日商岩井の系譜でもっとも古い店は、1862年に岩井文助氏が大阪で開いた雑貨商[1]であり、舶来雑貨と石油の取扱[2]から商いを始めた。ただし創業年には資料の食い違いがあり、1955年刊の会社銀行八十年史は初代岩井文助氏が明治3年に大阪市東区南久太郎町で雑貨商を起こした[3]と記し、証券アナリストジャーナル1983年6月号は1860年の創業とする。1885年ごろからは、のちに暖簾を継ぐ岩井勝次郎氏——当時は蔭山姓[4]——が、神戸の外国商館との間で居留地貿易を始めた[5]。開港場の外国商館が輸出入の実務を握っていた時代[6]に、内地の商人が外商の手を経ずに品を仕入れる道を探る動きであった。
1896年、岩井勝次郎氏はロンドンのウイリアム・ダッフ商会を代理店に立て[7]、ハンブルク・ウィーン・ニューヨークにも代理店を置いて[8]直輸入貿易を始めた。1904年2月に大阪市東区北浜へ新事務所を建てて移り[9]、翌1905年3月には中国貿易に着手した。同じ年にビルマのラングーンへ絹織物を輸出[10]し、同地からパラフィン蝋と雑穀を輸入した。1907年には東京で白金莫大小工場を経営[11]し、国産のメリヤス製品・マッチ・樟脳・薄荷を南方諸地域へ送る端緒を開いた。1908年にはフィリピンのスミス・ベルと太田興業からマニラ麻の輸入を始め[12]、同地向けに日本雑貨を輸出した。
1912年10月2日、岩井商店は株式会社へ改組し、資本金200万円[13]で新たに発足し、初代社長には岩井勝次郎[14]氏が就いた。岩井勝次郎氏は岩井文助氏の養子で、1896年に独立して岩井商店を起こしていた[15]。1915年12月にニューヨーク出張所を開き[16]、翌1916年10月には岩井家の事業を統べる機関として資本金300万円の合資会社岩井本店[17]を設けた。第一次世界大戦の戦時需要のもとで商いは膨らみ、1918年1月に岩井商店は資本金を500万円へ増やした[18]。同じ年、三井・鈴木商店・湯浅とならんで政府指定の米穀輸入商に選ばれ[19]た。
岩井商店は、輸入で扱っていた品目を国内で作る会社[20]を次々に設立した。1912年の株式会社化から10年ほどの間に興した会社は6社にのぼる[21]。1913年、兵庫県網干に日本セルロイド人造絹絲を興し[22]、それまで輸入に頼っていた製品の国産化[23]を図り、翌1914年3月には大阪鉄板製造を創立[24]した。1918年2月には、当時日本へ入っていた英国ブラナモンド社のソーダ灰と苛性ソーダに対抗するため、同種製品の製造を目的として資本金200万円の日本曹達工業[25]を起こした。大阪鉄板製造は、のちの日本鉄板[26]にあたる。
1918年5月に資本金50万円の関西ペイント[27]、1919年7月に橋梁の建造を目的とする資本金100万円の日本橋梁[28]、1922年2月に毛糸の製造を目的とする資本金400万円の中央毛糸紡績[29]を興した。1928年2月には大阪鉄板製造の徳山工場を分離し、資本金500万円の徳山鉄板[30]を設けた。日本セルロイド人造絹絲はのちのダイセル、日本曹達工業は徳山曹達、中央毛糸紡績は東亜紡織[31]へとつながり、大阪鉄板製造の系統は日新製鋼となった。1968年の合併時点でも、関係会社としてダイセル・日新製鋼・徳山曹達・関西ペイント・日本橋梁の名が並んでいる[32]。
日商岩井のもう一つの系譜は、1874年に鈴木岩治郎氏が神戸で開いた洋糖引取商の鈴木商店にある。大番頭の金子直吉氏のもとで[33]、鈴木商店は人造繊維・化学工業・窒素肥料・製粉・機械・鉄鋼・造船といった近代的な重化学工業を相次いで手がけた[34]。当時の日本で作れるものは穀物・茶・繊維製品・雑貨くらい[35]で、鈴木商店はそこへ製造業を興した。帝人・神戸製鋼所・日本製粉といった、のちに日本経済の資産となる企業がここから育った[36]。傘下の直系・傍系の子会社は、最盛時に内外で50社を超えた[37]。破綻の時点での資本金は8000万円[38]であった。
同じ時期の三井物産は、好況期に膨らむことへ財務から歯止め[39]をかけていた。1915年、渡辺専次郎筆頭常務は大戦の終結とその反動を予想し[40]、取扱商品の選択に注意せよ、固定債権の回収に努めよ[41]という訓令を出して本店の統制を強めた。1918年11月には藤瀬政次郎筆頭常務が手持ち品の売り抜けを各支店に指示[42]し、翌1919年にブームが再来したときも慎重な構えを崩さなかった。鈴木商店には、この種の歯止めをかける人材が金子直吉氏を補佐する位置に育っていなかった[43]と、私の商社昭和史(1987年)は記す。のちに日商を興す高畑誠一氏は、1909年に神戸高等商業学校を出て鈴木商店に入った最初の学校出の社員[44]であった。
