三井物産 の歴史

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創業 1876年
創業者 益田孝
創業地 東京都
創業
1876年7月、三井家の商事部門を別法人として切り離し、東京で無資本の商社として旧三井物産が発足した。初代社長の益田孝は資本を持たずに始め、若い人材を海外へ送り込むことで店の数を増やした。足がかりは官営三池炭鉱の石炭販売の受託で、上海・香港・シンガポールへ輸出し、そこから綿花・機械・鉱産物・絹織物へ取扱を拡大している。明治後期には品目が数百種に及び、取扱高は日本の貿易総額の約2割を占めた。1947年7月の過度経済力集中排除法で約180社へ分割されたのちは、そのうちの第一物産が互洋貿易・三井木材工業・国際物産交易を統合し、1959年の大合同で三井物産の商号を取り戻した
決断
一度始めた大型投資から降りられず、その代償で規律を作り直してきた。1976年、石油部門の強化を急いだ三井物産は、ロレスタン鉱区の権益と引き換えにイラン石油化学(IJPC)へ参画した。採算が崩れて撤退論が出ても池田芳蔵社長は不退転で進め、革命と戦争で事業は頓挫する。2002年には国後島の不正入札と排ガスデータの捏造で逮捕・起訴者を出し、説明責任を果たさなかった経営陣が交代して内部統制を作り直した。内部監査を拡充した結果、次の不正を自ら見つけ出す仕組みは働いたものの、業績の達成のためなら虚偽もいとわない現場の意識までは変わっていない。
現況
有形固定資産を最も多く置いている国は、日本ではなくオーストラリアである。2026年3月期の豪州の有形固定資産は1兆8,091億円で、日本の1兆0,412億円を上回る。セグメント別の当期利益は金属資源2,536億円、機械・インフラ2,258億円、エネルギー1,642億円、化学品675億円の順で、鉄鉱石と原油ガスを扱う二部門だけでほぼ半分を占めた。売上高13兆9,952億円、親会社の所有者に帰属する当期利益8,340億円。資本を持たずに人だけを送り出して始まった会社は、現在では権益と設備を保有することで利益を得ている。
競合
五社のなかで、三井物産は利益の半分を資源に置いている。資源の市況が下げた局面では2016年3月期に戦後初の通期赤字を出し、2020年3月期には丸紅がチリ銅などの一括減損で18年ぶりの最終赤字を出した。2026年3月期の当期純利益は、非資源を厚くした非資源No.1を掲げた伊藤忠商事の9,003億円に対して三井物産が8,340億円、時価総額は三菱商事の21兆4,230億円に次ぐ17兆0,712億円だった。振れを消すのではなく、稼ぐ前に還元の下限を約束する側を選び、中期経営計画2026で累進配当を導入して基礎営業キャッシュ・フローに対する還元割合を当初の37%から54%へ引き上げた。
三井物産:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 益田孝の無資本創業と、日本の貿易の2割を扱う商社へ (1876年〜)

先収会社で覚えた実務と、三池炭から広げた取扱

1876年7月、益田孝氏は東京日本橋駿河町の三井組ハウス内で旧三井物産会社を発足[1]させた。当時28歳の益田氏は大蔵省を辞したのち、井上馨が1873年に興した先収会社で、洋式簿記や船積、代理店制度の実務[2]を身につけていた。1876年に井上が三井組の顧問へ復帰すると、洋式商社の経営に通じた人材として商事部門の責任者に迎えられた[3]。三井家は銀行業への転換を控えており、商事の損失を別法人へ切り離す必要から公式の資本金を計上しなかった[4]。商品売買の運転資金は三井組から借りて精算する身代り資本の方式[5]をとり、元手を持たないまま商社を興している。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [1]1876年7月 旧三井物産会社が三井組ハウス内で発足
  • 自叙益田孝翁伝(1939年)
    • [2]益田孝 1873年設立の先収会社で洋式簿記・船積・代理店制度の実務を体得
    • [3]1876年 井上馨の三井組顧問復帰にともない益田孝が商事部門の責任者に抜擢
    • [4]三井家の銀行業転換を控え商事の損失を別法人へ切り離す方針
    • [5]身代り資本方式 三井組から運転資金を借り受けて精算

