三井物産 イラン石油化学IJPCの続行 凍結論を退けて続けた末に、1,300億円の計画は7,400億円へ膨らんだ

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時期 1976年
当時の社長 池田芳蔵
論点 資源・エネルギー権益をめぐる大型海外投資とリスク管理
何をなぜ決めたか
概要

三井物産は1971年10月、イランと石油化学プロジェクト(IJPC=イラン・ジャパン石油化学)の基本協定を締結した。石油ショックで投資額は当初の1,300億円から1974年10月の試算で7,400億円へ跳ね上がる。それでも創業100周年の1976年、池田芳蔵社長は社内の凍結論・撤収論を退け、総額5,000億円規模の計画の本格推進に踏み切った。

1979年1月のイラン革命で工事は組立重量ベース85%まで進んだところで中断し、1980年9月のイラン・イラク戦争で建設現場は被爆する。1981年4月に日本側投資会社ICDCが資金供給を止め、1982年3月期にはIJPC関連の投融資395億円を引き当てて151億円の欠損を計上した。

背景

三井物産は石油部門でライバルの三菱商事に決定的な差をつけられ、エネルギー部門の強化が不可欠の課題だった。帝人の大屋晋三社長が最も入れ込んだ案件が、イランのロレスタン鉱区だった。入札グループには、三井物産が誘いを受けて参加し、石油開発公団も加わった。落札を受けて新会社イラン石油が設けられ、その出資の57%は同公団が持った。

日本側が乗り気なのを見て取ったイラン側は、 『鉱区取得には三井グループの石油化学プロジェクトの実行が必要』 と条件を出してきた。産油国でコンビナートを建設するという付帯条件をのまない限り鉱区の権利は得られないほど、国際入札の条件は当時きびしかった。国内では公害問題があって石油化学コンビナートを新たに建てにくく、産油地に立地するほかないという見方もあった。企業化調査では採算が合うとの結論までは得ていたが、その前提となる、中東の人々と対等な立場で事業を回せるかという点は検証されていなかった。ロレスタンでの試掘は原油を掘り当てられず、結局IJPC事業だけが手元に残った。

内容

1971年10月、日本とイランの折半出資による基本協定を調印した。日本側は三井物産・三井東圧化学・東洋曹達工業・三井石油化学工業・日本合成ゴムの5社で投資会社ICDC(イラン化学開発)を作り、なかでも60%を出した三井物産が筆頭株主として主導権を掌握した。1973年4月には、日本とイランが半分ずつ出資する合弁会社IJPCが設立された。

石油ショックの影響で投資額は7,400億円に膨らみ、三井物産の社内からも化学メーカー4社からも、建設をいったん止めるべきだとの意見が上がった。東洋曹達工業の二宮善基会長は 『リスクを避けるため、ICDCへの政府出資を得て、いわゆるナショナル・プロジェクトにすべきだ』 と訴え、持ち分の資本をゼロにしてリスクを負わずに撤退する案まで検討に上った。池田芳蔵社長はこうした声を押し切り、 『不退転の覚悟』 で本格的な推進を決めた。工事の一部をイラン側の負担に回して建設予算を5,500億円まで削減し、1977年6月から工事が急速に進んだ。

含意

基本協定は日本側に決定的に不利な契約だった。三井物産が自ら撤退した場合、イラン側は仲裁裁定を求めることができ、契約は2002年まで続く。その仲裁は3人の仲裁人のうち第三者を日イで決めきれなければイラン側が選び、場所はイラン、解釈もすべてイラン法に拠る定めだった。撤退で背負う賠償額については1兆円説と5,000億円説があり、どちらにしても1982年3月末の自己資本1,700億円を大きく上回るとみられた。

官民合弁の運営も重荷になった。文房具の調達から事業の細目まで、何を決めるにも役所からの出向者と協議を重ねねばならず、それが工期を延ばしコストを押し上げた。日本流の手順で工事を進められたのは1977年夏から1978年末までの1年半だけだった。引くに引けない構造は最初から契約に書き込まれており、この失敗は出資をせず請け負いに徹するのがリスク最小という海外事業の教訓を残した。

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筆者の見解
筆者の見解

引くに引けない構造と、撤退の勇気

この判断の核心は、革命や戦争という不運の前に、事業が引くに引けない構造として設計されていた点にある。鉱区の権益と石油化学コンビナートをひとつの取引に一括され、企業化調査の前提を確かめないまま折半出資の協定を締結した時点で、撤退の出口は塞がれていた。基本協定は一方的に手を引けばイラン側が仲裁裁定に持ち込める契約で、仲裁地はイラン、解釈はイラン法による。1982年3月末の自己資本1,700億円に対し、撤退時の賠償金要求は1兆円ともうわさされた。三井物産が背負っていたのは石油化学プラントではなく、この契約そのものだったとみられる。