1920年の反動恐慌、1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌[45]と続くなかで、鈴木商店は売上の中心であった貿易部門の輸入業務でつまずき、台湾銀行からの巨額の救済融資でかろうじて立っていた[46]。1927年3月26日[47]、高畑誠一氏は台湾銀行東京支店で森広蔵頭取から取引断絶を直接に告げられた。翌4月、金融恐慌のあおりで台湾銀行からの融資が止まり[48]、鈴木商店は倒れた。同じ恐慌で高田商会・茂木合名・増田貿易といった有力商社も相次いで倒れた[49]。一時は三井物産をしのぐ勢いを見せた商社[50]が、昭和初期の商社整理淘汰のなかで倒れた。鈴木商店の海外取引網と人材は、翌年の日商へ引き継がれた[51]。
鈴木商店の破綻時、本社の社員は海外駐在員を含めて約1000人[52]いた。大部分は数か月のうちに神戸製鋼所・帝国人造絹糸・国際汽船などへ移り、数十人が再起を期して残った[53]。台湾銀行や横浜正金銀行といった大口債権者は、金子直吉氏の復帰と『鈴木』の名による再建に反対していた[54]。そこで残った社員は、鈴木商店の直系子会社で永井幸太郎氏が専務として実権を握っていた日本商業を改組する形[55]をとった。1928年2月8日[56]、日商株式会社が創立総会を開き、資本金100万円で発足した。社長は台湾銀行の元副頭取である下坂藤太郎氏、常務は高畑誠一氏と永井幸太郎氏、社員は総勢39人[57]であった。
81万5000円は下坂藤太郎氏と各務謙吉氏の出資、および旧日本商業が台湾銀行・第六十五銀行・横浜正金銀行に負っていた債務の出資金への振替[58]であり、鈴木商店から残った39人が自ら拠出したのは18万5000円[59]にすぎなかった。出資額が最大だったのは台湾銀行の46万500円[60]である。融資を打ち切って鈴木商店を倒した銀行が、その後継会社の筆頭株主になっていた[61]。設立の時点で、台湾銀行は鈴木商店向けに当時の金で4億円近い貸出を抱えていた[62]。日商が台湾銀行の持株を買い戻して独り立ちするのは、設立から4年を経た1932年[63]のことである。
社長を引き受けた下坂藤太郎氏は、出社しない、したがって給料も受け取らない[64]、盆暮れに灘の生一本を薦かぶりで一樽送ってもらえればよい、という条件を出した。1941年に亡くなるまでこの約[65]束は守られた。日商が引き継いだ商権のうち大きかったのは、ボンベイに残った多賀二夫氏が確保したインド・タタ社の銑鉄について日本・香港・中国大陸の一手販売権[66]と、ニューヨークに残った社員が結んだリッチフィールド石油の輸入代理店契約[67]であった。設立を報じたある新聞は、三年ももてば上出来[68]だと書いた。社内が掲げた標語は『スモール、スロウ・バット・ステディ』[引用元][69]である。
日商は事業の伸びにあわせて店を増やし[70]、国内の主要都市に加え、ニューヨーク・ワシントン・ロンドン・ボンベイ・カルカッタ・上海・天津などにも支店と出張所を置き[71]、金属・機械・繊維・穀類・油脂・雑貨を扱った。1940年度の対世界貿易額は貿易商社のなかで第10位[72]を占めた。中国方面では上海と天津を中心に20数か所の支店出張所[73]を設けた。1941年3月に資本金を750万円とし[74]、同じ年にエジプト綿を扱う桜井商店を吸収合併[75]して綿花輸入商としての地位を固めた。太平洋戦争の前後には経営が製造工業へも伸び、1943年7月に日商産業へ商号を改めた[76]。
岩井商店も同じ時期に扱う品目を重くしていった[77]。1929年にシドニー、1932年にメルボルンへ駐在員を送って日本向け羊毛の買付を本格化[78]させ、日本専売局へ納めるためアフリカ英領ソマリランドや中国などから原塩の大量輸入[79]を始めた。1934年には日本製鉄の原料としてフィリピンのカランバガヤン鉄鉱石を輸入[80]し、ミンドロ島のスマギー木材を引き継いでラワン材の対日輸入にも入った。1935年12月に岩井雄二郎氏[81]が社長へ就いた。1937年の日華事変で統制経済に組み込まれ、1941年の開戦でロンドン・ニューヨーク両支店を閉じ[82]、傍系会社との関係も次第に断たれた。1943年6月[83]、岩井商店は岩井産業へ商号を改めた。