発足の直後、三井物産会社は官営三池炭鉱の石炭販売を受託し、上海向けの汽船燃料[6]で安定した収入を確保した。取扱品目は三池炭を足場に広がり、明治10年代後半には英国製紡績機械の輸入と国産綿糸の中国向け輸出[7]、明治20年代には鉄道資材・鉱産物・肥料へと増えた。1893年12月、三井物産合名会社へ改組[8]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [6]創業初年 官営三池炭鉱の石炭販売受託と上海向け汽船燃料
    • [7]明治10年代後半 英国紡績機械輸入と国産綿糸の中国向け輸出/明治20年代 鉄道資材・鉱産物・肥料へ拡張
    • [8]1893年12月 三井物産合名会社へ改組
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [1]1876年7月 旧三井物産会社が三井組ハウス内で発足
    • [6]創業初年 官営三池炭鉱の石炭販売受託と上海向け汽船燃料
    • [7]明治10年代後半 英国紡績機械輸入と国産綿糸の中国向け輸出/明治20年代 鉄道資材・鉱産物・肥料へ拡張
    • [8]1893年12月 三井物産合名会社へ改組
  • 自叙益田孝翁伝(1939年)
    • [2]益田孝 1873年設立の先収会社で洋式簿記・船積・代理店制度の実務を体得
    • [3]1876年 井上馨の三井組顧問復帰にともない益田孝が商事部門の責任者に抜擢
    • [4]三井家の銀行業転換を控え商事の損失を別法人へ切り離す方針
    • [5]身代り資本方式 三井組から運転資金を借り受けて精算

株式会社への改組と、財閥攻撃のなかの三井物産

1909年10月、資本金2,000万円で株式会社三井物産が発足[9]した。戦前の三井物産は海外支店網と商品知識、長期の取引関係を蓄え[10]、日本企業が国際取引を行ううえでの基盤となった。その規模は貿易統計に表れており、1937年から1943年までの平均で日本の貿易総額の18.3%[11]を占めた。分身にあたる東洋棉花を合わせると、比率は4分の1[12]に達した。事業部門の分離も進み、1942年12月28日には船舶部が三井船舶として独立[13]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [9]1909年10月 株式会社三井物産が資本金2,000万円で発足
    • [13]1942年12月28日 三井物産船舶部が三井船舶として分離独立
  • 私の三井昭和史(江戸英雄 著、東洋経済新報社、1986年)
    • [10]戦前の三井物産 海外支店網・商品知識・長期取引関係の蓄積
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
    • [11]1937〜1943年平均 日本の貿易総額に占める三井物産の比率 18.3%
    • [12]東洋棉花を加えた比率 貿易総額の4分の1

規模の大きさは、不況下で攻撃の的にもなった。英国が1931年9月に金本位制を停止[14]すると、円売りドル買いをめぐって三井への批判が高まった。同年11月5日には与党の民政党が糾弾声明[15]を出している。声明は『三井財閥は金輸出再禁止を見越して、円売リドル買いをし、正貨準備の流出に拍車をかけた』[引用元][16]と難じている。三井物産は12月に『中外商業新報』へ声明を掲載し、思惑買いの事実はない[17]と釈明した。批判は収まらず、1932年3月9日には団琢磨三井合名理事長が三井本館の入り口で血盟団員に射殺[18]された。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [14]1931年9月 英国の金本位制停止と三井へのドル買い批判
    • [15]1931年11月5日 民政党がドル買いをめぐり三井を糾弾する声明
    • [16]民政党声明の文言「金輸出再禁止を見越して、円売リドル買いをし、正貨準備の流出に拍車をかけた」
    • [17]1931年12月 三井物産が中外商業新報へ釈明の声明を掲載
    • [18]1932年3月9日 団琢磨三井合名理事長が三井本館入口で血盟団員に射殺
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [9]1909年10月 株式会社三井物産が資本金2,000万円で発足
    • [13]1942年12月28日 三井物産船舶部が三井船舶として分離独立
  • 私の三井昭和史(江戸英雄 著、東洋経済新報社、1986年)
    • [10]戦前の三井物産 海外支店網・商品知識・長期取引関係の蓄積
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
    • [11]1937〜1943年平均 日本の貿易総額に占める三井物産の比率 18.3%
    • [12]東洋棉花を加えた比率 貿易総額の4分の1
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [14]1931年9月 英国の金本位制停止と三井へのドル買い批判
    • [15]1931年11月5日 民政党がドル買いをめぐり三井を糾弾する声明
    • [16]民政党声明の文言「金輸出再禁止を見越して、円売リドル買いをし、正貨準備の流出に拍車をかけた」
    • [17]1931年12月 三井物産が中外商業新報へ釈明の声明を掲載
    • [18]1932年3月9日 団琢磨三井合名理事長が三井本館入口で血盟団員に射殺