もっとも、石油ショックで投資額が1,300億円から7,400億円へ跳ね上がった時点で、凍結という選択肢はまだ残っていた。物産内にも化学メーカーの間にも一時凍結の意見があり、資本をゼロにして請け負いに徹する撤収案まで出ていた。それを不退転の覚悟で退けた判断は、始めた事業をやり遂げる意志の強さであると同時に、環境が変わっても前提を疑わなかった硬さでもある。三井物産はこの失敗のあとも資源上流への投資を後退させず、数十年単位で仕込むプロジェクトを続けた。事業を始める勇気より方向を転換する勇気のほうが難しい――IJPCの13年が最大級の授業料とともに残したのは、その問いだったのではないか。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

業績の推移
投資と撤退の条件

投資と撤退の条件

科目 概要 備考
基本協定(BA)の調印 1971年10月 契約期間は2002年まで。仲裁地はイラン、すべての解釈はイラン法による
日本側の投資会社 ICDC(イラン化学開発) 三井物産・三井東圧化学・東洋曹達工業・三井石油化学工業・日本合成ゴムの5社が出資
三井物産の出資比率 60% ICDCの筆頭株主。合弁会社IJPCは1973年4月に日イ折半出資で発足
当初の投資額 1,300億円 1971年の基本協定調印の時点
石油ショック後の試算 7,400億円 1974年10月にIJPC建設本部が計算。当初の5.7倍
建設予算 5,500億円 一部工事をイラン側へ移して圧縮。場合により6,000億円の体制を組んだ
総事業費 7,300億円 1980年3月に工事再開へ向けて増額。1982年半ばの実行額は約6,000億円
日本政府の出資枠 200億円 イラン革命後の1979年10月に閣議決定
本格工事の開始 1977年6月 日本流の手順で進んだのは1978年末までの1年半
中断時の進捗 組立重量ベースで85% 工事スケジュールベースでは60%。1979年1月のイラン革命で中断
資金供給の停止 1981年4月23日 採算は完全に失われたとしてICDC取締役会が決定
ICDCローン 1,250億円 日本輸出入銀行と民間銀行からの借入。1982年半ばの残高は1,225億円
引き当てた損失 395億円 1982年3月期にIJPC関連の投融資の一部を引き当て、151億円の欠損と2円減配
リスク負担額 2,131億円 1982年5月末。償却済みの395億円を除く1,736億円が損失になる見込み
合弁解消の基本合意 1989年12月 事業性を失ったまま基本協定に縛られ、13年を経て終結へ向かった

出所:日経ビジネス 1981年10月5日号「失敗ドキュメント 三井物産のIJPCへの参加」(302号)/1982年8月9日号「ケーススタディ 三井物産」(324号)(日経BP)/日本経済新聞 1989年12月「私の履歴書・八尋俊邦」

売上高と損益の推移(単体)

三井物産:売上高と損益の推移(単体)

(億円) 売上高経常利益当期純利益 備考
1972年3月期 41,23524468
1973年3月期 49,41224094
1974年3月期 69,509346130 1973年10月の石油ショックで石油化学製品の需要と価格の見通しが崩れた
1975年3月期 86,188327141
1976年3月期 78,852152134 売上高は前期比8.5%減、経常利益は半減
1977年3月期 90,250235133 創業100周年。総額5,000億円のIJPC計画の本格推進を決めた期
1978年3月期 86,495213110
1979年3月期 83,606161112 1979年1月のイラン革命で工事中断
1980年3月期 112,082260135
1981年3月期 126,671356112 1981年4月にICDCが送金停止を決定
1982年3月期 132,250353△151 IJPC関連の投融資395億円を引き当て、当期は151億円の欠損
経常利益と当期純利益
経常利益(億円)当期純利益(億円)当期純利益率(%)

出所:三井物産 会社年鑑(1972〜1982年3月期・単体)

同じ問いに直面した会社

同じ問いに直面した会社

外的危機への対応1977年ニチロ二百カイリ規制を受けた漁労依存からの脱却と、加工・畜産事業への軸足移動漁業規制下の事業構成
1975年九州電力石油に頼りきった発電構成から抜け出すための、原子力を先頭に据えた組み替え電源構成と経営効率化
1978年東北電力石油専焼火力への依存を改めるLNGへの燃料転換火力発電の燃料転換と電源構成
1974年北海道電力600万kW級の大型計画を取り下げ、石炭を軸に据えた電源構成への組み替え石油危機下の電源構成と燃料選択
2018年オリエンタルランド3,200億円を一つの区域に投じ、契約期間ごと半世紀先へ延ばした回収設計大型投資と超長期の回収
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2007年日本製鋼所製鋼・鍛錬設備の増強と、原子力発電向け大型鍛鋼への傾斜原子力向け大型鍛鋼の能力増強と大型設備投資の是非
2024年江崎グリコ342億円を投じた入れ替えが招いた、チルド商品の出荷停止と75億円の営業減益基幹システムの刷新と業務プロセスの統合
1924年松坂屋関東大震災で焼失した上野店の復旧と、都心繁華街への進出震災復興と店舗網の再編
参考文献
出典・参考
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1982年8月9日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1976年11月22日号(三井物産・池田芳蔵社長発言)(日経BP)
  • 日本経済新聞 1989年12月(三井物産・八尋俊邦氏)
  • 読売新聞 1971年5月28日
  • 三井物産 会社年鑑(1972〜1982年3月期・単体)

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