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イラン石油化学(IJPC)への参画と、撤退できなかった巨大プロジェクト

1976年実施

石油部門で三菱商事に後れを取った三井物産は、なぜ採算が崩れ撤退論が出てもイランの石化事業から引けなかったのか

時期 1976
意思決定者 池田芳蔵氏(社長)
論点 資源・エネルギー権益をめぐる大型海外投資とリスク管理
概要
三井物産は1971年にイランと石油化学プロジェクト(IJPC=イラン・ジャパン石油化学)の基本協定を結び、石油ショックで投資額が当初の約1300億円から数千億円へ膨らんでも、社内の撤退論を池田芳蔵社長が退けて不退転で進めた。しかし1979年のイラン革命と1980年のイラン・イラク戦争で建設は頓挫し、最終的に1990年の合弁解消に至った。三井物産100年の歴史で最大級の失敗とされる。
背景
三井物産は石油部門でライバルの三菱商事に差をつけられ、エネルギー部門の強化を急務としていた。イランのロレスタン鉱区の獲得を狙うなかで、イラン側から「鉱区取得には三井グループの石油化学プロジェクトの実行が必要」と条件を付けられ、企業化調査が不十分なまま石化事業の引き受けへ傾いた。
内容
1971年10月、日本とイランの折半出資による基本協定を調印した。日本側は三井物産・三井東圧化学・東洋曹達工業・三井石油化学工業・日本合成ゴムが投資会社ICDCを設立し、三井物産が筆頭株主(60%)として事業を引っ張った。石油ショックで採算見通しが悪化しても、池田芳蔵社長は「不退転の覚悟」で凍結論・撤退論を退けた。
含意
革命と戦争という不可抗力が挫折の直接の原因だが、関係者は「戦争がなくても採算見通しは暗かった」と証言する。国策色を帯びた官民合弁で、イラン側との対等な合弁運営が非効率を生み、引くに引けない構造が最初から内包されていた。この失敗は「合弁より請け負いに徹せよ」という海外事業の教訓を残した。
筆者の見解

引くに引けない構造と、撤退の勇気

この意思決定の核心は、革命や戦争という不運の前に、事業がそもそも「引くに引けない」構造として設計されていた点にある。鉱区の権益と石化事業をひとつの取引に束ねられ、企業化調査の前提が危ういまま折半出資の協定を結んだ時点で、撤退の出口は狭められていた。関係者が「戦争がなくても採算見通しは暗かった」「革命がなくても事業は行き詰まった」と語るのは、外部環境ではなく事業の入り口の設計に敗因を見ているからである。

石油ショックで投資が膨らみ採算が崩れたとき、社内には凍結論も撤収論もあった。池田芳蔵社長がそれを「不退転の覚悟」で退けた判断は、始めた事業をやり遂げる意志の強さであると同時に、環境が変わったのに前提を疑わなかった硬さでもあった。事業を始める勇気より、変化が生じたときに方向を転換する勇気のほうが難しい──IJPCの13年は、その難しさを具体的に示している。国策色を帯びた官民合弁で、対等な合弁運営が非効率を生んだ経験は、「日本企業にとってリスクが最も小さいのは出資ゼロで請け負いに徹すること」という海外事業の教訓へつながった。

それでも三井物産は、この失敗のあとも資源上流への投資そのものは後退させなかった。数十年単位で仕込む資源プロジェクトは、短期の市況変動を受け入れる覚悟と一体であり、IJPCはその覚悟の原点にある痛みだった。撤退の勇気とリスク管理という問いを、100年の歴史で最大級の授業料とともに刻んだ点で、この決断は示唆に富む。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

石油部門で三菱商事に後れ、エネルギー強化を焦る

1968年11月、三井物産の若杉副社長がイランを訪れた際、NPC(イラン石油化学公社)の総裁モストフィ氏から、油田の廃ガスを石油化学事業へ利用する構想への協力を求められた。若杉氏は当初慎重だったが、1971年ごろにイランのロレスタン鉱区の獲得へ本腰を入れるなかで態度を変えた。ロレスタン鉱区は、非繊維部門の拡大を目指す帝人社長の大屋晋三氏が力を入れた案件で、三井物産も乗り気だった。石油部門でライバルの三菱商事に決定的な差をつけられており、エネルギー部門の強化が不可欠の課題だったからである[1]

