三菱の商事活動は、1870年に岩崎弥太郎氏が土佐藩の所有船の払い下げを受けて九十九商会を興した[1]ことに始まる。社章のスリーダイヤモンドには、岩崎家の紋章である三階菱を図案化したという説と、岩崎家の属した土佐藩山内家の紋章である三柏を図案化したという説がある[2]。1881年には石炭を郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)を通じて輸出し[3]、本格的に貿易業へ踏み込んだ。1893年、財閥としての基礎が固まったことから三菱社は三菱合資会社へ改組され、商事部門はその管轄下に置かれて三菱合資営業部[4]となった。
1918年4月、三菱合資会社の営業部門が資本金1500万円で分離し[5]、旧三菱商事が発足した[6]。同年5月に営業部の事業を継承し、本店に総務・石炭・金属・雑貨・船舶の五部門を置いている[7]。国内品の内地販売よりも対外輸出入取引や外国間取引に重点を置く構えで、昭和10年代には三井物産と並ぶ二大貿易商社として海外へ取引を広げた[8]。開戦時の1941年、三菱本社傘下の事業会社は32社・払込資本金20億5000万円、ほかに支配会社135社・同6億500万円を数え、合計27億円に達している[9]。
1945年9月25日、経済科学局長のクレーマー大佐が三菱本社を訪れ、自発的に解体するよう申し入れた[10]。応対した三菱商事社長の田中完三氏は、病気療養中の本社社長・岩崎小彌太氏に報告し[11]、10月5日に陳述書を提出している[12]。小彌太氏は『自分は一万三〇〇〇名の株主の信頼に背き、自発的に解散することは信義上からも断じて為しえない』[引用元]との考えを崩さなかった。安田が10月13日、三井と住友が10月22日に自発的解体を受け入れ[13]、残るは三菱だけとなる。10月29日に大蔵省が四大財閥の代表を集めた席でも三菱は留保し[14]、理事長の船田一雄氏が小彌太氏の了承を得ないまま受諾を決めた。小彌太氏は同年12月2日[15]、67歳で世を去った。
1946年12月、三菱商事は持株整理委員会の第三次指定を受けた[16]。存続すら危ぶまれると見た社内はA・B・Cの三つの分割案を自ら作ってGHQへ提出し、さらに強硬な方針が伝えられたため10社分割案まで用意している[17]。ところが1947年7月5日、大蔵省へ呼び出された渉外部長が手渡された7月3日付の覚書[18]は、数社への分割という措置すら承認せず、三井物産とともにあらゆる形での存続を許さない完全な解散を命じるものだった[19]。覚書は復活を防ぐため、過去10年間に役員や部長を務めた者を新会社が2名以上雇うことを禁じ、100名を超える従業員が新会社を組織すること、従来の事務所を占有すること、三菱商事に類似した商号を使うことも併せて禁じた[20]。
法的な解散日は1947年11月30日だが、この日が日曜であったため前日、高垣勝次郎社長が社員を前に別れの挨拶をした[21]。『一生の運命をこの会社とともにせんと念願しておりましたわれわれとしては、中途にして以上のごとき悲運に遭遇し、離散のやむなきにいたったことは、遺憾至極であります』[引用元]。当時の従業員約4100名は、清算事務に残った若干を除いて120以上の新会社へ分散した[22]。旧三菱商事の清算そのものは長く続き、結了したのは1987年11月であった[23]。
1950年4月1日、旧三菱商事が発起人となり、特定の債権債務を継承して処理しながら営業する第二会社として光和実業が設立[24]された。資本金は3000万円、事業目的は不動産の賃貸業・倉庫業・運送取扱業・保険代理業に限られ[25]ている。同年11月には『三井物産、三菱商事両社の旧役職員の就職制限等に関する政令』[引用元]が閣議決定され、これを契機に合同を目指す動きが急速に進み始めた[26]。1952年4月にサンフランシスコ平和条約が発効すると三菱の商号とスリーダイヤモンドの商標が自由に使えるようになり[27]、同年8月、光和実業は三菱商事の商号を登記して社名を取り戻した[28]。
一方、解散で分かれた新会社の再編も進み、1952年には12社が不二商事・東京貿易・東西交易の三社に集約された[29]。残るはこの三社と光和実業の合同であったが、規模も収益力も異なる会社をまとめる交渉は容易に進まなかった[30]。『小異を捨てて、大同に就く』[引用元]を合い言葉に、旧三菱商事の社長を務めた田中完三氏・服部一郎氏・高垣勝次郎氏の三長老が主導し[31]、四社の首脳が努力を重ねた結果、1953年12月に合意が成り、翌1954年1月に合併契約書へ調印した[32]。
1954年6月、三菱商事は東京証券取引所に株式を上場した[33]。翌7月1日、不二商事・東京貿易・東西交易の三社を吸収合併し[34]、資本金を6億5000万円へ増やしたうえで、定款の事業目的に各種物品の売買業・輸出入業などを加えて総合商社として新発足している[35]。合併各社の支店と現地法人も同時に統合され、合併と同じ月に米国三菱商事会社を設立した。1955年には独国三菱商事会社、1958年にはオーストラリア三菱商事会社[36]と、解散で失った海外拠点を順に置き直していく段取りであった。倉庫業務は同年4月に子会社の菱光倉庫へ移し[37]ている。