統制経済のもとでの商社と、GHQが下した解散命令

1937年7月の盧溝橋事件で日中戦争が始まる[19]と、戦時経済統制が強められた。同年9月には軍需工業動員法の適用に関する法律、輸出入品等の臨時措置に関する法律、臨時資金調整法の三法[20]が公布され、翌1938年4月の国家総動員法で全面的な統制経済[21]に入った。輸入には輸出実績に基づく外貨割当が必要となり[22]、商社が自由に動ける範囲は狭まった。市場も世界のブロック化でアメリカや英連邦向けの輸出が頭打ち[23]となり、輸出入は軍需関連が増えた。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [19]1937年7月 盧溝橋事件と日中戦争開始にともなう戦時経済統制の強化
    • [20]1937年9月 軍需工業動員法の適用に関する法律・輸出入品等の臨時措置に関する法律・臨時資金調整法の公布
    • [21]1938年4月 国家総動員法公布
    • [22]輸入時の外貨割当制 輸出実績に基づく割当
    • [23]世界市場のブロック化でアメリカ・英連邦向け輸出が頭打ち

敗戦後、三井本社は1945年11月6日に三菱・住友・安田の各本社とともに解散指令[24]を受け、翌1946年に持株をすべて持株会社整理委員会へ引き渡したうえで、9月30日に解散を決議[25]した。三井物産も傘下に多数の子会社を抱えていたことから、1946年12月に三井鉱山など19社とともに持株会社整理委員会の第三次指定[26]を受け、同月28日に持株会社へ指定[27]された。独占禁止法と過度経済力集中排除法が公布施行されるなかで、自らの手で改組・分割を実行しなければ存続できない[28]と判断し、1946年12月4日付で分割再建案の作成に着手[29]した。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [24]1945年11月6日 三井・三菱・住友・安田の各本社が解散指令
    • [25]1946年9月30日 三井本社の解散決議
    • [27]1946年12月28日 三井物産が持株会社に指定
    • [28]独占禁止法・過度経済力集中排除法の公布施行を受けた自主改組の判断
    • [29]1946年12月4日付 分割再建案の作成着手
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [26]1946年12月 三井鉱山など19社とともに持株会社整理委員会の第三次指定

改組案は商品別に分けるか地域別に分けるかで社内の意見が割れ[30]、最終的に複数案を示して連合国軍総司令部の選択に委ねる形をとった。当初提示した10分割案に対しては、担当官から5、6社にとどまる可能性[31]も示唆されていた。ところが1947年7月5日、大蔵省へ呼び出された担当者が手渡された[32]のは、7月3日付の覚書の写しであり、そこには三井物産と三菱商事の解散命令が記されていた[33]。覚書は数社への分割も認めず、あらゆる形での存続を許さない[34]内容だった。解散を受けて旧三井物産は約180の会社に分かれ[35]、社員が各地で興した物産系の新会社は200社を超えた[36]

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [30]改組案をめぐる商品別・地域別の対立と複数案提示
    • [31]当初提示は10分割案 担当官は5、6社にとどまる可能性を示唆
    • [32]1947年7月5日 大蔵省で7月3日付GHQ覚書の写しを手交
    • [33]覚書の内容 三井物産・三菱商事の解散命令
    • [34]覚書は数社への分割も認めずあらゆる形での存続を不許可
    • [36]物産系の新会社は200社を超えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [35]旧三井物産は約180の会社に分割
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [19]1937年7月 盧溝橋事件と日中戦争開始にともなう戦時経済統制の強化
    • [20]1937年9月 軍需工業動員法の適用に関する法律・輸出入品等の臨時措置に関する法律・臨時資金調整法の公布
    • [21]1938年4月 国家総動員法公布
    • [22]輸入時の外貨割当制 輸出実績に基づく割当
    • [23]世界市場のブロック化でアメリカ・英連邦向け輸出が頭打ち
    • [24]1945年11月6日 三井・三菱・住友・安田の各本社が解散指令
    • [25]1946年9月30日 三井本社の解散決議
    • [27]1946年12月28日 三井物産が持株会社に指定
    • [28]独占禁止法・過度経済力集中排除法の公布施行を受けた自主改組の判断
    • [29]1946年12月4日付 分割再建案の作成着手
    • [30]改組案をめぐる商品別・地域別の対立と複数案提示
    • [31]当初提示は10分割案 担当官は5、6社にとどまる可能性を示唆
    • [32]1947年7月5日 大蔵省で7月3日付GHQ覚書の写しを手交
    • [33]覚書の内容 三井物産・三菱商事の解散命令
    • [34]覚書は数社への分割も認めずあらゆる形での存続を不許可
    • [36]物産系の新会社は200社を超えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
    • [26]1946年12月 三井鉱山など19社とともに持株会社整理委員会の第三次指定
    • [35]旧三井物産は約180の会社に分割

