日商岩井6000億円の協調融資枠の受け入れと、有利子負債1兆円の圧縮

1兆円を返してなお悪化した財務比率と、3年で置かれた期限

時期 1999年4月
意思決定者(推定) 安武史郎(社長)・草道昌武 前社長
論点 財務再建と経営体制
概要
1998年末から1999年初にかけて三和銀行をエージェントとする8行から6000億円の融資枠を受け、その引き換えに連結1兆6000億円の資産圧縮と1000人の人員削減を約束した日商岩井が、1999年4月に就いた安武史郎社長のもとで有利子負債を3年で1兆円圧縮した経営判断。
背景
1998年9月の特別損失計上と格下げでコマーシャルペーパーの借り換えが止まり、資本市場からの調達が閉ざされていた。1999年3月期の連結有利子負債は3兆1051億円、ネットDERは18.6倍であった。
内容
社員の年収を平均20%引き下げ、情報産業本部をITXとして分社し、天然ガスを住友商事へ、鉄鋼を三菱商事へ切り出した。あわせて役員任期を1年に縮め、社外3氏に社長の進退を勧告する権限を与えた。
含意
有利子負債は2001年9月末に2兆1016億円まで1兆円減ったが、株主資本も目減りしたためネットDERは20.8倍へ悪化した。負債の圧縮と財務比率の改善が一致しなかった3年であった。
筆者の見解

返した金額と、残された問い

1兆円を返し終えたところで、ネットDERは18.6倍から20.8倍へ悪化していた。返済が足りなかったのではなく、返す原資を作るたびに株主資本のほうも削られる構造にあった。安武史郎氏がこの3年で残したものを一つ選ぶなら、負債の額よりも、役員任期を1年に縮め、社外の3氏に社長の進退を勧告させる仕組みのほうであろう。派閥抗争が繰り返され、賃金を2割削ってなお動かねばならない会社で、まず手を入れたのが意思決定の側だった点に、この再建の性格がうかがえる。

もっとも、その仕組みが会社を救ったわけではない。株価は70円近辺に張りついたままで、整理損が出うる資産を4000億円と認めながら、損失の規模は最後まで示せずにいた。本体には偶発債務7744億円が残り、ITXも鉄鋼も天然ガスも、切り離した先で伸びるかどうかは相手方の手に移っている。2003年3月に上場を終えるまで日商岩井が答えられなかったのは、負債を1兆円減らしたあとに何で稼ぐのかという一点であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

借り換えの止まったコマーシャルペーパー5530億円

1998年9月25日、日商岩井はデリバティブの含み損を抱えた金融子会社を清算し、特別損失1610億円の計上と無配転落を発表した。ムーディーズは立て続けに5段階の格下げを行い、同社は資本市場から締め出された。問題はその先の資金繰りにあった。1998年9月末の時点でコマーシャルペーパーの残高は5530億円、1年以内に償還期限の来る社債は1880億円ある。格付けが投機的水準へ落ちた以上、社債の借り換えはできない。日本銀行もコマーシャルペーパーの引き受けに消極的になっていた[1][2]

資金の途絶を避けるため、日商岩井は銀行団の協調融資枠を取り付けることに全力を傾けた。1998年12月29日、三和銀行をエージェントとする8行が6000億円の融資枠を供与する。同じ融資について、並行メインの三和銀行と第一勧業銀行が音頭を取り1999年1月に設定したと伝える記事もあり、成立の時期は1998年末から1999年初にかけての幅で読むほかない。返済期限は3年後に置かれた。この枠でコマーシャルペーパーと社債の穴はひとまず埋まった[3][4]

1兆6000億円の資産圧縮という代償

融資枠と引き換えに日商岩井が示したのは、連結ベースで1兆6000億円の資産圧縮と、1000人の人員削減であった。資産で3割、人員で25%にあたる。第一次のリストラ案に比べ人員削減数は2倍以上に膨らみ、4人に1人が会社を去る計算になった。特別損失を埋めるための資産売却も並行して進み、大阪本社、パソコン通信のニフティ、国際宅配便のDHLの株式といった資産が、1998年から1999年にかけてほぼ根こそぎ売られた[5][6]

それでも手元に余裕は生まれなかった。1998年度の日商岩井は、手元流動性の減少額が全社のなかで上位に入っている。減少額の3分の2にあたる989億円を有利子負債の削減に充て、1400億円強の社債の償還には手元資金で対応した。1999年3月期の連結繰越損は349億円に達し、6000億円の協調融資枠も残高5000億円ですでに満杯であった。同年3月末の連結有利子負債は3兆1051億円、ネットDERは18.6倍である[7][8][9]

決断

17人抜きの社長交代

1999年3月24日、草道昌武社長は安武史郎常務に社長就任を打診した。人事の発表は3月26日、就任は4月1日である。57歳の安武氏は経営会議のメンバーのなかで最年少であり、17人抜きの登用であった。商社幹部は「古手の業界紙記者も全くのノーマーク、『安武フー?』だ」(週刊東洋経済 1999/4/10)と述べている。草道氏は取締役相談役に退き、6月の株主総会で取締役からも離れた。役員会そのものを組み替える余地は、これで開いた[10][11]

安武氏は1941年9月30日に生まれ、1964年に九州大学経済学部を卒業して旧日商へ入社した。1988年に車輌交通システム部長となり、ソウル支店長、建設・不動産本部長を経て1996年に取締役、1998年に常務兼機械第一部門長へ進んでいる。日商岩井の社風は「野武士集団」(週刊東洋経済 1999/10/16)と形容され、営業部門間の不和と派閥抗争が繰り返されてきた。安武氏は「とにかく私は派閥が大嫌い」(週刊東洋経済 1999/10/16)と述べ、派閥意識を捨てられない者は役員から外すと明言した[12][13]

