1876年7月、益田孝氏は東京日本橋駿河町の三井組ハウス内で旧三井物産会社を発足[1]させた。当時28歳の益田氏は大蔵省を辞したのち、井上馨が1873年に興した先収会社で、洋式簿記や船積、代理店制度の実務[2]を身につけていた。1876年に井上が三井組の顧問へ復帰すると、洋式商社の経営に通じた人材として商事部門の責任者に迎えられた[3]。三井家は銀行業への転換を控えており、商事の損失を別法人へ切り離す必要から公式の資本金を計上しなかった[4]。商品売買の運転資金は三井組から借りて精算する身代り資本の方式[5]をとり、元手を持たないまま商社を興している。
発足の直後、三井物産会社は官営三池炭鉱の石炭販売を受託し、上海向けの汽船燃料[6]で安定した収入を確保した。取扱品目は三池炭を足場に広がり、明治10年代後半には英国製紡績機械の輸入と国産綿糸の中国向け輸出[7]、明治20年代には鉄道資材・鉱産物・肥料へと増えた。1893年12月、三井物産合名会社へ改組[8]した。
1909年10月、資本金2,000万円で株式会社三井物産が発足[9]した。戦前の三井物産は海外支店網と商品知識、長期の取引関係を蓄え[10]、日本企業が国際取引を行ううえでの基盤となった。その規模は貿易統計に表れており、1937年から1943年までの平均で日本の貿易総額の18.3%[11]を占めた。分身にあたる東洋棉花を合わせると、比率は4分の1[12]に達した。事業部門の分離も進み、1942年12月28日には船舶部が三井船舶として独立[13]した。
規模の大きさは、不況下で攻撃の的にもなった。英国が1931年9月に金本位制を停止[14]すると、円売りドル買いをめぐって三井への批判が高まった。同年11月5日には与党の民政党が糾弾声明[15]を出している。声明は『三井財閥は金輸出再禁止を見越して、円売リドル買いをし、正貨準備の流出に拍車をかけた』[引用元][16]と難じている。三井物産は12月に『中外商業新報』へ声明を掲載し、思惑買いの事実はない[17]と釈明した。批判は収まらず、1932年3月9日には団琢磨三井合名理事長が三井本館の入り口で血盟団員に射殺[18]された。
1937年7月の盧溝橋事件で日中戦争が始まる[19]と、戦時経済統制が強められた。同年9月には軍需工業動員法の適用に関する法律、輸出入品等の臨時措置に関する法律、臨時資金調整法の三法[20]が公布され、翌1938年4月の国家総動員法で全面的な統制経済[21]に入った。輸入には輸出実績に基づく外貨割当が必要となり[22]、商社が自由に動ける範囲は狭まった。市場も世界のブロック化でアメリカや英連邦向けの輸出が頭打ち[23]となり、輸出入は軍需関連が増えた。
敗戦後、三井本社は1945年11月6日に三菱・住友・安田の各本社とともに解散指令[24]を受け、翌1946年に持株をすべて持株会社整理委員会へ引き渡したうえで、9月30日に解散を決議[25]した。三井物産も傘下に多数の子会社を抱えていたことから、1946年12月に三井鉱山など19社とともに持株会社整理委員会の第三次指定[26]を受け、同月28日に持株会社へ指定[27]された。独占禁止法と過度経済力集中排除法が公布施行されるなかで、自らの手で改組・分割を実行しなければ存続できない[28]と判断し、1946年12月4日付で分割再建案の作成に着手[29]した。
改組案は商品別に分けるか地域別に分けるかで社内の意見が割れ[30]、最終的に複数案を示して連合国軍総司令部の選択に委ねる形をとった。当初提示した10分割案に対しては、担当官から5、6社にとどまる可能性[31]も示唆されていた。ところが1947年7月5日、大蔵省へ呼び出された担当者が手渡された[32]のは、7月3日付の覚書の写しであり、そこには三井物産と三菱商事の解散命令が記されていた[33]。覚書は数社への分割も認めず、あらゆる形での存続を許さない[34]内容だった。解散を受けて旧三井物産は約180の会社に分かれ[35]、社員が各地で興した物産系の新会社は200社を超えた[36]。
解散命令には復活を防ぐための条件が付され、過去10年間に役員や部長を務めた者を新会社が2名以上雇うことを禁じ[37]、100名を超える従業員が新会社を組織することも認めず[38]、従来の事務所の占有と商号の使用も禁じたうえ、この指令は向こう10年間有効[39]とされた。解散時に男子職員だけで3,000人あまりを抱えており[40]、社員はそれぞれに進路を探した。非鉄・食料・肥料・化学品・建材・企画の各部門にいた37人が集まり、1947年7月25日[41]、資本金19万5,000円で第一物産が発足[42]した。