再発足を迎えた1954年の経済環境は[38]、決して恵まれたものではなかった。朝鮮戦争の特需ブームの反動から景気は落ち込み、国際収支も1953年末から1954年5月にかけて赤字を累積させていて[39]、日本経済の前途は楽観を許さない状態にあった。ところが1954年後半からアメリカの景気が回復し、世界経済がいっせいに好況へ転じたことで日本の輸出も持ち直し、国際収支は黒字となった[40]。合同したばかりの三菱商事にとって、この外需の反転が最初の追い風になった[41]。
合同の翌期にあたる1955年3月期、三菱商事は売上高・利益ともに三井物産を抜いて業界首位に立った[42]。再発足した同社が主軸に据えたのは鉄鋼・非鉄・機械であり[43]、戦前から続く繊維取引に偏っていた他の大手商社とは商品構成が異なっていた。これは三菱商事単独の選択というより、重工業と化学を厚く抱える三菱グループの事業構成がそのまま取引構造に映ったもの[44]である。三菱商事は営業基盤に恵まれ、なかでも機械・金属・燃料に強みを持った[45]。
1960年代の日本は高度経済成長政策のもとで重化学工業化を強力に推し進め、その勢いに乗ったのが重化学工業に強い三菱グループと、それを地盤とする三菱商事であった[46]。1967年9月期には売上高1兆166億2000万円を計上し、半期で初めて1兆円台に到達し[47]ている。この間、三井物産が木下産商を吸収したことで一時は首位の座を譲ったものの、同じ期に再び追い抜いて業界トップへ戻った[48]。1968年時点の資本金は225億円、半期売上高1兆1320億円、半期利益24億円[49]、従業員は7783名を数えた。
三菱商事は、事業部ごとの独立採算制を敷く三井物産と対照的に、組織に重点を置いた中央集権制を長く採ってきた[50]。この体制は組織が個人の創意を削ぎ、機動性を欠く結果を招い[51]ていた。資本自由化と産業界の再編成が進むなか、日商岩井のように積極的な合併で転換期を乗り越えようとする動きも現れ、三菱商事も合併へ積極的に取り組もうとしていた[52]。1968年5月末には河野三菱重工社長と大久保三菱電機社長の両氏を取締役に迎え[53]、グループとの結び付きを役員構成の面でも強めた。
1968年10月1日、三菱商事は営業部門を商品本部制へ移行した[54]。取扱商品ごとに本部を置いて権限を下ろす組織であり、内外の情勢の変化に合わせて規模を一段と広げる狙いがあった[55]。当時の社長は藤野忠次郎氏で、前社長の荘清彦氏は三菱グループの社長会である金曜会の代表世話人を務めて[56]グループの支柱となっていた。荘氏の没後は、藤野忠次郎社長が三菱銀行頭取の田實渉氏とともに、代表幹事である三菱重工会長の藤井深造氏を助けて金曜会の実質的な取りまとめ役となる[57]。商品本部制はその後も維持され、現在の各営業グループの原型[58]となった。
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|---|---|---|---|---|
| 1870〜1953年九十九商会から旧三菱商事へ、解散が断ち切った商権 | 三菱の営業部門を「三菱商事」として分離 | ★★ | ||
| 光和実業の商号で設立 | ★ | |||
| 三菱商事に商号変更 | ★ | |||
| 1954〜1968年四社合同での再結集と、中央集権から商品本部制へ | 高垣勝次郎 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | |
| 高垣勝次郎 | 三菱商事創業——GHQに解体された旧三菱商事から1954年の四社合同へ 三菱商事の現在の法人は、1954年7月1日の四社合同で総合商社として再発足した。1947年11月にGHQの財閥解体で旧三菱商事が解散し、退社した役職員が約150社の新会社に分かれたのち、清算事務を継いだ第二会社の光和実業が1952年に三菱商事へ商号を戻し、1954年に不二商事・東京貿易・東西交易の3社を吸収合併して資本金6億5000万円で総合商社の営業範囲を回復した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤野忠次郎 | 商品本部制を導入・事業投資を本格化 | ★ | ||
| 藤野忠次郎 | ブルネイLNG開発への参画と事業投資への転換 1967年12月、三菱商事は数億ドル規模のブルネイLNG開発への参画を決断し、1969年に三者合弁の生産会社ブルネイLNG社を設立した経営判断。口銭を得るトレーディングから、資源開発に資本を投じて権益と長期契約を握る事業投資へ、商社の事業モデルを切り替える第一歩となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤野忠次郎 | MITSUBISHI DEVELOPMENT PTY LTDを設立 | ★ | ||
| 1969〜1999年資源開発への参画と、配当に支えられた収益構造 | 田部文一郎 | TRI PETCH ISUZU SALES COMPANYを設立 | ★ | |
| 三村庸平 | サウディ石油化学合弁に調印 | ★ | ||