賃金2割減と、銀行を悪役に使うこと

再建は人と賃金から入った。1998年4月に4200人だった社員を2002年4月までに1000人減らし、1999年度は社員の年収を平均20%引き下げる。安武氏は「他社並みのことをしていてはだめだ」(週刊東洋経済 1999/10/16)と語った。ドラスティックなことをしなければ意識改革ができない、というのがその理由であった。銀行が置いた3年という期限に対し、1年半か2年で片づける構えであった[14][15]

銀行も前へ出た。1999年4月、三和銀行と第一勧業銀行はそれぞれ専務を日商岩井へ送り込む。三和銀行の望月高世専務は「銀行を悪役に使って、リストラを進めてもらいたい」(週刊東洋経済 1999/10/16)と述べた。安武氏がこければ後はない、とも語っている。1999年3月末の連結有利子負債を3年で2兆2000億円へ削るというのが、このとき置かれた目標である[16][17]

結果

分社と、社長を独裁者にしない仕組み

2000年3月、日商岩井は情報産業本部を新会社ITXとして分社した。手続きは営業譲渡である。日商岩井エレクトロニクス、スカイパーフェクTV、J-SATといった事業投資先を移し、三和銀行・オリンパス光学工業・船井電機・帝人の4社が合計約700億円を出資した。簿価は推定31億円弱で、700億円近い売却益が本体に入る。情報産業本部員の98%にあたる126人がITXへ転籍した。もっとも、事業の切り売りが続けば最後にバッドカンパニーだけが残るという懸念も、市場側にはあった[18][19][20]

組織の規律も同じ時期に組み替えられた。2000年4月から役員の任期は1年に短縮され、役員を選任する委員会も新設される。2001年にはアドバイザリー・ボードが置かれ、富士ゼロックス会長の小林陽太郎氏、慶應義塾大学教授の竹中平蔵氏、日本ケイデンス・デザイン・システムズ社長のグレン・S・フクシマ氏の3氏に、社長の進退問題や後任選びを勧告する権限が与えられた。安武氏はこれを「自分が初心でいるうちに、社長を独裁者にしない仕組みを作っておきたい」(週刊東洋経済 2001/3/3)と説明している[21][22]

1兆円を返して、悪化した財務比率

事業の切り出しはその後も続いた。2001年3月に持ち合い株の時価会計を前倒しで導入し、同年9月には分社した天然ガス事業の株式50%を住友商事へ譲渡する。2002年10月をめどに三菱商事と鉄鋼事業を折半出資で統合することでも合意し、鉄鋼製品部門の分社では1300億円の負債削減を見込んだ。2002年3月には厚生年金基金を解散して401kを導入し、年金費用を毎期40億円から50億円軽くしている[23][24]

負債は計画どおりに減った。1999年3月期に3兆1051億円あった有利子負債は、2001年9月には2兆1016億円まで落ちている。3年足らずで1兆円の圧縮である。ところが同じ時点のネットDERは20.8倍で、リストラ開始直前の18.6倍より悪い。リストラに伴う損失と時価会計の導入で、分母にあたる株主資本が目減りしたためであった。連結有利子負債2兆4033億円のうち本体の借り入れは1兆4379億円、これに偶発債務7744億円が加わる[25][26][27]

未完のまま迎えた経営統合

2002年1月29日、日商岩井は2005年3月期を最終年度とする新しいリストラ計画を発表した。有利子負債をさらに1兆円削って1兆500億円とし、総資産は2兆500億円まで落とす。1997年度のピークだった5兆4406億円の4割を切る水準であり、ネットDERの目標は6倍台に置かれた。安武氏は「三年計画を二年で達成しようと号令をかけていたが、景気の悪化に追いつけなかった」(週刊東洋経済 2002/3/9)と振り返っている。株価は70円近辺で低迷し、この3年、新規投資は事実上止まっていた[28][29]

日商岩井は、リストラで整理損が発生しうる資産を4000億円としながら、損失の規模は示さなかった。2002年6月、安武氏は会長へ退き、西村英俊氏が社長に就く。同年12月にニチメンとの経営統合の基本合意書が交わされ、2003年3月、日商岩井の株式は株式移転により上場を廃止された。1955年8月の上場から48年、6000億円の融資枠を受けてから4年余りであった[30][31][32]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「大抜擢 日商岩井に一七人抜き社長が生まれた“ワケ”」
  • 週刊東洋経済 1999年6月26日号「手元流動性の意味 有効活用する松下、逼迫する日商岩井、余裕のトヨタ」
  • 週刊東洋経済 1999年10月16日号「キーパーソン 再建託された静かなサムライ 日商岩井社長 安武史郎」
  • 週刊東洋経済 2000年5月27日号「落日の本体から有望部門を“救出”せよ 吉と出るか凶と出るか、最新分社の裏事情 日商岩井」
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「野武士からシステムへ 事業統合、分社を加速する日商岩井のご意見番は誰?」
  • 週刊東洋経済 2002年3月9日号「日商岩井 再生計画のパズルは未完成 欠けているものは何か」
  • 週刊東洋経済 2002年8月24日号「トップの履歴書 日商岩井社長 西村英俊 攻めの経営が期待される新司令塔」
  • 双日 有価証券報告書(2006年3月期)【沿革】

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