敗戦により、日商は在外資産のすべてを失った[84]。岩井産業も在外の支店・出張所43か所を閉じ[85]、取引は一時国内に限られた。両社とも1947年の民間貿易再開で旧来の海外取引先との関係を復活させ、1949年末に民間貿易の制限が撤廃される[86]と海外貿易は活況を取り戻した。日商は1948年3月に過度経済力集中排除法の適用を受けたが同年10月に解除[87]され、同年12月の企業再建整備計画に基づいて、製造部門であった水飴・葡萄糖の製造と煉炭・石灰の製造の各工場を第二会社として分離[88]した。これにともない1949年1月に日商の旧称へ復帰[89]した。岩井産業は1948年8月に特別経理会社の指定を解かれ、同年11月に集中排除法の適用が解除[90]された。
日商は1952年4月にニューヨークで現地法人ザ・ニッショウ・アメリカン・コーポレーションを設立[91]し、対米活動の拠点とした。資本金は1949年1月の2000万円から、同年8月に5000万円、1951年4月に1億円、同年11月に2億円、1953年4月に4億円[92]へと積み上がった。1955年8月25日、株式800万株が新規上場[93]された。1954年9月期の総売上高は532億6203万円、当期純利益は6401万円[94]で、支払利息が8億円に達していた[95]ことが利益を薄くしていた。同年9月末の大株主は中央毛織38万8800株、東京銀行32万4000株、神戸製鋼所29万7200株[96]の順で、鈴木商店から分かれた製造会社が名を連ねていた。
1955年3月期の半期総売上高は298億5900万円[97]で、内訳は輸出69億8900万円、輸入100億3900万円、内地128億3200万円[98]であり、輸出は前の期に比べて倍近く伸びた[99]。全国の通関実績に対する比率でみると、この年の日商は輸出で1.4%、輸入で2.4%[100]を占めていた。一方の岩井産業は、1955年6月に資本金を3億円とし、同年5月期の売上高は259億円[101]であった。日商の会長には創立時からの最高首脳である高畑誠一氏が1943年5月以降就いており、社長は米国太平洋岸の穀類取引を長く手がけた落合豊一氏が1954年11月に引き継いでいた[102]。
日商は鈴木商店から引き継いだ商権に、合併で新しい商品構成を足した[103]。1941年の桜井商店に続き[104]、1954年に信興棉花を吸収合併した。1956年には白洋貿易との合併が調印[105]された。吸収の年は資料によって1955年から1957年まで割れる[106]。白洋貿易は三井物産解体時の社長であった宮崎清氏が世界屈指の穀物商であるブンゲ商会と組んで設立した三井系の商社[107]で、食糧と繊維に強い地盤[108]を持っていた。旧鈴木商店と三井物産の間には長年の対抗意識があり、日商の社内には拒絶反応が出て一度は断った[109]。第一銀行の再三の要請を受けて合[110]併に踏み切った。金属と機械に比重の高かった日商との合併で総合商社としての体制が一段と整った[111]、と企業の歴史 明治百年(1968年)は記す。
商権の幅は原子力と航空機にも及んだ[112]。1956年、原子力基本法の施行を機に、日商をはじめ古河・川崎・神戸製鋼の各系列14社が第一原子力産業グループを結成[113]した。1959年には日本原子力発電が同グループの推す英国GEC社と契約を結び[114]、日本で最初の原子力発電所の建設が始まった。日商は輸入重量物の輸送と保険の分野を担い[115]、海外メーカーの紹介・提携にも関わった。同じ1959年に米ボーイング社の日本総代理店となり[116]、以後727型・737型・747型を国内の航空会社へ納めた。1962年にはLPGを1万6000トン輸入[117]した。液化ガスの取扱実績は、1968年の時点で業界第1位[118]となっている。
1958年秋[119]、落合豊一社長が在職のまま亡くなり、西川政一氏が後を継いだ。日商の創立から30年[120]の年であった。1960年に資本金を35億円へ増やし、取扱高は初めて半期1000億円を超えたが、大手商社のなかでの順位はなお第7位[121]である。1961年には業界に先んじて本社機能の大半を東京へ移した[122]。1963年に資本金を70億円としても順位は変わらず[123]、三井・三菱との差は開くばかりだった。西川氏は後年、規模がすべてではないとしながらも、高度成長期を生き抜くには規模の追求も経営戦略のひとつだったと書き残している[124]。
