戦時の統制に従っただけの合併という説明では、この統合の中身が欠ける。一県一行主義が命じたのは県内の銀行を一つにすることであって、どんな地盤が持ち寄られるかまでは決めていない。福岡市の商業金融を担う十七銀行に、筑豊の炭鉱資本を背景とする嘉穂銀行、県南18行を集約した筑邦銀行、県下唯一の貯蓄銀行が加わり、福岡県の産業構成がほぼそのまま1行に集まった。発足時に全国の地方銀行で預金高第1位を占めたのは、この合算による。
もっとも、制度が配した地盤は、産業の変化までは引き受けてくれない。合併で得た規模は、県内産業の浮沈をそのまま負うことでもあったといえる。与えられた地位をどう使うかが問われたのは、4行が一つになった1945年ではなく、その十年後であった。