日商岩井1862年の岩井文助商店の創業と、鈴木商店系・日商との合併による日商岩井の発足
大阪の舶来雑貨商と、破綻した鈴木商店の再起組が106年をへて一つの商社へ合流するまで
- 概要
- 日商岩井は、1862年に岩井文助氏が大阪で開いた舶来雑貨と石油の雑貨商と、明治の初めに鈴木岩治郎氏が神戸で開いた鈴木商店という二つの商店に始まる。岩井文助商店は1912年に株式会社岩井商店へ改組し、鈴木商店は1927年に破綻して社員39人が翌年に日商を設立した。両社は1968年10月1日に合併し、年商約1兆2000億円で業界第5位の日商岩井が発足した。
- 背景
- 岩井系は幕末の開港で流入した舶来雑貨を大阪で扱う雑貨商から出発し、鈴木系は開港地の神戸で台湾産の樟脳と砂糖を扱う小商店から出発した。いずれも輸入した品を国内で売るだけで終わらせず、輸入品に代わる製品を自ら作らせる方向へ進み、岩井商店は日本セルロイド人造絹絲や日本曹達工業を、鈴木商店は帝人や東洋高圧を興している。
- 内容
- 岩井勝次郎氏は1896年にロンドンのウイリアム・ダッフ商会を代理店として直輸入貿易を始め、1912年10月に資本金200万円の株式会社岩井商店を設立して初代社長に就いた。鈴木商店は1927年3月26日に台湾銀行から取引の断絶を通告され、4月2日に倒れた。翌1928年2月8日、高畑誠一氏らは資本金100万円で日商を創立した。
- 含意
- 1968年10月1日の合併で発足した日商岩井は、金属40%・物資25%・機械14%・繊維12%・食糧9%という商品構成と、国内約40店・海外約74店の店舗網を持ち、ダイセル・日新製鋼・徳山曹達・関西ペイント・日本橋梁を関係会社に抱えた。2003年3月に上場を廃止してニチメンとの共同持株会社の傘下に入り、商権と社員は2004年発足の双日へ引き継がれた。
二つの商店が持ち寄ったもの
岩井商店と鈴木商店に共通するのは、輸入した品を売るだけで終えなかったことである。岩井商店は英ブラナモンド社のソーダ灰と苛性ソーダに対抗して資本金200万円の日本曹達工業を興し、鈴木商店は東洋高圧や帝人を含む50社以上の子会社を抱えた。舶来品を取り次ぐ過程で得た情報が、そのまま国産化の投資先を選ぶ材料になったとみられる。1968年に合併した二社が、ともに製造会社の親であった点は偶然とは考えにくい。
鈴木商店は台湾銀行の融資に頼って拡大した末に倒れ、約1000人いた本社の社員のうち再起を期して残ったのは数十人であった。一方の岩井商店は1912年に法人格を得てから途切れずに続き、1968年の合併では鉄鋼と物資の地盤を持ち込んでいる。破綻を経た側と経なかった側が対等の相手として向き合ったところに、日商岩井という会社の成り立ちの特異さがうかがえる。合併から35年後、二つの商店が積み上げた商権は、さらに別の系譜であるニチメンと合わさって双日へ移った。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
幕末の大阪に開いた舶来雑貨商
日商岩井の前身のうち最も古いのは、1862年に岩井文助氏が大阪で開いた雑貨商である。舶来雑貨と石油の取扱いから始めた店で、幕末の開港によって長崎や横浜から入った西洋の品が大阪へ集散する時期にあたる。1885年ごろには岩井勝次郎氏——当時は蔭山姓であった——が神戸の外国商館との間で居留地貿易を始め、岩井家の商いは店頭での小売から輸入品の仕入れそのものへ及んだ[1][2]。
創業の年は、記録によって食い違う。1968年刊の『企業の歴史 明治百年』は文久二年すなわち1862年からとするが、1955年刊の『会社銀行八十年史』は明治3年すなわち1870年に大阪市東区南久太郎町で雑貨商を起こしたと記す。1983年に日商岩井の荒木正雄常務が日本証券アナリスト協会で行った講演では、岩井産業の出発を1860年としている。個人商店の開業には登記のような区切りがなく、後年の記録は三様に分かれた[3][4]。
神戸の鈴木商店と、金子直吉氏の多角化
もう一方の前身は神戸にあった。鈴木商店は明治の初めに開いた小商店で、創業者の鈴木岩治郎氏が没した後、未亡人のヨネ氏から経営を委ねられた番頭の金子直吉氏と柳田富士松氏が事業を大きくした。とりわけ台湾産の樟脳と砂糖の取扱いで伸び、金子氏は穀物や繊維の商いにとどまらず、人造繊維・化学工業・窒素肥料・製粉・機械・鉄鋼・造船といった重化学工業を相次いで手がけた[5][6]。
