益田孝氏による無資本創業(1876年・三井物産の決断)1876年 | 三井物産の決断
何をなぜ決めたか:資本を持たずに興した商社と、解体と再結集を重ねた二層構造
概要
1876年7月1日、大蔵省を辞して先収会社で商社実務を積んだ28歳の益田孝氏が、東京日本橋駿河町の三井組ハウス内で旧三井物産会社を開業した。掲げた目的は国内国外にわたる物品の売買で、公式の資本金は計上せず、商品売買の運転資金を三井組から借り受けて利益で精算する「身代り資本」の方式をとった。自社の建物は持たず、社員は数十名。創立以来の取扱品は石炭・米・官用品の三品で、なかでも官営三池炭鉱の石炭販売受託を主力に据え、上海向けの汽船燃料として産炭を一手に海外へ送り出した。
背景
益田孝氏は幕末に英学を修め、1863年の遣欧使節団で横浜開港場の英語商習慣に接した。1876年に井上馨氏が三井組の顧問に戻ると、洋式の商社経営を心得ていることが買われ、商事部門の責任者として迎えられた。それ以前、明治維新の後には大蔵省に入省し、井上馨氏の下で銀行制度の調査にあたった。1873年に井上馨氏が失脚すると行動を共にして職を辞し、井上馨氏が起こした先収会社で洋式簿記や代理店制度の実務を身につけていた。
物産の開業年である1876年は、三井銀行の創立年と重なる。両社の創設に大きな役割を果たしたのは総取締の三野村利左衛門氏であり、維新の激動のなかで政府高官とのつながりを保ち、三井の危機を乗り切らせて伸びる土台をつくったのもこの人物だった。三井は江戸期から特権を持つ大商人であったが、近代の産業を担う側へと転じた。
内容
三井家は銀行業への転換を控え、商事の損失を別法人へ切り離す必要から公式資本金を計上しなかった。益田孝氏は適当な教育を受けた人材を用いることを重んじ、若手の登用と海外派遣を急いだ。1881年の時点で、ニューヨークに支店を開設する日本の商社は10社、在留する社員は31人にとどまっていた。三井物産は開業から間もなく、上海・パリ・香港・ニューヨーク・ロンドン・リヨン・ミラノに支店または出張所を開設している。
ただ、この拠点網は順調には広がらなかった。経営が比較的安定していた三井物産ですら、1881年に香港・リヨン・ミラノ、翌年にニューヨーク、1888年にパリの店をいったん閉じた。商社には資力が足りず、海運も為替金融機関も育っておらず、直輸出額は輸出総額の1割をこえる程度にとどまっていたためである。
沿革:意思決定前後の出来事12件
考察:無資本で興した商社が二度生まれた意味
考察:無資本で興した商社が二度生まれた意味
この創業で効いたのは、資本を持たないことが制約ではなく機動力として働いた点だろう。自前の資本金を計上しない以上、拠点も商材も固定して保有する対象にはならない。益田孝氏は開業後まもなく上海からミラノまで7都市へ人を送り、直輸出が伸びないと見るや1881年から順に閉鎖した。石炭・米・官用品の三品で始めて明治末に300種まで広げた歩みも、人を置く場所と扱う物を選び直し続けた延長にある。資本ではなく人材を組織の原理に据えた選択が、後の総合商社という業態の型を用意したと読める。
もっとも、この創業から今日までが一本の線でつながっているわけではない。世界数十拠点まで育った戦前の三井物産は1947年に解散し、社員が二人以上で旧関係を保つことすら禁じられて、組織としては一度失われた。それでも人と取引先の縁は分散先に残り、1959年の大合同で第一物産を核に同じ商号が戻ってくる。戦前商社の解散と戦後商社の誕生を一つの看板で経験した会社は他になく、創業から数えるか再結集から数えるかで、この会社の年齢は80年以上ちがってくる。二度目の出発もまた、資本ではなく人が集まって商号を立て直した点で最初の創業と同じかたちをとったのかもしれない。
資本金の推移
数字で見る
創業の条件
創業の条件
参考文献
参考文献
参考
- 自叙益田孝翁伝(1939)
- 日本産業史(日経文庫) 第1巻 金融・商業
- 日本産業史(日経文庫) 第1巻 通史
- 三井物産 社史
- 私の三井昭和史(1986)
- 三井物産 有価証券報告書「【沿革】」


