ふくおかフィナンシャルグループ一県一行主義による県内4行の新立合併と福岡銀行の設立

国が命じた統合から、なぜ全国の地方銀行で預金高第1位の銀行が生まれたか

時期 1945年3月
意思決定者(推定) 大蔵省の1県1行主義方針と、十七・筑邦・嘉穂・福岡貯蓄の4行
論点 戦時の金融統制と県内銀行の集約
概要
1945年3月、福岡県下に本店を置いていた十七銀行・筑邦銀行・嘉穂銀行・福岡貯蓄銀行の4行が新立合併し、株式会社福岡銀行が発足した。政府の1県1行主義に沿った統合で、資本金2500万円・店舗131カ店を擁し、九州最大であるだけでなく全国の地方銀行で預金高第1位の規模を持つ銀行が生まれた。
背景
大蔵省は1930年代後半から一県一行主義を掲げて銀行の統合を進め、普通銀行は1926年の1,420行から1945年には61行まで減った。福岡県でも1941年に筑邦銀行と福岡貯蓄銀行が相次いで合併新立し、県内の集約は4行合併の前から進んでいた。
内容
4行がそろって解散し、新法人として福岡銀行を設立する新立合併の方式をとった。福岡市の商業金融を担った十七銀行、筑豊の炭鉱資本を背景とする嘉穂銀行、県南の農村金融を束ねた筑邦銀行、県下唯一の貯蓄銀行が一つになった。
含意
戦後の福岡県は鉄鋼・石炭という復興期の中核産業を抱え、同行の預金高は1940年代後半を通じて全国の地方銀行で首位を保った。一方で石炭の衰退とともに業容は足踏みし、制度が与えた地位をどう使うかが1950年代に問われた。
筆者の見解

制度が配した地盤と、その十年後

戦時の統制に従っただけの合併という説明では、この統合の中身が落ちる。一県一行主義が命じたのは県内の銀行を一つにすることであって、どんな地盤が持ち寄られるかまでは決めていない。福岡市の商業金融を担う十七銀行に、筑豊の炭鉱資本を背景とする嘉穂銀行、県南18行を束ねた筑邦銀行、県下唯一の貯蓄銀行が加わり、福岡県の産業構成がほぼそのまま1行に集まった。発足時に全国の地方銀行で預金高第1位を占めたのは、この合算による。

もっとも、制度が配した地盤は、産業の変化までは引き受けてくれない。石炭がエネルギー革命のなかで衰えると業容は足踏みし、1953年7月には銀行史上初といわれるストライキが起き、同行は地方銀行首位の座から下りた。合併で得た規模は、県内産業の浮沈をそのまま抱え込むことでもあったといえる。与えられた地位をどう使うかが問われたのは、4行が一つになった1945年ではなく、その十年後であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

一県一行主義と銀行合同の進行

大蔵省は1930年代後半から一県一行主義を掲げ、銀行の統合を強く進めた。度重なる恐慌で小規模な銀行の破綻が相次いだことに加え、戦時統制経済の進行が集約を加速させている。普通銀行の数は1926年の1,420行から1941年には186行へ減り、1945年には61行、うち地方銀行は53行にまで絞られた。県ごとに1行という枠組みは、終戦の年にほぼ姿を現していた[1]

統合の背後には、戦費を賄う側の事情も働いていた。日本銀行は国債の消化基盤として地方銀行に着目し、都市銀行とは別の業態として残したうえで銀行合同を進め、収益を確保する方策も併せて講じたとされる。県内の預金を1行に集めることは、地域金融の効率化であると同時に、戦時財政を支える資金の受け皿を整える作業でもあった。福岡県の4行合併も、この全国的な統合の一つに数えられる[2]

合併4行が持ち寄った地盤

十七銀行は1877年9月に創立された第十七国立銀行を前身とし、本店を福岡に置いていた。合併4行のなかで最も大きく、福岡銀行は現在もこの1877年を創業年としている。嘉穂銀行は1896年3月の設立で、石炭王と呼ばれた麻生太吉氏ら炭鉱事業家が中心となり、飯塚市など筑豊の炭田地帯に根強い地盤を築いていた。県内の商業金融と炭鉱金融が、それぞれ別の銀行に分かれて育っていた[3][4]

残る2行は、いずれも合併の4年前に生まれたばかりだった。筑邦銀行は1941年9月、福岡県南部に本店を置く18の農村銀行が一挙に合併新立した銀行で、源流の一つである柳河銀行は1878年11月設立の第九十六国立銀行に遡る。福岡貯蓄銀行も同年2月、大正期に設立された嘉穂貯蓄・筑豊貯蓄・三池貯蓄の3行が大同合併して誕生した、県下で唯一の貯蓄銀行であった。県内の集約は4行合併より先に始まっていた[5][6]

決断

4行を解散し、新法人として銀行を立てる

1945年3月、十七・筑邦・嘉穂・福岡貯蓄の4行は新立合併により株式会社福岡銀行を設立した。いずれかの銀行が他を吸収する形ではなく、4行がそろって解散し、新たな法人を立てる方式をとっている。本店は福岡市に置かれ、発足時の資本金は2500万円、店舗は131カ店に達した。終戦の5カ月前、本土に空襲が及んでいた時期の統合であり、平時に対等な条件を練って結ばれた合併とは背景が異なっていた[7][8]

できあがった銀行の規模は、県域を営業基盤とする地方銀行としては異例だった。九州で最大というだけでなく、全国の地方銀行のなかで預金高第1位を占めている。福岡市の商業金融を担った十七銀行、筑豊の炭鉱資本を背景とする嘉穂銀行、県南の農村金融を束ねた筑邦銀行、そして県下唯一の貯蓄銀行を一つにまとめた結果であった。統合を命じたのは制度でも、束ねられた中身は福岡県の産業構成そのものだった[9]

結果

戦後復興と預金高首位の座

戦後の福岡県は鉄鋼・石炭という復興期の中核産業を抱え、福岡銀行の業容もこれに沿って伸びた。1940年代後半を通じて、同行の預金高は全国の地方銀行でつねに首位を走っている。県外への進出も速く、1948年11月に東京、1951年に下関と大阪、1952年に佐世保、1953年に熊本・人吉・宇部、1954年に長崎と神田の各支店を開いた。1949年6月には福岡証券取引所へ株式を上場している[10][11]

もっとも、制度が与えた規模がそのまま保たれたわけではない。金融機関再建整備法に基づく9割の切り捨てを経て増資を重ね、1952年には資本金が5億5000万円まで戻ったが、1953年ごろから業容は足踏みした。労使紛争が激しくなり、同年7月には銀行史上初めてといわれる従業員のストライキに至っている。県経済を担った石炭産業もエネルギー革命のなかで衰え、同行は地方銀行首位の座から次第に下りた[12][13]

立て直しは外部の人材に託された。1955年5月、労使問題の解決と経営の安定を図るため、日本銀行考査役の蟻川五二郎氏が頭取に迎えられ、以後この銀行のトップは日銀出身者が続く。県内の預金と貸出を一手に引き受ける地盤をどう使うかという問いは、その後も繰り返し現れ、2007年には熊本ファミリー銀行との共同株式移転でふくおかフィナンシャルグループが設立された[14][15]

出典・参考

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