この創業で効いたのは、資本を持たないことが制約ではなく機動力として働いた点だろう。自前の資本金を計上しない以上、拠点も商材も固定して保有する対象にはならない。益田孝氏は開業後まもなく上海からミラノまで7都市へ人を送り、直輸出が伸びないと見るや1881年から順に閉鎖した。石炭・米・官用品の三品で始めて明治末に300種まで広げた歩みも、人を置く場所と扱う物を選び直し続けた延長にある。資本ではなく人材を組織の原理に据えた選択が、後の総合商社という業態の型を用意したと読める。
もっとも、この創業から今日までが一本の線でつながっているわけではない。世界数十拠点まで育った戦前の三井物産は1947年に解散し、社員が二人以上で旧関係を保つことすら禁じられて、組織としては一度失われた。それでも人と取引先の縁は分散先に残り、1959年の大合同で第一物産を核に同じ商号が戻ってくる。戦前商社の解散と戦後商社の誕生を一つの看板で経験した会社は他になく、創業から数えるか再結集から数えるかで、この会社の年齢は80年以上ちがってくる。二度目の出発もまた、資本ではなく人が集まって商号を立て直した点で最初の創業と同じかたちをとったのかもしれない。