37人で発足した第一物産と、株式上場による信用力

解散命令には復活を防ぐための条件が付され、過去10年間に役員や部長を務めた者を新会社が2名以上雇うことを禁じ[37]、100名を超える従業員が新会社を組織することも認めず[38]、従来の事務所の占有と商号の使用も禁じたうえ、この指令は向こう10年間有効[39]とされた。解散時に男子職員だけで3,000人あまりを抱えており[40]、社員はそれぞれに進路を探した。非鉄・食料・肥料・化学品・建材・企画の各部門にいた37人が集まり、1947年7月25日[41]、資本金19万5,000円で第一物産が発足[42]した。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [37]解散命令の付帯条件 過去10年間の役員・部長を2名以上雇用禁止
    • [38]100名超の従業員による新会社組織の禁止/事務所占有・商号使用の禁止
    • [39]解散指令の有効期間 向こう10年間
    • [40]解散時の男子職員 3,000人あまり 社員は各自で進路を模索
    • [41]1947年7月25日 資本金19万5,000円で第一物産設立 発起人37人
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1947年7月 資本金195,000円をもって第一物産株式会社を設立

本社は堀留にある元昭和銀行支店の建物を借り[43]、吹抜けを中二階に仕切って使った。家賃は月額6,000円[44]だった。発足から2年たたない1949年5月、第一物産は再開した東京証券取引所へ株式を上場[45]した。当時の上場商社は高島屋飯田のみで、第一物産は2番目[46]にあたる。1949年1月払込の第三回増資では初めて一般公募[47]を行い、三井生命と富国生命を皮切りに有力生保7社、ついで損保各社が株主となった。1951年にはベーチェ社との提携で5,000万円の外資を導入し、資本金を2億円[48]とした。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [43]本社事務所 堀留の元昭和銀行支店 家賃月額6,000円
    • [44]第一物産本社の家賃 月額6,000円
    • [46]当時の上場商社は高島屋飯田のみ 第一物産は2番目の上場
    • [47]1949年1月払込の第三回増資で初の一般公募 三井生命・富国生命ほか有力生保7社が株主に
    • [48]1951年 ベーチェ社との提携で5,000万円の外資導入 資本金2億円へ
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [45]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [37]解散命令の付帯条件 過去10年間の役員・部長を2名以上雇用禁止
    • [38]100名超の従業員による新会社組織の禁止/事務所占有・商号使用の禁止
    • [39]解散指令の有効期間 向こう10年間
    • [40]解散時の男子職員 3,000人あまり 社員は各自で進路を模索
    • [41]1947年7月25日 資本金19万5,000円で第一物産設立 発起人37人
    • [43]本社事務所 堀留の元昭和銀行支店 家賃月額6,000円
    • [44]第一物産本社の家賃 月額6,000円
    • [46]当時の上場商社は高島屋飯田のみ 第一物産は2番目の上場
    • [47]1949年1月払込の第三回増資で初の一般公募 三井生命・富国生命ほか有力生保7社が株主に
    • [48]1951年 ベーチェ社との提携で5,000万円の外資導入 資本金2億円へ
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1947年7月 資本金195,000円をもって第一物産株式会社を設立
    • [45]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場

室町物産との商号争いと、四年七カ月遅れた大合同

1952年4月の講和条約発効で財閥商号の復活が可能[49]になると、旧物産系新会社14社の社長が三井本館に集まり[50]、『三井物産』の商号を他社に取られないよう日東倉庫建物へ預けることを決めた。適当な時期に旧物産系商社が合併してこの社名を継ぐという合意だったが、文書は残されなかった[51]。1953年7月、鉄鋼を扱う室町物産がその日東倉庫建物を合併[52]し、三井物産を名乗った。第一物産側はこれを申し合わせ違反とみなし、対抗して三井木材工業を合併[53]している。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [49]1952年4月 講和条約発効による財閥商号の復活
    • [50]旧物産系新会社14社の社長が商号を日東倉庫建物へ預けることを決定
    • [51]合意文書が残されずのちの紛糾の因に
    • [52]1953年7月 室町物産が日東倉庫建物を合併し三井物産を名乗る
    • [53]第一物産が対抗して三井木材工業を合併

