という鬼塚氏の創業哲学を社名そのものに込めた。オニツカという創業者の姓を冠した商号を退け、理念を表す言葉へ改めたところに、この再編の性格がにじむ[8]

「同族企業からの脱皮」という合併条件

対等合併にあたって鬼塚氏が他の2者に求めた条件は、「同族企業からの脱皮」であった。最終合意の場では、「自分達の子供を、後継者として特別扱いしない」という一点を、3者が互いに申し合わせた。個人の欲望から抜け出さないと疑心暗鬼で合併はすぐ壊れる、というのが鬼塚氏の基本的な考えであり、世襲の放棄という約束こそが対等の統合を支えるという読みであった[9]

合併後の体制で鬼塚氏が社長に就いたのも、権力を求めた結果ではなかった。「鬼塚さん、あんたが社長をやれ」と後押ししたのは、寺西・臼井両氏の自制心であったと鬼塚氏は振り返る。互いに世襲を放棄するという合意があったからこそ、誰が社長に就くかをめぐる争いは表面化しなかった。「幸せの世襲あってたまるか」という言葉に、脱同族を旗印に掲げた合併の思想が凝縮している[10]

結果

規模の倍増と、会社を留守にする経営

3社の合算により、事業規模は一気に膨らんだ。合併前の1977年1月期に139億円だったオニツカ単体の売上高は、合併後初の通期となる1978年1月期に295億円へと2倍超に伸び、経常利益も18億円を計上した。総合スポーツ用品メーカーとしての土台が数字にも表れ、以後アシックスは1980年代を通じて年商数百億円規模へと成長を続けた[11]

合併の思想は、その後の鬼塚氏の身の置き方にも表れた。世襲を放棄した合意を守るため、鬼塚氏は経営上の重要な決定は自ら握りながらも、日常業務は両副社長に委ね、県知事・市長や業界団体などおよそ30の公職をこなして外を回った。長女の婿、寺西氏の長男・二男、臼井氏の長男の4人がいずれも30代でアシックスに入っていたが、鬼塚氏は「うちは実力人事」として、35〜36歳で役員にするようなことは絶対にしないと明言し、子弟の特別扱いを退けた[12][13]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1985年8月19日号「『幸せの世襲あってたまるか』脱同族が旗印、創業の気概」
  • アシックス 有価証券報告書【沿革】
  • アシックス 会社年鑑(1986年版)
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)