| 近藤健男 | Kプランを策定・選択と集中を遂行 | ★ | ||
| 諸橋晋六 | チリのエスコンディーダ銅鉱山開発プロジェクト開始 | ★ | ||
| 諸橋晋六 | 米アリステック・ケミカル買収——日本企業初の大型LBOと6年越しの黒字化 1990年3月、三菱商事は米アリステック・ケミカルを総額8億8000万ドルで買収した。買収先の資産を担保に資金を調達するLBOを用い、日本企業の大型買収では初の手法となった。買収直後の景気後退で赤字に沈んだ会社を、三菱商事は6年をかけて黒字へ建て直した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 槙原稔 | サハリン沖原油・LNG開発プロジェクトに参画 | ★ | ||
| 槙原稔 | 「GNPカンパニー」からの脱却と槙原稔社長のトップダウン改革 1990年代半ば、三菱商事は槙原稔社長のもとで、売上高(取扱高)の大きさを競う『GNPカンパニー』から利益の質を重んじる経営へ転じた。就任1年目に財テクの後始末で約660億円の特別損失を処理し、2年目に事業投資を全面的に見直して不採算事業を整理、意思決定機構にもトップダウンでメスを入れた。特別損失は2年間で合計約1600億円に達した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2000〜2026年川下への進出と、資源の振幅、事業の入れ替え | 佐々木幹夫 | ダイエーからのローソン株取得と資本業務提携 2000年、三菱商事は経営再建中のダイエーからコンビニ子会社ローソンの株式を取得し、資本業務提携を結んだ。SPCが発行する株式交換権付き私募債を約1,700億円で引き受け、上場時に20%を握ってダイエーに次ぐ第2位株主となった。EC・金融の拠点として全国の店舗網を得る狙いだった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 佐々木幹夫 | 豪州原料炭合弁会社の権益追加取得 | ★ | ||
| 佐々木幹夫 | 執行役員制度を導入 | ★ | ||
| 佐々木幹夫 | 取締役会の諮問機関としてガバナンス委員会を設置 | ★ | ||
| 佐々木幹夫 | 日商岩井と共同新設分割でメタルワンを設立 | ★★ | ||
| 小林健 | AAS社の株式を取得(チリ銅山) | ★ | ||
| 小林健 | セルマック社を買収(ノルウェー・サケ養殖) | ★ | ||
| 小林健 | チリ銅山AASへの巨額投資と2,712億円の減損 2011年、資源価格が高騰するさなか、三菱商事はチリの銅資産を持つアングロ・アメリカン・スール(AAS)の株式を約4,200億円で取得した。だが銅市況の急落を受け、2016年3月期にこの投資へ2,712億円の減損を計上し、連結決算を始めた1969年度以降で初の最終赤字(1,494億円)に転落した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 垣内威彦 | 中部電力と共同で蘭エネコを約5000億円で買収 2019年11月、三菱商事は中部電力と共同で、オランダの電力会社エネコを約41億ユーロ(約5000億円)で買収する優先交渉権を獲得し、2020年3月に全株取得を完了した。三菱商事が8割、中部電力が2割を出資し、発電から小売りまでを担う欧州の再生可能エネルギー大手を丸ごと取り込む判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中西勝也 | 事業ポートフォリオの入れ替えを本格化 2024年、三菱商事は『循環型成長モデル』の下で事業ポートフォリオの入れ替えを本格化させ、長く経営に関与してきた日本KFCホールディングスの全株式売却と、ローソンの連結除外を相次いで実行した。資源高で積み上げた最高益を原資に、成長性や資本効率の観点から資産を組み替える判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中西勝也 | 総取りした国内洋上風力3海域からの撤退 2025年8月27日、三菱商事が、2021年に企業連合で総取りした国内洋上風力発電の第1ラウンド3海域(秋田由利本荘市沖、能代市・三種町・男鹿市沖、千葉銚子市沖)からの撤退を表明した経営判断。資材価格の高騰と円安のもとで採算が成り立たなくなり、破格の安値で落札した国策プロジェクトを自ら手放す結末となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中西勝也 | 過去最大の総額1.2兆円で米シェールガス開発会社エーソンを買収 2026年1月16日、三菱商事が米テキサス州・ルイジアナ州に跨るヘインズビルシェールで天然ガスの開発・生産・販売を手掛けるエーソン(Aethon)の全持分を約52.0億ドルで取得すると発表した経営判断。有利子負債の引き受けを含む総額は約1兆2,000億円規模と同社の買収案件として過去最大で、2026年7月14日に取得を完了した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(三菱商事)