三井物産室町物産との商号争いと、四年七カ月遅れた一九五九年の大合同

解散させられた三井物産の商号を、なぜ第一物産は自ら名乗らず、鉄鋼専門商社との争いを経て取り戻したのか

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時期 1955年8月
意思決定者(推定) 新関八洲太郎氏・水上達三氏 第一物産 社長・第一物産 代表取締役
論点 解散させられた商社の商号と組織をどう回復するか
概要
1947年7月のGHQ解散命令で消えた三井物産の商号は、1952年の講和条約発効で復活が可能になった。旧物産系新会社14社の社長は商号を日東倉庫建物へ預けることで合意したが、1953年7月に鉄鋼専門商社の室町物産がその日東倉庫建物を合併して三井物産を名乗った。総合商社として育っていた第一物産はこれを申し合わせ違反として反発し、合併交渉は決裂と再開を繰り返した。1959年2月16日、第一物産を存続会社とする合併が成立し、商号は三井物産へ戻った。三菱商事の大合同に四年七カ月遅れた。
背景
GHQの解散命令は、過去10年間に役員や部長を務めた者を新会社が2名以上雇うことを禁じ、100名を超える従業員が新会社を組織することも認めず、商号の使用も禁じたうえで、向こう10年間有効とされた。旧三井物産は約180の会社に分かれ、社員が各地で興した物産系の新会社は200社を超えた。1952年4月の講和条約発効で財閥商号の復活が可能になると、商号を他社に取られることが現実の懸念となった。
内容
1955年8月30日深夜、合併比率1対1・商号を三井物産・合併期日を1956年4月1日とする11項目の覚書を交わした。しかし直前の8月25日に室町物産が予告なく半額無償増資を発表しており、交渉は存続会社をどちらにするかで紛糾した。第一物産は売上高で室町物産の6倍の規模を持ち、決算書に明記した22億円の不良債権を税務上処理するためにも存続会社となる必要があった。1956年4月の合併は実現しなかった。
含意
決着させたのは市況である。1956年10月のスエズ動乱による相場急騰の反動で、鉄鋼メーカーの操短により室町物産は買い付けたスクラップの手形が落ちず金融難に陥った。主力行の東京銀行と富士銀行はいずれも第一物産とも取引が深く、かねて大合同を望んでいた。第一物産が有償半額増資を行い、その主導のもとで1959年2月に合併が成立した。三井物産は、戦前商社の解散と戦後商社の創業という二つの出発点を持つ会社になった。

本編

預けた商号を先に名乗られた

1952年4月の講和条約発効で財閥商号の復活が可能[1]になると、旧物産系新会社14社の社長が三井本館に集まり、「三井物産」の商号を他社に取られないよう日東倉庫建物へ預けることを決めた[2]。適当な時期に旧物産系商社が合併してこの社名を継ぐという合意だったが、そのための文書は残されなかった[3]。1953年7月、鉄鋼を扱う室町物産がその日東倉庫建物を合併[4]し、三井物産を名乗った。

第一物産側はこれを長老たちの申し合わせに対する違反[5]とみなした。対抗して三井木材工業を合併[6]し、三井の社名を冠する会社を傘下に入れることで主流であることを示そうとした。株価は三井木材が五十数円に対して第一物産が100円以上[7]あり、対等合併の条件としては第一物産が犠牲を払う形になった。それでも合併に踏み切ったのは、三井の主流であるという印象を世間に示す狙い[8]による。

存続会社をめぐる二年半の対立

1955年8月30日深夜、両社は合併比率1対1、合併後の商号を三井物産[9]、合併期日を1956年4月1日とする11項目の覚書を交わした。しかし直前の8月25日、室町物産は予告なく半額無償増資を発表[10]していた。表向きは対等合併の条件づくりとされたが、存続会社の座を取るための布石[11]でもあった。最大の争点は、どちらを存続会社とするか[12]であった。

第一物産は売上高で室町物産の6倍の規模[13]を持ち、支店登記や代理店契約の継承の面でも存続会社となるのが自然だと主張した。決算書に明記した22億円の不良債権[14]も理由になった。被合併会社の損失は税法上、合併会社に継承されない[15]ため、室町物産を存続会社にすればこの22億円は損失として認められない。対する室町物産は、旧三井物産の第二会社として発足した会社が手続上の便宜だけで解散するのは筋が通らない[16]と譲らず、1956年4月の合併は実現しなかった[17]

市況が決めた決着

事態を動かしたのは市況である。1956年10月のスエズ動乱で運河が封鎖されて商品相場が急騰[18]し、商社は利益を得たが、反動がすぐに訪れた。国内不況で鉄鋼メーカーが軒並み操短に入り、室町物産は大量に買い付けたスクラップの手形が落ちず[19]に金融難へ陥った。メインバンクの東京銀行と富士銀行はいずれも第一物産とも取引が深く[20]、かねて大合同を望んでいた。

1959年2月16日、第一物産が有償半額増資を行い、その主導のもとで合併が成立して商号を三井物産へ変更[21]した。三菱商事の大合同が1954年7月に済んでいた[22]のに対し、四年七カ月の遅れであった。新しい三井物産の従業員は5,300人で、解散時の7,000人あまりには届かなかった[23]が、営業網は国内40・海外41・現地法人11に達した。戦前の三井物産が日本の貿易総額の18.3%を扱っていた規模[24]には及ばず、看板の回復と実力の回復は別の課題として残った。

出典・参考
  • 私の商社昭和史(水上達三 著、東洋経済新報社、1987年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「商事・貿易」概説
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編「三井物産」
  • 三井物産 有価証券報告書【沿革】

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