イラン側は日本側の入れ込みを見抜き、「日本が鉱区を取得するには三井グループの石油化学プロジェクトの実行が必要」と条件を付けた。鉱区の権益を得たい三井物産は、企業化調査が不十分なまま、この石化事業の引き受けへ傾いた。産油国の力が強まる情勢のなか、鉱区獲得と石化事業がひとつの取引として結び付けられ、断りにくい構造ができあがった[2]

決断

「挫折の種は最初に産み落とされた」基本協定

1971年10月、三井物産は日本とイランの折半出資による石油化学プロジェクトの基本協定(BA)を調印した。日本側は三井物産・三井東圧化学・東洋曹達工業・三井石油化学工業・日本合成ゴムの5社が投資会社ICDC(イラン化学開発)を設立し、三井物産が筆頭株主(出資比率60%)として事業を引っ張った。企業化調査は経済性の一部を除いて出来ていたが、その前提となるイラン側との合弁運営の見通しは危うかった。当時この調査に携わった物産関係者は「挫折の種は最初の時点で産み落とされた」と振り返っている[3]

1973年10月の石油ショックで事態は一変した。当初1300億円だった投資額は、1974年10月の建設本部の計算で7400億円まで膨らみ、のちに一部をイラン側へ移して5500億円へ圧縮した。石油ショック後の不況で石油化学製品はだぶつき、採算の見通しは悪化した。社内には建設の凍結論や、東洋曹達会長の二宮善基氏が唱えた「ナショナル・プロジェクトにすべきだ」との主張、さらに資本を引き揚げる撤収論もあった。だが池田芳蔵社長はこれらを退け、「不退転の覚悟」で進めた[4]

1976年、創業100周年を迎えた三井物産は、このイラン石化プロジェクトを商社主導で本格的に進めた。池田芳蔵社長は「経済環境の変化に適応して、商社が国際経済に貢献する道である。勇断を持って実行すべきだ」と表明した。鉱区獲得の夢は、試掘の結果ロレスタンから原油が出ずに潰えたが、後に残ったIJPC事業は投資規模を雪だるま式に膨らませ、そのぶんリスクも膨らませていった[5]

結果

革命・戦争・送金停止──「私企業としての限界」

工事は1977年6月から本格化したが、1979年1月のイラン革命で中断した。工事は組み立て重量ベースで85%、工程ベースで66%まで進んでいた。革命でイラン側の命令系統・組織系統が崩壊し、建設部隊は「工事をできる環境になかった」と判断していたが、産油国イランとの外交を重んじる政府の要請もあり、ICDC社長に就いた元通産次官の山下英明氏はイラン側の再開要求に譲歩を重ねて工事再開を約束した。総枠200億円の政府出資も決まった。だが1980年9月にイラン・イラク戦争が勃発して建設現場が被爆し、1981年4月、ICDCは送金停止を決めた。八尋俊邦社長は「このままイラン側の要請通り送金を続けるわけにはいかない。私企業としての限界に来ている」と記者会見で語った[6]

その後もイランの内乱は続き、事業は再開のめどが立たないまま長期化した。IJPCは1990年12月に合弁を解消して終結し、三井物産は多額の損失を負った。後任社長の八尋俊邦氏は、合弁解消について「すべては油乞いの時代に締結した『基本協定』と呼ぶ契約が足かせとなった」と回想している。石油の確保を焦った時代に結んだ協定が、その後20年以上にわたり三井グループを縛り続けた[7]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号「失敗ドキュメント 三井物産のIJPCへの参加」(日経BP)
  • 日経ビジネス 1976年11月22日号(三井物産・池田芳蔵社長発言)(日経BP)
  • 日本経済新聞 1989年12月(三井物産・八尋俊邦氏)
  • 三井物産 有価証券報告書(1976年3月期)