両社の合併交渉は1955年8月30日深夜に合意へ達し、合併比率を1対1[54]、合併後の商号を三井物産、合併期日を1956年4月1日とする11項目の覚書[55]を交わした。しかし直前の8月25日に室町物産が予告なく半額無償増資を発表[56]しており、交渉はそこから紛糾した。最大の争点は、どちらを存続会社とするか[57]であった。第一物産は売上高で室町物産の6倍の規模を持ち、決算書に明記した22億円の不良債権[58]を税務上処理するうえでも存続会社となる必要があった。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [54]1955年8月30日深夜 合併比率1対1・商号三井物産・期日1956年4月1日の11項目覚書
    • [55]覚書は合併後の商号を三井物産、合併期日を1956年4月1日と定めた
    • [56]1955年8月25日 室町物産が予告なく半額無償増資を発表
    • [57]最大の争点は存続会社をどちらにするか
    • [58]第一物産の売上高は室町物産の6倍/不良債権22億円の税務処理

交渉は平行線をたどり、1956年4月の合併は実現しなかった[59]。事態を動かしたのは市況で、1956年10月のスエズ動乱による商品相場の急騰のあとに反動[60]が訪れ、鉄鋼メーカーの操短で大量に買い付けたスクラップの手形が落ちず[61]、室町物産は金融難に陥った。メインバンクの東京銀行と富士銀行はいずれも第一物産とも取引が深く[62]、かねて大合同を望んでいた。1959年2月16日、第一物産を存続会社として合併が成立し、商号を三井物産へ変更[63]した。

  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [59]1956年4月の合併不成立
    • [60]1956年10月 スエズ動乱による商品相場の急騰と反動
    • [61]鉄鋼メーカーの操短でスクラップ手形が不渡り 室町物産が金融難
    • [62]東京銀行・富士銀行が両社の主力行として大合同を後押し
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [63]1959年2月 三井物産株式会社に商号変更
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
    • [49]1952年4月 講和条約発効による財閥商号の復活
    • [50]旧物産系新会社14社の社長が商号を日東倉庫建物へ預けることを決定
    • [51]合意文書が残されずのちの紛糾の因に
    • [52]1953年7月 室町物産が日東倉庫建物を合併し三井物産を名乗る
    • [53]第一物産が対抗して三井木材工業を合併
    • [54]1955年8月30日深夜 合併比率1対1・商号三井物産・期日1956年4月1日の11項目覚書
    • [55]覚書は合併後の商号を三井物産、合併期日を1956年4月1日と定めた
    • [56]1955年8月25日 室町物産が予告なく半額無償増資を発表
    • [57]最大の争点は存続会社をどちらにするか
    • [58]第一物産の売上高は室町物産の6倍/不良債権22億円の税務処理
    • [59]1956年4月の合併不成立
    • [60]1956年10月 スエズ動乱による商品相場の急騰と反動
    • [61]鉄鋼メーカーの操短でスクラップ手形が不渡り 室町物産が金融難
    • [62]東京銀行・富士銀行が両社の主力行として大合同を後押し
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
    • [63]1959年2月 三井物産株式会社に商号変更

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三井物産の沿革1876〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1876〜1936年益田孝の無資本創業と、日本の貿易の2割を扱う商社へ三井物産創業——益田孝氏が無資本で興した商社と、解体・再結集の二層構造

1876年7月、大蔵省を辞して先収会社で商社実務を学んだ28歳の益田孝氏が、東京日本橋駿河町の三井組ハウス内で旧三井物産会社を発足させた。公式資本金を計上せず、三井組から運転資金を借り受ける『身代り資本』の方式をとり、官営三池炭鉱の石炭販売受託を足場に綿花・機械・鉱産物へ取扱を広げて、日本における総合商社の業態を築いた。

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★★★
三井合名会社の子会社として三井物産に改組
1937〜1959年解散命令と、200社に分かれた戦後の再結集終戦により旧三井物産の海外資産・取引を喪失
新関八洲太郎過度経済力集中排除法により旧三井物産が解散★★
新関八洲太郎新会社群へ分割、現・三井物産の前身となる企業が発足
新関八洲太郎東京証券取引所再開時に上場
新関八洲太郎室町物産との商号争いと、四年七カ月遅れた一九五九年の大合同

