丸紅 の歴史

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創業 1858年
創業者 伊藤忠兵衛
創業地 大阪
創業
1858年、初代伊藤忠兵衛が大阪で麻布の持下り商いを始め、1872年には呉服太物の卸として紅忠が店を構えた。家業が個人商から法人化を要する規模に達した1918年、二代伊藤忠兵衛のもとで伊藤忠商事と丸紅商店に分離し、同じ出自の商号が二つに分かれた。戦時統合で大建産業へ集約されたのち、1949年の過度経済力集中排除法による分割で再独立するが、市川忍と伊藤忠の交渉により綿ののれんは伊藤忠へ渡り、丸紅には絹・毛・麻・化繊が残された。最も収益性の高い商品を欠いたまま出発した。1955年に高島屋飯田を吸収して機械・金属と羊毛の商権を取り込み、1961年には非繊維売上で伊藤忠に半期約400億円の差をつけた。
決断
損失の処理を先送りし、そのたびに外から期限を切られてきた。1976年、航空機の売り込みでロッキード事件の舞台となり、経営陣は訴追と退任に追い込まれる。1987年に就任した春名和雄社長は、売上至上・国内商売の弱さ・タテワリ組織という総合商社化の負の側面を自ら名指しした。1992年10月には鳥海巌社長が財テクの後始末として子会社の清算と統合に着手したが、含み損の抜本処理は先送りされ、1998年以降の不良資産問題として戻ってきた。株価が100円台まで沈んだ2002年、勝俣宣夫社長が不良資産を抜本処理して財務を立て直した。2020年3月期には市況急落とコロナ禍のもとでチリ銅と石油ガスの権益を一括減損し、18年ぶり・過去最大の最終赤字を受け入れた。
現況
売上の45%は食料と農業資材が占めている。2026年3月期の売上高8兆2,658億円のうち食料・アグリが3兆7,205億円にのぼり、当期利益も金融・リース・不動産1,620億円、金属1,343億円に次ぐ815億円だった。中心にあるのは北米で農家へ農業資材を届ける川下の流通網で、米国の有形固定資産5,911億円は日本の5,205億円を上回る。2012年に約2,860億円で買収した米穀物大手ガビロンは取扱数量で世界上位に立ったものの巡航利益が80〜100億円にとどまり、2022年に穀物事業をヴィテラへ売却した。回収した約3,000〜4,000億円は債務の返済に充てられた。
競合
差がついているのは商権の広さではなく、時価総額である。2026年3月期の時価総額は三菱商事21兆4,230億円、三井物産17兆0,712億円、伊藤忠商事15兆6,511億円と続き、丸紅は9兆3,287億円にとどまった。当期純利益も5,439億円で、9,003億円の伊藤忠、8,340億円の三井物産には届いていない。2025年2月、14人抜きで社長に就任した大本晶之のもとで2030年度の時価総額10兆円超を掲げ、3年で1兆7,000億円、うち1兆2,000億円を農業資材・北米モビリティ・電力へ投じる計画を置いた。資源の減損で沈んだ会社が次に選んだのは、権益ではなく農家と電力需要家へ直接届く位置だった。

創業ストーリー 近江商人から戦時統合を経て戦後再独立へ (1858年〜)

近江商人一家から二つの商社に割れた1918年の分岐

丸紅と伊藤忠商事の共通の源流は、1858年に初代伊藤忠兵衛が大阪で始めた麻布の持下[1]り商いにある。1968年刊の社史『企業の歴史 明治百年』は、この家業が滋賀県犬上郡豊郷村の伊藤家に発祥し、明治維新前後の変革期に近江麻布類の持下[2]りに端を発したと記す。1918年、二代伊藤忠兵衛のもとで伊藤忠商事と丸紅商店が分離し[3]、同じ出自の商号が二つに分かれた。分離は敵対ではなく家業の継承方法の選択であり、近江商人の家業を株式会社制度へ載せ替える再編であったと市川忍氏の回想は伝える。繊維卸を軸にした貿易商社として独自の道を歩む丸紅の輪郭が、この分離の時点で定まった。

  • 丸紅 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1858年 初代伊藤忠兵衛が大阪で麻布の持下り商いを開始(丸紅・伊藤忠の共通源流)
    • [3]1918年 伊藤忠商事と丸紅商店が分離(二代伊藤忠兵衛のもと)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]伊藤家は滋賀県犬上郡豊郷村に発祥し、明治維新前後の変革期に近江麻布類の持下りに端を発したと社史『企業の歴史 明治百年』が記す

