1945年に県内4行の合併で発足し、131カ店を擁して全国地方銀行の預金高首位を走った銀行が、1953年7月のストライキを境に首位の座から下がっていった。就任までの2年近く、労使のいずれかに軍配を上げる方式での決着は選ばれず、争いの外にいる日本銀行の考査役・蟻川五二郎氏へ収拾が託されている。優劣を決める代わりに、決める人を替えた選択であった。
もっとも、外から迎える方式が4代・45年にわたって続いたことは、内から頭取を出せる状態が長らく戻らなかったことでもある。1957年の労使協調と三次にわたる計画のもとで預金は680億円から3173億円へ伸びたが、その果実を受け取る側に立ち続けたのは日銀から来た頭取たちであった。専務からの昇格で寺本清氏が頭取に就任するのは2000年になる。危機に外の規律を借りる選択は、借りたものをいつ返すかまでは決めにくいのかもしれない。