住友金属工業小倉製鋼の合併による銑鋼一貫体制の確立

広畑製鉄所の共同管理に敗れた住友金属工業は、銑鉄をどこから手に入れたか

意思決定者(推定) 広田壽一 住友金属工業 社長
論点 銑鉄を自前で持たない加工メーカーが、高炉をどう確保するか
概要
1953年7月、住友金属工業が小倉製鋼を吸収合併して小倉製鉄所を発足させ、銑鋼一貫の態勢を確立した経営判断。合併に伴い資本金は25億円となり、翌1954年6月には50億円へ増えた。線材・棒鋼の製造にも進出している。
背景
前身の扶桑金属工業は1949年の企業再建整備で第二会社となり、五工場まで縮小していた。鋼管と鉄道車輌用品という加工品には強かったが、原料の銑鉄を自前で持たない。1947年には川崎重工・神戸製鋼とともに日本製鉄の広畑製鉄所の共同管理を主張したが、日鉄の巻き返しで通らなかった。
内容
1952年5月に商号を扶桑金属工業から住友金属工業へ戻し、翌1953年7月に小倉製鋼を合併した。1952年いっぱい続いた不況下では平炉メーカーと単圧メーカーの系列化が進み、八幡製鉄による徳山鉄板・大阪鉄板の合併などと並んで、この吸収は業界再編の代表例に数えられた。
含意
銑鉄の外部購入という制約を、新設ではなく既存の中小高炉メーカーの買収で外した。ただし小倉は内陸の製鉄所であり、原料輸入と製品輸出に直結する臨海一貫製鉄所を得たのは、1961年の和歌山第1高炉からである。
筆者の見解

買った高炉は、内陸にあった

銑鉄の自給という制約は外れたが、外れ方には限界があった。小倉製鉄所は北九州の内陸に位置し、原料の鉄鉱石と原料炭を輸入して大型船で運び込み、製品を船で出すという臨海一貫製鉄所の経済性を持たない。同じ時期、川崎製鉄の西山弥太郎社長は千葉での一貫製鉄所建設に踏み切り、銑鉄を外部から買う方式そのものから抜け出す道を選んでいた。住友金属が選んだのは、既存の高炉を買って当面の供給を確保する道である。速く、確実で、資金の負担も小さい。反面、立地の制約は買った時点で決まってしまう。

この差が埋まるのは、1961年3月に和歌山製鉄所の第1高炉へ火入れするまで待たねばならなかった。買収から八年、その間に鉄鋼業は第一次合理化計画を終え、設備の近代化が進んでいる。買って時間を買った判断が正しかったかどうかは、和歌山と、さらに1968年に発足する鹿島という二つの臨海製鉄所を得たあとの姿で測るほかない。もっとも、二拠点を抱えた構造が四十年後に和歌山問題として重くのしかかることまでは、この時点では見通しようがなかった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

銑鉄を持たない加工メーカーという弱み

戦後の再出発は、規模の縮小から始まった。1949年7月、企業再建整備計画の認可に基づいて第二会社の新扶桑金属工業が資本金7億円で設立され、旧法人の扶桑金属工業は解散した。承継したのは稼動していた八工場だが、1950年12月に鳴海と豊橋の二工場を分離し、1951年には堅田工場を閉鎖している。残ったのは製鋼所、鋼管製造所、和歌山製造所、吹田製作所、伸銅所の五つであった。戦時の最盛期に十九あった主要工場は、四年で四分の一近くまで減った[1]

品種の構成には強みがあった。鋼管では高級鋼管を主体に米国と南米へ油井用鋼管を輸出し、鉄道車輌用品では戦前から国鉄と私鉄に納めてインドやアルゼンチンへ輪軸を送っていた。しかし、どちらも鋼を加工して付加価値をつける事業であり、その素材である銑鉄は外部から買うほかない。終戦直後に国内へ残った高炉は八幡製鉄所の三基だけで、戦時最盛期の三十七基から激減していた[3]。銑鉄の供給が細れば、加工の技術がいくら高くても生産は止まる[2]

広畑製鉄所をめぐる争奪に敗れる

銑鉄を得る機会は一度あった。1947年3月にGHQ反トラスト課が示した日本製鉄の解体案は、八幡製鉄所を一社、輪西と釜石の二製鉄所をもう一社とし、広畑製鉄所は当分そのままにするという内容であった。広畑が宙に浮いた形になり、これに目をつけたのが川崎重工、神戸製鋼所、扶桑金属という関西系メーカーである。広畑は日産千屯の高炉二基とすぐれた鋼板生産設備を持つ最新鋭工場であった。三社は共同管理を主張し、銑鉄の安定した供給を確保するとともに、有力な競争相手となる鋼板設備を先に手中へ収めることを狙った[4][5]

決断

買って手に入れるという選択

1952年5月、商号を住友金属工業へ戻した。財閥解体で住友の名を外してから六年半が経っていた。翌1953年7月、小倉製鋼を合併して小倉製鉄所を発足させ、銑鋼一貫の態勢を確立している。合併に伴って資本金は25億円となり、1954年6月にはさらに50億円へ増えた。線材や棒鋼の製造にも進出し、鋼管と鉄道車輌用品に偏っていた品種の幅が広がった[7]。広畑で果たせなかった銑鉄の確保を、新設ではなく既存の高炉メーカーの買収によって実現したことになる[6]

この判断は、当時の業界の潮流に沿ってもいた。朝鮮動乱のブームが1951年6月のマリク声明で終わると鉄鋼市況は反落し、不況は1952年いっぱい続いた。この不況下の再編で目立ったのが、平炉メーカーと単圧メーカーの系列化である。八幡製鉄による徳山鉄板・大阪鉄板の合併と日亜製鋼の系列化、富士製鉄による大同鋼板・大阪製鋼・大和製鋼の系列化、日本鋼管による東芝製鋼・中山鋼業の系列化が相次ぎ、住友金属の小倉製鋼吸収もその代表例として並べられた。銑鉄を持つ側と持たない側の結合が、この時期に一斉に起きた[8]

結果

六大メーカーの一角へ

合併から二年後、1955年3月期の売上高は133億3,000万円に達し、鉄鋼部門がその八割を占めて、わが国六大メーカーの一つに数えられた[9]。品種の構成は他の高炉メーカーと明確に違っていた。鉄道車輌用品は同社独特の製品として国鉄と私鉄に納められ、鋼管は二大メーカーの一角を占めた。和歌山製造所には1951年に米国製の電縫管設備、1953年にドイツ製の帯鋼圧延機を据えている[10]。非鉄部門は名古屋の伸銅所に集中し、こちらも三大メーカーの一つであった。薄板の量産で規模を競うのではなく、特定用途の高級品で稼ぐ構造が固まった。

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友金属工業」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-苦難に続く試練」
  • 有価証券報告書(2012年3月期)

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