1947年7月のGHQ解散命令で消えた三井物産の商号は、1952年の講和条約発効で復活が可能になった。旧物産系新会社14社の社長は商号を日東倉庫建物へ預けることで合意したが、1953年7月に鉄鋼専門商社の室町物産がその日東倉庫建物を合併して三井物産を名乗った。総合商社として育っていた第一物産はこれを申し合わせ違反として反発し、合併交渉は決裂と再開を繰り返した。1959年2月16日、第一物産を存続会社とする合併が成立し、商号は三井物産へ戻った。三菱商事の大合同に四年七カ月遅れた。

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★★
1960〜1990年資源権益への傾斜と、イラン石油化学という蹉跌水上達三Moura炭鉱開発への参画
水上達三米国預託証券(ADR)を発行(1971年2月に米国NASDAQに登録)
水上達三Robe River鉄鉱山への参画
水上達三米国三井物産を設立
水上達三Mount Newman鉄鉱石長期契約締結★★
若杉末雪MBRへの参画(企業買収・統合などの再編を経て、現在のValeに至る)
若杉末雪三井リース事業を設立
若杉末雪アブダビ・ダス島LNG開発基本協定調印★★
池田芳蔵イラン石油化学(IJPC)への参画と、撤退できなかった巨大プロジェクト

三井物産は1971年にイランと石油化学プロジェクト(IJPC=イラン・ジャパン石油化学)の基本協定を結び、石油ショックで投資額が当初の約1300億円から数千億円へ膨らんでも、社内の撤退論を池田芳蔵社長が退けて不退転で進めた。しかし1979年のイラン革命と1980年のイラン・イラク戦争で建設は頓挫し、最終的に1990年の合弁解消に至った。三井物産100年の歴史で最大級の失敗とされる。

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★★★
池田芳蔵モザンビークのLNG事業への関与開始(長期視点)
熊谷直彦イラン化学開発の清算完了によりイラン石油化学プロジェクトが終結★★
1991〜2026年不祥事の連鎖と、資源益に支えられた利益1兆円熊谷直彦営業本部長制導入
熊谷直彦三井物産鉄鋼建材を設立
熊谷直彦サハリンⅡ石油・天然ガス開発契約(生産分与契約)調印★★
清水愼次郎自動車販売・総合ソリューション事業Penske Automotive Groupに出資
槍田松瑩執行役員制を導入
槍田松瑩国後島の不正入札と排ガスデータ捏造を受けた、内部統制の作り直し

2002年7月3日、東京地方検察庁特別捜査部が国後島のディーゼル発電施設をめぐる不正入札で三井物産の社員3人を逮捕した。7月24日に社員2人が偽計業務妨害で起訴されると、清水慎次郎社長は役員報酬の20%を3か月自主返上する処分にとどめ、引責辞任を否定した。その後まもなく清水社長は退き、槍田松瑩社長がコンプライアンスの徹底を最重要課題に掲げて内部監査制度を拡充した。しかし2004年11月、その内部監査がディーゼル排ガス除去装置DPFの虚偽データ提出を掘り当てた。

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★★★
槍田松瑩社外取締役1名を初めて選任
槍田松瑩連結収益4兆1154億円、当期利益2024億円
槍田松瑩連結収益5兆7388億円、当期利益4100億円
飯島彰己NASDAQ上場廃止(同年7月に米国証券取引委員会(SEC)登録廃止)
飯島彰己IFRS適用初年度、収益11兆1554億円
安永竜夫安永竜夫氏が社長に就任
安永竜夫当期純損失834億円を計上★★
安永竜夫当期利益3061億円でV字回復
堀健一堀健一氏が社長に就任
堀健一連結収益14兆3064億円、当期利益1兆1306億円
堀健一モザンビークLNG建設が4年間の不可抗力宣言解消を経て再開
堀健一Rhodes Ridge鉄鉱石プロジェクトへの参画を決定★★
出典・参考
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
  • 日経ビジネス 1976年11月22日号
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
  • 私の三井昭和史(江戸英雄 著、東洋経済新報社、1986年)
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
  • 日本経済新聞 1989年12月(三井物産・八尋俊邦氏)
  • 自叙益田孝翁伝(1939年)

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