本社は堀留にある元昭和銀行支店の建物を借り[43]、吹抜けを中二階に仕切って使った。家賃は月額6,000円[44]だった。発足から2年たたない1949年5月、第一物産は再開した東京証券取引所へ株式を上場[45]した。当時の上場商社は高島屋飯田のみで、第一物産は2番目[46]にあたる。1949年1月払込の第三回増資では初めて一般公募[47]を行い、三井生命と富国生命を皮切りに有力生保7社、ついで損保各社が株主となった。1951年にはベーチェ社との提携で5,000万円の外資を導入し、資本金を2億円[48]とした。
1952年4月の講和条約発効で財閥商号の復活が可能[49]になると、旧物産系新会社14社の社長が三井本館に集まり[50]、『三井物産』の商号を他社に取られないよう日東倉庫建物へ預けることを決めた。適当な時期に旧物産系商社が合併してこの社名を継ぐという合意だったが、文書は残されなかった[51]。1953年7月、鉄鋼を扱う室町物産がその日東倉庫建物を合併[52]し、三井物産を名乗った。第一物産側はこれを申し合わせ違反とみなし、対抗して三井木材工業を合併[53]している。
両社の合併交渉は1955年8月30日深夜に合意へ達し、合併比率を1対1[54]、合併後の商号を三井物産、合併期日を1956年4月1日とする11項目の覚書[55]を交わした。しかし直前の8月25日に室町物産が予告なく半額無償増資を発表[56]しており、交渉はそこから紛糾した。最大の争点は、どちらを存続会社とするか[57]であった。第一物産は売上高で室町物産の6倍の規模を持ち、決算書に明記した22億円の不良債権[58]を税務上処理するうえでも存続会社となる必要があった。
交渉は平行線をたどり、1956年4月の合併は実現しなかった[59]。事態を動かしたのは市況で、1956年10月のスエズ動乱による商品相場の急騰のあとに反動[60]が訪れ、鉄鋼メーカーの操短で大量に買い付けたスクラップの手形が落ちず[61]、室町物産は金融難に陥った。メインバンクの東京銀行と富士銀行はいずれも第一物産とも取引が深く[62]、かねて大合同を望んでいた。1959年2月16日、第一物産を存続会社として合併が成立し、商号を三井物産へ変更[63]した。
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|---|---|---|---|---|
| 1876〜1936年益田孝の無資本創業と、日本の貿易の2割を扱う商社へ | 三井物産創業——益田孝氏が無資本で興した商社と、解体・再結集の二層構造 1876年7月、大蔵省を辞して先収会社で商社実務を学んだ28歳の益田孝氏が、東京日本橋駿河町の三井組ハウス内で旧三井物産会社を発足させた。公式資本金を計上せず、三井組から運転資金を借り受ける『身代り資本』の方式をとり、官営三池炭鉱の石炭販売受託を足場に綿花・機械・鉱産物へ取扱を広げて、日本における総合商社の業態を築いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三井合名会社の子会社として三井物産に改組 | ★ | |||
| 1937〜1959年解散命令と、200社に分かれた戦後の再結集 | 終戦により旧三井物産の海外資産・取引を喪失 | ★ | ||
| 新関八洲太郎 | 過度経済力集中排除法により旧三井物産が解散 | ★★ | ||
| 新関八洲太郎 | 新会社群へ分割、現・三井物産の前身となる企業が発足 | ★ | ||
| 新関八洲太郎 | 東京証券取引所再開時に上場 | ★ | ||
| 新関八洲太郎 | 室町物産との商号争いと、四年七カ月遅れた一九五九年の大合同 1947年7月のGHQ解散命令で消えた三井物産の商号は、1952年の講和条約発効で復活が可能になった。旧物産系新会社14社の社長は商号を日東倉庫建物へ預けることで合意したが、1953年7月に鉄鋼専門商社の室町物産がその日東倉庫建物を合併して三井物産を名乗った。総合商社として育っていた第一物産はこれを申し合わせ違反として反発し、合併交渉は決裂と再開を繰り返した。1959年2月16日、第一物産を存続会社とする合併が成立し、商号は三井物産へ戻った。三菱商事の大合同に四年七カ月遅れた。 詳細を読む | ★★ | ||