1963年末から日本の国際収支の赤字が広がり、1964年3月に公定歩合が引き上げられて[125]金融引締めに転じた。1964年10月の東京オリンピックを見込んだ設備拡張の反動[126]でもあった。引締めの影響は鉄鋼・化学・機械へ及び[127]、収益性を無視した市場占有率の競争に走る企業も現れて、経営危機に陥る例が続出したのが40年不況[128]である。1965年3月には山陽特殊製鋼が当時としては戦後最高の500億円近い負債を残して事実上倒産[129]し、5月には山一證券が証券不況の直撃を受けて日銀特融でかろうじて危機を逃れた[130]。
国際競争力の強化を掲げた業界再編[131]がこの時期に相次いだ。三重工の合併による三菱重工業の発足、東洋紡績と呉羽紡績の合併、日産自動車とプリンス自動車の合併[132]が続いた。商社でも、三井物産による木下産商の吸収に加え、1966年6月に丸紅飯田が東通を合併し、1967年に関西五綿の一つであった江商と兼松が一緒になった[133]。のちに石油ショックのなかで安宅産業が伊藤忠商事へ吸収され[134]、10大商社の顔ぶれはさらに減った。1966年の定例幹部会『日商会議』で[135]、日商は他社との合併も辞さないという方針を打ち出した。
岩井産業は創業から100年を数える関西の商社[136]であったが、取引先の倒産が続けて響いていた。1964年12月に会社更生手続の開始を申し立てたサンウエーブ工業は[137]、1966年3月の更生計画認可にあたって日新製鋼・岩井産業・三井物産の3社を中心に再建が図られた。平松商店の倒産[138]も重なった。経営の安定を期しがたくなった岩井産業について、主力銀行である三和銀行から西川氏へ合併の可能性を打診する話が持ち込まれた[139]。1968年4月27日、読売新聞が一面四段抜きで『日商、岩井産業合併、業界第五位の商社に』[引用元]と報じ[140]、5月2日に大阪繊維輸出会館で両社社長が正式発表と仮調印を行った[141]。
1968年10月1日[142]、39人で出発した日商の創立から40年[143]にあたる年に、日商と岩井産業が合併して日商岩井が発足した。両社の単純合計でみた規模は年商約1兆2000億円で、業界第5位[144]に位置した。商品構成は金属40%・物資25%・機械14%・繊維12%・食糧9%[145]、取引別では国内51%・輸入29%・輸出16%・海外4%[146]である。鉄鋼の取扱いは業界第3位となり、工業塩と木材はトップクラスに立った。国内店は約40店、海外店は約74店[147]を数えた。合併の結果、10大商社と呼ばれる体制ができあがり、戦後2度目の商社再編はここで区切りがついた[148]。
貿易商社会の会合で、岩井産業の岩井英夫社長は会の終わりに、この会に出席できるのは今日が最後になるだろうと挨拶した[149]。同席していた三井物産の役員は、その言葉にホロリとしたと同書の著者は書き残した[150]。合併が動き出した矢先の1968年秋、西川氏は脳血栓で倒れて約半年入院した[151]。1969年秋に社長を辻良雄氏へ譲[152]り会長へ退いた。日商岩井の半期取扱高が1兆円を超えたのは1972年で、資本金は154億円[153]になっていた。発足時に6950人だった従業員[154]は、10年後の1978年時点でも約7000人[155]であった。
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|---|---|---|---|---|
| 1862〜1927年舶来雑貨の直輸入から興した製造業と、広げすぎた神戸の砂糖商(1862〜1927) | 1862年の岩井文助商店の創業と、鈴木商店系・日商との合併による日商岩井の発足 日商岩井は、1862年に岩井文助氏が大阪で開いた舶来雑貨と石油の雑貨商と、明治の初めに鈴木岩治郎氏が神戸で開いた鈴木商店という二つの商店に始まる。岩井文助商店は1912年に株式会社岩井商店へ改組し、鈴木商店は1927年に破綻して社員39人が翌年に日商を設立した。両社は1968年10月1日に合併し、年商約1兆2000億円で業界第5位の日商岩井が発足した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岩井勝次郎氏が独立し岩井商店を興す | ★★ | |||
