「"強い商社"への再生」──春名和雄が名指しした収益体質の歪み

1987年実施

ロッキード事件の後遺症で「海図なき航海」に陥った丸紅で、就任した社長はなぜ他社批判ではなく自社の弱さの列挙から始めたのか

時期 1987
意思決定者 春名和雄(社長)
論点 総合商社化が残した収益体質・国内商売・タテワリ組織の弱さ
概要
1987年に社長となった春名和雄が「"強い商社"への再生」を掲げ、売上規模の追求に偏った収益体質、国内商売の弱さ、部門を隔てるタテワリ組織という、総合商社化の過程で残った弱点を自ら名指しして是正に着手した。
背景
ロッキード事件の後遺症が長引き、丸紅は業界での地位を落とした。1985年の日経ビジネスは「仮説も立てられず"海図なき航海"を続けてきた」と書き、社内の沈滞を再生の課題に挙げた。
内容
春名は売上一番の競争が利益に結びつくかを問い直し、繊維から育った会社が国内の商いで力を落とした原因を内地屋・貿易屋に分けた人事に、組織の弊害を入社時の配属で経歴が決まるタテワリに求めた。
含意
名指しした弱さは在任中には解けず、財テクの後始末、子会社の整理、不良資産の処理という十数年の再建へ持ち越された。「強い商社への再生」は、自社の弱点を早く言い当てた自己診断の前史として残った。
筆者の見解

病名を言い当てることと、治すこと

この判断の核心は、大きな組織改革を断行した点ではなく、就任した社長が自社の弱さを自らの言葉で名指しした点にある。売上一番の競争、国内商売の弱さ、部門を隔てるタテワリ。いずれも繊維商から総合商社へ駆け上がった成功の裏返しであり、外からは見えにくい内側の弱点だった。春名はそれを、飾らない口ぶりで一つずつ言い当てた。「強い商社への再生」という掲げ方は、まず自社の現在地を認めることから始めるという宣言でもあった。

もっとも、病名を言い当てることと、それを治すことは別である。春名が挙げた弱さは在任中には解けず、財テクの後始末、子会社の整理、不良資産の処理という十数年を経て、ようやく2000年代の再建につながった。正確な診断が早い治療を約束するわけではない。「強い商社への再生」は、その距離の長さを示す前史として読める。資源高で最高益を更新した今日の丸紅を見るとき、収益体質を問うたこの1987年の自己診断は、どこまで実を結び、何を持ち越したのか。転換点のたびに問い直す価値のある問いを残している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ロッキードの後遺症と「海図なき航海」

1976年のロッキード事件は、丸紅から金銭や経営陣だけでなく、将来を構想する余力を奪った。伊藤忠や三井物産のように経営の根底を揺るがす事故ではなかったが、後遺症は長く残り、業界での地位は下がった。1985年の日経ビジネスは「丸紅の今日の悲劇は、ロッキード事件に振り回され、仮説も立てられず、"海図なき航海"を続けてきたことにある。その結果が業界での地位低下である」と書き、転落の原因を社員の覇気の喪失に求めた。事件から10年近くを経ても、丸紅は自らの針路を描けずにいた[1]

総合商社化が残した収益体質の弱さ

丸紅の弱さは、事件だけに由来したのではない。繊維商を出発点に、機械・金属・エネルギー・食料へと商域を広げて総合商社となったが、規模の拡大が収益の厚みには結びつかなかった。とりわけエネルギーの出遅れは目立った。1979年の日経ビジネスは「原油取扱い高は三菱商事の3分の1、伊藤忠商事の2分の1に過ぎない。他社に比べ、石油に乗り出すのが大幅に遅れたことが最大の原因」という広江勲常務の言葉を伝えた。多角化で積み上げた売上規模の内側に、収益体質の弱さが残っていた[2]

決断

売上一番の競争を問い直す

1987年、春名和雄が社長に就いた。掲げたのは「"強い商社"への再生」である。春名はまず、商社どうしの売上規模の競争そのものに疑いを向けた。「石油ショックの頃からですわ。原油価格がバンバン上がりだし、売り上げ一番はどこだなどと言い出した。しかし売り上げのボリュームが増えることが利益につながるのだから、その意味で売り上げを増やすことにあらゆる努力をしていきますよ」。売上の順位を競うのではなく、その売上が利益に結びつくかを問う。収益体質の是正を、春名は自らの言葉で語った[3]

国内商売の弱さとタテワリ組織

次に春名は、繊維から育った会社が国内の商いで力を落としたことを認めた。「当社の場合、国内商売が弱いんです。もともとうちは繊維から育っていますから国内商売は得意だったんだが、率直に言ってこれはやり方がまずかった。社員を内地屋、貿易屋に分けてしまった」。国内担当と貿易担当を分けた人事が、得意だったはずの国内取引の力をそいだ。総合商社化を急ぐなかで、丸紅は出発点にあった強みを自ら弱くしていた[4]

弱さの根には、部門ごとに人を固定するタテワリの組織があった。「入社直後、鉄鋼の担当になればずっと鉄鋼畑というタテワリ組織でしたが、これは弊害を招いた」。配属が経歴をほぼ決め、部門をまたいで人や商いが動きにくい。総合商社化の過程で積み上げた各分野の専門性が、裏では部門間の壁になっていた。春名は売上・国内商売・組織という三つの弱さを、就任トップとして自ら名指しした[5]

結果

自己診断から、十数年の再建へ

春名が名指しした弱さは、その言葉のとおりには早く解けなかった。収益体質の是正も国内商売の立て直しも、在任中に大きな数字の転換としては表れない。丸紅は1990年代を通じて財テクの後始末とリストラに追われ、不良資産の処理は同業に遅れた。伊藤忠との差は1998年3月期決算で表面化し、2002年の日経ビジネスは「不良資産の処分に遅れ信用不安にさらされた丸紅は、失われた10年の日本経済の縮図でもある」と書いた。春名の自己診断は、この長い再建の入口に置かれていた[6]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1987年3月2日号「編集長インタビュー 春名和雄氏(丸紅社長)『"強い商社"への再生』」(日経BP)
  • 日経ビジネス 1985年4月15日号「"春名政権"待ったなし、再生のシナリオ」(日経BP)
  • 日経ビジネス 1979年12月31日号(丸紅・エネルギー部門の出遅れ)(日経BP)
  • 日経ビジネス 2002年3月25日号「丸紅、株価100円台回復も財務基盤は不安定」(日経BP)