1918年に分かれた丸紅商店は、社史『企業の歴史 明治百年』によれば1921年3[4]月に株式会社丸紅商店として設立され、糸や織物に繊維雑貨・金物・薬品・食糧品を加え、営業所は朝鮮・満州・中国にも及び直営工場を持つ規模に育った。1941年の戦時統制下で丸紅商店は岸本商店・伊藤忠商事と合併して三興株式会社[5]となり、1944年には呉羽紡績・大同貿易を加えた合併で大建産業へ再編され、支配下の子会社は内外45社に達した[6]。繊維商社としての自律性は戦時経済の動員のなかで失われ、企業の連続性は商号の連続性から切り離された。戦時の巨大商社の輪郭は、戦後の過度経済力集中排除法[7]による分割対象を定義する枠組みとなった。商号の継承と経営主体の連続性のずれが戦後の再独立交渉の出発点を規定し、一度ひとつにまとまった家業がもう一度分けられる奇妙な往復を生んだ。戦後の丸紅が抱えた繊維中心の構造は、この再編の過程でかたちをとった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]1921年3月 株式会社丸紅商店が設立(社史『企業の歴史 明治百年』記載。沿革の系譜は㈱丸紅商店を経て大建産業に至るとし矛盾しない)
    • [6]大建産業時代に30%以上の支配率を持つ子会社が内外計45社に達したと社史『企業の歴史 明治百年』が記す
  • 丸紅 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1941年 丸紅商店・岸本商店・伊藤忠商事が合併し三興株式会社が発足
    • [7]戦時の巨大商社の輪郭が戦後の過度経済力集中排除法による分割対象を定義した
  • 丸紅 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1858年 初代伊藤忠兵衛が大阪で麻布の持下り商いを開始(丸紅・伊藤忠の共通源流)
    • [3]1918年 伊藤忠商事と丸紅商店が分離(二代伊藤忠兵衛のもと)
    • [5]1941年 丸紅商店・岸本商店・伊藤忠商事が合併し三興株式会社が発足
    • [7]戦時の巨大商社の輪郭が戦後の過度経済力集中排除法による分割対象を定義した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]伊藤家は滋賀県犬上郡豊郷村に発祥し、明治維新前後の変革期に近江麻布類の持下りに端を発したと社史『企業の歴史 明治百年』が記す
    • [4]1921年3月 株式会社丸紅商店が設立(社史『企業の歴史 明治百年』記載。沿革の系譜は㈱丸紅商店を経て大建産業に至るとし矛盾しない)
    • [6]大建産業時代に30%以上の支配率を持つ子会社が内外計45社に達したと社史『企業の歴史 明治百年』が記す

財産・のれん分けの交渉現場と再独立

1949年の過度経済力集中排除法により大建産業は丸紅・伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所の4社に分割され[8]、同年12月に丸紅株式会社として再発足した[9]。分割交渉の内実は当時の役員の記憶に残る。市川忍氏は『私と伊藤忠の小菅氏とは商事部門の財産分けについて直接交渉のテーブルにつくことになった。なんといっても最大の焦点は不動産の分割だった』[引用元](日本経済新聞『私の履歴書』 1970/1)と振り返り、旧丸紅由来の不動産を折半にした経緯を綴った。[10]のれんについては『綿ののれんは伊藤忠、その他の絹、毛、麻、化繊は丸紅ということに落ち着いた』[引用元](日本経済新聞『私の履歴書』 1970/1)と明かし、綿が最も収益性の高い繊維商材であった時代に、丸紅は綿以外を受け持つ形で再出発する条件を抱え込んだ。

  • 丸紅 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1949年 過度経済力集中排除法により大建産業が丸紅・伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所の4社に分割
    • [9]1949年12月 丸紅株式会社として再発足
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1970年1月)
    • [10]市川忍が伊藤忠の小菅氏と商事部門の財産分け(最大の焦点は不動産分割)を直接交渉