| 岩井商店を株式会社へ改組し資本金200万円で発足 | ★★ | |||
| 資本金500万円へ増資し政府指定の米穀輸入商に選定 | ★ | |||
| 台湾銀行の融資打切りで鈴木商店が破綻 | ★★ | |||
| 1928〜1955年39人が拠出した18万5000円で出た日商と、敗戦をはさんだ岩井(1928〜1955) | 下坂藤太郎 | 鈴木商店の中堅社員39人が日商を設立 | ★★★ | |
| 下坂藤太郎 | エジプト綿の輸入商である桜井商店を吸収合併 | ★ | ||
| 下坂藤太郎 | 岩井商店から岩井産業へ商号を変更 | ★ | ||
| 下坂藤太郎 | 日商から日商産業へ商号を変更 | ★ | ||
| 下坂藤太郎 | 日商が過度経済力集中排除法の適用対象に指定 | ★★ | ||
| 下坂藤太郎 | 日商産業から日商へ復称 | ★ | ||
| 落合豊一 | 日商の株式800万株が新規上場 | ★ | ||
| 1956〜1982年三度の合併で総合商社の形を整え、40年不況が四度目を呼んだ(1956〜1982) | 落合豊一 | 三井系の白洋貿易との合併を調印 | ★★ | |
| 西川政一 | 落合豊一社長の死去により西川政一氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 西川政一 | 米ボーイング社と日本総代理店契約を締結 | ★★ | ||
| 西川政一 | 本社機能の大半を大阪から東京へ移転 | ★ | ||
| 西川政一 | 日商と岩井産業の合併による日商岩井の発足 1968年10月1日、日商が岩井産業を合併して日商岩井が発足した。取引先の倒産が重なった岩井産業について、主力銀行の三和銀行から日商の西川政一社長へ合併の可能性が打診されたことに始まり、両社の単純合計で年商約1兆2000億円、業界第5位の商社となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 西川政一 | 半期取扱高が1兆円を突破 | ★ | ||
| 1983〜2003年8兆円の頂から株価69円へ、財テクが壊した信用と統合(1983〜2003) | 西川政一 | 1983年3月期の売上高が8兆168億円に到達 | ★★ | |
| 草道昌武 | 増資と転換社債で1200億円を調達 | ★ | ||
| 草道昌武 | 金融子会社エヌ・アイ・ファイナンスの整理と、特別損失1610億円の計上 1998年9月25日、日商岩井は金融子会社エヌ・アイ・ファイナンス(NIF)への債権放棄・支援損1120億円を含む特別損失1610億円を計上し、今期無配へ転落すると発表した。1995年3月期・1996年3月期に処理完了と公表していた財テク含み損の、実質的な最終処理にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 草道昌武 | 8金融機関が6000億円の協調融資枠を供与 | ★★ | ||
| 安武史郎 | 6000億円の協調融資枠の受け入れと、有利子負債1兆円の圧縮 1998年末から1999年初にかけて三和銀行をエージェントとする8行から6000億円の融資枠を受け、その引き換えに連結1兆6000億円の資産圧縮と1000人の人員削減を約束した日商岩井が、1999年4月に就いた安武史郎社長のもとで有利子負債を3年で1兆円圧縮した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 安武史郎 | 情報産業本部をITXとして分社 | ★ | ||
| 西村英俊 | ニチメンと日商岩井の株式移転による共同持株会社の設立と、2660億円の優先株発行 2002年12月11日、日商岩井とニチメンが共同持株会社方式による経営統合の方針を発表し、2003年4月に株式移転でニチメン・日商岩井ホールディングスを設立した経営判断。2003年5月には取引金融機関6社と米国の投資銀行リーマン・ブラザーズに対し総額2660億円の優先株を発行し、2004年4月に傘下2社が合併して双日が発足した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(日商岩井)