銑鉄の自給という制約は外れたが、外れ方には限界があった。小倉製鉄所は北九州の内陸に位置し、原料の鉄鉱石と原料炭を輸入して大型船で運び込み、製品を船で出すという臨海一貫製鉄所の経済性を持たない。同じ時期、川崎製鉄の西山弥太郎社長は千葉での一貫製鉄所建設に踏み切り、銑鉄を外部から買う方式そのものから抜け出す方針を選んでいた。住友金属が選んだのは、既存の高炉を買って当面の供給を確保する方針である。速く、確実で、資金の負担も小さい。反面、立地の制約は買った時点で決まってしまう。
この差が埋まるのは、1961年3月に和歌山製鉄所の第1高炉へ火入れするまで待たねばならなかった。買収から八年、その間に鉄鋼業は第一次合理化計画を終え、設備の近代化が進んでいる。買って時間を買った判断が正しかったかどうかは、和歌山と、さらに1968年に発足する鹿島という二つの臨海製鉄所を得たあとの姿で測るほかない。もっとも、二拠点を抱えた構造が四十年後に和歌山問題として重くのしかかることまでは、この時点では見通しようがなかった。