事業の広がりは子会社の数に表れている。日商岩井の荒木正雄常務は1983年の講演で、鈴木商店の直系・傍系の子会社が最盛時に内外50社以上へ及んだと述べ、空中窒素固定法で伸びた東洋高圧と、人絹製造技術を導入した帝人をその例に挙げた。三井物産に入社した水上達三氏も、鈴木商店を一時は三井物産を凌駕するほどの勢いであったと書き残している[7][8]。
決断
直輸入への転換と、輸入品に代わる製造会社
岩井商店が問屋から貿易商へ移ったのは1896年である。ロンドンのウイリアム・ダッフ商会を代理店に立てて直輸入貿易を始め、ハンブルク・ウィーン・ニューヨークにも代理店を置いた。1904年2月に大阪市東区北浜へ移転し、翌1905年3月には中国貿易へ着手してビルマのラングーンへ絹織物を輸出している。1912年10月2日には資本金200万円の株式会社岩井商店へ改組し、岩井勝次郎氏が初代社長に就いた[9][10]。
輸入で扱った品を国内で作らせる投資が続いた。1913年に日本セルロイド人造絹絲、翌1914年3月に大阪鉄板製造を興し、1918年2月には英ブラナモンド社のソーダ灰と苛性ソーダに対抗する目的で資本金200万円の日本曹達工業を設立している。関西ペイント・日本橋梁・中央毛糸紡績・徳山鉄板も1918年から1928年にかけて相次いで設けた。1918年1月には自社の資本金を500万円へ増やし、三井・鈴木商店・湯浅と並んで政府指定の米穀輸入商に選ばれた[11][12]。
鈴木商店の破綻と、社員39人の再出発
1927年3月26日、鈴木商店の高畑誠一氏は台湾銀行東京支店で、森広蔵頭取から直接、取引の断絶を言い渡された。一週間後の4月2日に鈴木商店は倒れた。倒産の当時、海外の駐在員を含む本社の社員はおよそ1000人で、その大部分は数カ月のうちに神戸製鋼所や帝国人造絹糸など鈴木系の会社へ移った。数十人は再就職をせず、ロンドンやボンベイの支店でも残務整理を続けながら取引先に事情を説明して回った[13][14]。
新会社は、鈴木商店の直系会社であった日本商業を改組して立てられた。1928年2月8日に資本金100万円で創立し、社長には台湾銀行の元副頭取である下坂藤太郎氏を迎え、高畑氏と永井幸太郎氏が常務に就いた。役員と社員は合わせて39人。資本金のうち下坂氏らの出資と旧日本商業の債務振替が81万5000円を占め、残る18万5000円を再起組が拠出した。単独で最大の出資者は46万500円を出した台湾銀行で、日商がその持株を買い戻したのは1932年である[15][16][17]。
結果
1968年10月1日の合併と、日商岩井の規模
1968年10月1日、日商は岩井産業と合併し、社名を日商岩井と改めた。1862年の岩井文助商店から106年、1928年の日商設立から40年をへている。合併時の両社の単純合計でみると年商は約1兆2000億円で、商社の序列では第5位にあたる。商品構成は金属が40%、物資25%、機械14%、繊維12%、食糧9%で、店舗網は国内が約40店、海外が約74店に及んだ[18]。
岩井産業が持ち込んだのは鉄鋼と物資の地盤で、その取扱高は年商4500億円、関係会社にはダイセル・日新製鋼・徳山曹達・関西ペイント・日本橋梁が並んだ。いずれも岩井商店が輸入代替のために興した会社である。日商岩井の上場は2003年3月で終わり、翌4月、ニチメンとの株式移転で設立されたニチメン・日商岩井ホールディングスの完全子会社となった。両社は2004年4月に合併して双日となり、商権と社員はそこへ移った[19][20][21]。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- 私の商社昭和史(1987年)1章「鈴木商店倒産の悲劇」
- 証券アナリストジャーナル 1983年6月号「日商岩井」
- 日本産業史1(有沢広巳 監修、日経文庫、1994年)「製糖——新渡戸局長と台湾糖」
- 週刊東洋経済 2004年4月10日号「ニチメン・日商岩井 ザ・商社「双日」誕生 統合2年目の検証」
- 双日 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】