1950年4月に東京証券取引所へ上場し、再独立の初期は綿糸相場の急落と向き合った。1952年11月、読売新聞は『世界的綿花相場の暴落をうつして繊維市況はついに恐慌状態に陥り、21日も寄付きから大量の投げ物が殺到して商内は前日に引き続いての大混乱』[引用元]と書いた。市川忍氏はこの朝鮮動乱後の綿業不況を『丸紅も例外ではない。大ピンチだった。私は銀行、紡績会社をかけずり回り、借金をタナ上げしてもらうよう頼み込んだ』[引用元](日本経済新聞『私の履歴書』 1970/1)と記している。[11]綿以外を受け持った分割条件が、皮肉にも綿価暴落の直撃を相対的に軽くしたとも読めた。丸紅は綿の主流から外された不利を、綿暴落の被害軽減としてわずかに取り戻した格好となった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1970年1月)
    • [11]市川忍が朝鮮動乱後の綿業不況を『大ピンチ』と回想(借金のタナ上げ依頼)
  • 丸紅 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1949年 過度経済力集中排除法により大建産業が丸紅・伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所の4社に分割
    • [9]1949年12月 丸紅株式会社として再発足
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1970年1月)
    • [10]市川忍が伊藤忠の小菅氏と商事部門の財産分け(最大の焦点は不動産分割)を直接交渉
    • [11]市川忍が朝鮮動乱後の綿業不況を『大ピンチ』と回想(借金のタナ上げ依頼)

1955年・高島屋飯田吸収が生んだ総合商社の芽

1955年2月、丸紅は高島屋飯田を吸収した。読売新聞は『丸紅は取扱い高140、150億円となり羊毛部門では丸紅の商い高4%と高島屋の12%を合算すると羊毛関係では業界第一といわれた兼松(月商推定30億円)をしのぎ、機械、金属部門も合わせて総合商社への基盤が繊維商社の中で真先に確立された』[引用元]と書いた。『今度の合併を契機に関西五綿、船場6社間では新合併の検討を進めるものとみられ、丸紅がテスト・ケースとなり急速に総合商社への発展がみられよう』[引用元]とも記され、戦後商社の再編の口火を丸紅が切った事実を同時代に記録した。分割交渉で綿のれんを譲った裏返しとして、丸紅は綿以外の商権拡大を急いでおり、高島屋飯田の羊毛と機械・金属は、綿の不在を補う経営判断の延長線上にあった。

合併の狙いは、1956年の市川忍氏の言葉に残る。『現在のところ売上高の3分の2は繊維関係で占めていますが、これからは、その他の商品にも大いに力を入れて伸ばしていかねばならんと思っています』[引用元]『単に有力な貿易商社としての発展をはかるだけでなく、同時にそこに停滞することなく常に時代の趨勢を見極めて大所高所から事業の伸展をはからねばならんと考えています』[引用元](経済展望 1956/10)。繊維3分の2の収益構造を変える意志は、吸収した高島屋飯田由来の機械・金属部門を土台に、綿以外の商権拡大として具体化した。1950年代後半の丸紅の歩みは、綿を失った出発点を機械と羊毛で埋め直す反転の記録として読める。

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丸紅の沿革1858〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1858〜1954年近江商人から戦時統合を経て戦後再独立へ丸紅創業——15歳の近江商人が開いた「紅忠」から、伊藤忠と分かれ再独立するまで

1858年、近江国犬上郡豊郷村出身の15歳・初代伊藤忠兵衛氏が麻布の持下り行商を始め、1872年に大阪本町で呉服太物卸の『紅忠』を開いた。屋号の『紅』は後に『〇に紅』の商標として丸紅の原型となった。二代伊藤忠兵衛氏が1914年に伊藤忠合名会社、1918年に株式会社伊藤忠商店を発足させたのち、1920年の戦後恐慌を受けて1921年3月、貿易・綿の伊藤忠商事と国内繊維卸の丸紅商店を系統別に分離した。丸紅は戦時統合と1949年の分割を挟み、綿以外の繊維を担う商社として再独立した。

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★★★
伊藤忠兵衛が大阪本町に「紅忠」を開店
伊藤忠商事と丸紅商店が分離設立★★
三興が発足★★
大建産業に商号変更
市川忍過度経済力集中排除法により大建産業が分割
市川忍丸紅として再発足★★
市川忍東京証券取引所に株式上場
市川忍大阪、東京両証券取引所に株式を上場
市川忍丸紅ニューヨーク会社を設立
1955〜2005年繊維商からロッキード事件まで、総合商社化の代償市川忍高島屋飯田と合併し「丸紅飯田」に商号変更★★
市川忍髙島屋飯田を合併して、商号を丸紅飯田と変更(資本金 16億円)
檜山廣東通と合併★★
檜山廣東京支社を東京本社に商号変更
檜山廣東通を合併(資本金 155億円)
檜山廣商号を丸紅と変更
檜山廣商号を「丸紅」に変更
檜山廣総合商社としての地位確立と一次資源ブーム
檜山廣南洋物産を合併(資本金 304億6千万円)
松尾泰一郎ロッキード事件への関与と「海図なき航海」