| 1960〜1990年資源権益への傾斜と、イラン石油化学という蹉跌 | 水上達三 | Moura炭鉱開発への参画 | ★ | |
| 水上達三 | 米国預託証券(ADR)を発行(1971年2月に米国NASDAQに登録) | ★ | ||
| 水上達三 | Robe River鉄鉱山への参画 | ★ | ||
| 水上達三 | 米国三井物産を設立 | ★ | ||
| 水上達三 | Mount Newman鉄鉱石長期契約締結 | ★★ | ||
| 若杉末雪 | MBRへの参画(企業買収・統合などの再編を経て、現在のValeに至る) | ★ | ||
| 若杉末雪 | 三井リース事業を設立 | ★ | ||
| 若杉末雪 | アブダビ・ダス島LNG開発基本協定調印 | ★★ | ||
| 池田芳蔵 | イラン石油化学(IJPC)への参画と、撤退できなかった巨大プロジェクト 三井物産は1971年にイランと石油化学プロジェクト(IJPC=イラン・ジャパン石油化学)の基本協定を結び、石油ショックで投資額が当初の約1300億円から数千億円へ膨らんでも、社内の撤退論を池田芳蔵社長が退けて不退転で進めた。しかし1979年のイラン革命と1980年のイラン・イラク戦争で建設は頓挫し、最終的に1990年の合弁解消に至った。三井物産100年の歴史で最大級の失敗とされる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 池田芳蔵 | モザンビークのLNG事業への関与開始(長期視点) | ★ | ||
| 熊谷直彦 | イラン化学開発の清算完了によりイラン石油化学プロジェクトが終結 | ★★ | ||
| 1991〜2026年不祥事の連鎖と、資源益に支えられた利益1兆円 | 熊谷直彦 | 営業本部長制導入 | ★ | |
| 熊谷直彦 | 三井物産鉄鋼建材を設立 | ★ | ||
| 熊谷直彦 | サハリンⅡ石油・天然ガス開発契約(生産分与契約)調印 | ★★ | ||
| 清水愼次郎 | 自動車販売・総合ソリューション事業Penske Automotive Groupに出資 | ★ | ||
| 槍田松瑩 | 執行役員制を導入 | ★ | ||
| 槍田松瑩 | 国後島の不正入札と排ガスデータ捏造を受けた、内部統制の作り直し 2002年7月3日、東京地方検察庁特別捜査部が国後島のディーゼル発電施設をめぐる不正入札で三井物産の社員3人を逮捕した。7月24日に社員2人が偽計業務妨害で起訴されると、清水慎次郎社長は役員報酬の20%を3か月自主返上する処分にとどめ、引責辞任を否定した。その後まもなく清水社長は退き、槍田松瑩社長がコンプライアンスの徹底を最重要課題に掲げて内部監査制度を拡充した。しかし2004年11月、その内部監査がディーゼル排ガス除去装置DPFの虚偽データ提出を掘り当てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 槍田松瑩 | 社外取締役1名を初めて選任 | ★ | ||
| 槍田松瑩 | 連結収益4兆1154億円、当期利益2024億円 | ★ | ||
| 槍田松瑩 | 連結収益5兆7388億円、当期利益4100億円 | ★ | ||
| 飯島彰己 | NASDAQ上場廃止(同年7月に米国証券取引委員会(SEC)登録廃止) | ★ | ||
| 飯島彰己 | IFRS適用初年度、収益11兆1554億円 | ★ | ||
| 安永竜夫 | 安永竜夫氏が社長に就任 | ★ | ||
| 安永竜夫 | 当期純損失834億円を計上 | ★★ | ||
| 安永竜夫 | 当期利益3061億円でV字回復 | ★ | ||
| 堀健一 | 堀健一氏が社長に就任 | ★ | ||
| 堀健一 | 連結収益14兆3064億円、当期利益1兆1306億円 | ★ | ||
| 堀健一 | モザンビークLNG建設が4年間の不可抗力宣言解消を経て再開 | ★ | ||
| 堀健一 | Rhodes Ridge鉄鉱石プロジェクトへの参画を決定 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三井物産)