1976年に表面化したロッキード事件で、丸紅は米ロッキード社の日本代理店として全日空へのトライスター(L-1011)売り込みに深く関わり、田中角栄元首相への資金供与の舞台となった。檜山廣会長、大久保利春専務、伊藤宏専務らが退任・訴追され、商社のガバナンスが政治問題として問われた。

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★★★
春名和雄丸紅英国会社を設立
春名和雄「"強い商社"への再生」──春名和雄が名指しした収益体質の歪み

ロッキード事件の後遺症で「海図なき航海」に陥った丸紅で、1987年就任の春名和雄社長が売上至上・国内商売の弱さ・タテワリ組織という総合商社化の負の側面を自ら診断し「"強い商社"への再生」を掲げた自己診断

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★★★
鳥海巌財テクの後始末と「素顔の美しい会社」──鳥海巌の初期リストラ

1992年6月、前社長・竜野高雄の急病で登板した鳥海巌社長は、『素顔の美しい会社』を掲げてバブル期の財テク(特金・ファントラ)の後始末とリストラに着手した。10月から営業部門630社の子会社見直しを命じ、原油ディーリング2社の清算、エネルギー・食品6社の統合、丸紅テキスタイルの清算などを進めた。

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★★★
辻亨新設分割により伊藤忠丸紅鉄鋼へ鉄鋼製品の営業を承継★★
辻亨「負け組」からの再建──不良資産の抜本処理と財務立て直し

2001年から2002年にかけて、不良資産の処理が同業に遅れて信用不安にさらされ株価が100円台まで沈んだ丸紅は、勝俣宣夫社長のもとで不良資産の抜本処理とグループ会社の整理、鉄鋼事業の伊藤忠との統合、融資枠の確保による資金繰り安定化に踏み込んだ。この再建を土台に、2000年代後半の資源価格上昇で過去最高益へ転じた。

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★★★
2006〜2024年ガビロン・チリ銅の減損を越え時価総額10兆円宣言へ勝俣宣夫勝俣宣夫が代表取締役社長を退任、朝田照男が就任
売上高10兆6316億円・当期純利益1472億円
朝田照男リーマン危機下でも当期純利益1112億円を確保
朝田照男IFRS適用初年度、営業利益4995億円、当期純利益2056億円
國分文也國分文也氏が社長に就任
國分文也米穀物大手ガビロンの買収と、穀物事業のヴィテラ売却

2012年5月に約2,860億円で発表し2013年7月に完了した米穀物大手ガビロンの買収と、2022年に穀物事業をカナダのヴィテラへ売却して整理するまでの一連の経営判断。買収完了時は國分文也社長、売却時は柿木真澄社長のもとで進んだ。石油で出遅れた丸紅が、非資源の目玉として穀物に賭け、そして畳むまでの弧である。

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★★★
國分文也当期純利益622億円まで落ち込み★★
柿木真澄柿木真澄氏が社長に就任
柿木真澄チリ銅など資源権益の一括減損と18年ぶりの最終赤字

2020年3月期、就任初年度の柿木真澄社長のもとで、丸紅がチリ銅・米ガルフ石油・北海油田など資源権益の含み損を一括して減損処理し、当期純損益を1,974億円の赤字(18年ぶり・過去最大の最終赤字)へ沈めた経営判断。資源市況の急落と新型コロナ禍が重なるなかで、過去の投資の後始末を一度に引き受け、以後の投資規律を立て直した。

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★★★
柿木真澄コロナ禍下で営業利益1461億円、純利益2232億円にV字回復
柿木真澄時価総額10兆円を掲げた中期経営戦略「GC2027」と大本新体制

2025年2月、丸紅は中期経営戦略『GC2027』(2025〜2027年度)を公表し、2030年度までに時価総額10兆円超を目指すと掲げた。3年間で1兆7,000億円を投じ、うち1兆2,000億円を農業資材・北米モビリティ・電力など成長分野へ振り向ける。2025年4月には柿木真澄社長が会長へ退き、電力畑からコンサルティング会社を経て出戻った大本晶之氏が社長に就いた、新体制の拡張戦略である。

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★★★
大本晶之大本晶之氏が社長に就任
出典・参考
  • 丸紅 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1970年1月)

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