ふくおかフィナンシャルグループ日本銀行考査役・蟻川五二郎氏の頭取招聘と、4代続く日銀出身頭取の体制
銀行史上初とされるストライキのあと、なぜ頭取を中央銀行に求めたか
- 概要
- 1953年7月の従業員ストライキと石炭産業の斜陽化で業容が足踏みした福岡銀行が、労使問題の解決と経営の安定を図るため、1955年5月に日本銀行の蟻川五二郎考査役を頭取に迎えた人事。以後4代にわたり、同行の頭取は日銀出身者が占めることになる。
- 背景
- 福岡銀行は1945年3月に県内4行の合併で発足し、131カ店の店舗網とともに全国地方銀行で預金高首位を走った。しかし1953年に労使紛争が激化し、地盤である石炭産業もエネルギー革命のなかで衰退へ向かい、首位の座から退きつつあった。
- 内容
- 労使問題の解決を軸に経営の安定を図るため、日本銀行で金融機関の経営内容を調べる考査役の職にあった蟻川五二郎氏を頭取に迎えた。地元財界にも行内の系列にも属さない人物が、対立の外から収拾にあたる形をとった。
- 含意
- 1957年に労使協調が成立し、業績振興3カ年計画から第3次計画まで計画で区切る経営が定着した。頭取の座は1995年時点の佃亮二氏まで4代続けて日銀出身者が占め、生え抜きの頭取が戻るのは2000年であった。
外から迎えるということ
この人事を中央からの天下りという言葉で片づけると、肝心なところが抜け落ちる。1953年7月のストライキから蟻川五二郎氏の就任までには2年近い間があり、その間に同行は地方銀行首位の座から下がっていった。それでも労使のいずれかに軍配を上げる形で決着させず、争いの外にいる日本銀行の考査役へ収拾を託したところに、この判断の芯があるとみられる。勝ち負けを決めない代わりに、決める人を替えた選択であった。
もっとも、外から迎える形が4代・45年にわたって続いたことは、内から頭取を出せる状態が長らく戻らなかったことでもある。1957年の労使協調と三次にわたる計画のもとで預金は680億円から3173億円へ伸びたが、その果実を受け取る側に立ち続けたのは日銀から来た頭取たちであった。専務からの昇格で寺本清氏が頭取に就くのは2000年になる。危機に外の規律を借りる選択は、借りたものをいつ返すかまでは決めにくいのかもしれない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
戦時統合が残した規模
福岡銀行は1945年3月、当時の国策に沿って福岡県内に本店を置く十七・筑邦・嘉穂・福岡貯蓄の4行が解散新立の形式で合併し、資本金2500万円をもって発足した。店舗は支店・出張所あわせて131カ店、預金総額は8億4000万円に達し、九州の地方銀行では最大であった。戦後は県内の石炭・鉄鋼とその関連産業が伸びるにつれて業容も広がり、1948年3月の9割減資を経たのちも増資を重ねて、1952年10月には資本金5億5000万円となった[1][2]。
順調に映った歩みは1953年に曲がり角を迎えた。同年7月、銀行史上初とされる従業員のストライキにまで労使紛争が高じ、経営は動揺した。4行分の人員と131カ店を一度に引き受けた成り立ちが、待遇や要員の配置をめぐる問題を抱えやすいものであったこともうかがえる。加えて福岡県経済の担い手であった石炭産業がエネルギー革命のなかで急速に衰退へ向かい、同行の業容も足踏みし、地方銀行首位の座から次第に下がっていった[3]。
決断
中央銀行から頭取を迎える
労使問題の解決を中心に経営の安定を図るため、福岡銀行は1955年5月、日本銀行の蟻川五二郎考査役を頭取に迎えた。考査役は取引先の金融機関に立ち入って資産や経営の内容を調べる職であり、蟻川氏は地方銀行を外から検分する側から、当事者として立て直す側へ移った。地元の財界にも行内の系列にも属さない人物を頂点に据えることで、争いの外にいる者へ収拾を託す形をとった[4]。
就任の年に刊行された『会社銀行八十年史』は、福岡銀行の会長に永江真郷氏、頭取に蟻川五二郎氏を掲げている。同書は1955年3月末の預金総額405億円・貸出総額322億円という残高を記したうえで、石炭鉱業の不振にかかわらず業績は順調に推移していると書いた。外から見えていたのは破綻寸前の銀行ではなく、なお全国有数の規模を保った地方銀行であり、頭取の交代もその範囲の出来事として扱われていた[5]。
結果
労使協調と計画経営の定着
労使協調が成立したのは1957年であった。同じころから業績振興3カ年計画が進められて目標を達成し、続いて第2次の長期計画(4カ年)、1967年からは第3次計画へと引き継がれた。計画で期間を区切って業容を積み上げる経営が根づき、預金残高は1959年3月末の680億円から1964年3月末に1302億円、1968年3月末には3173億円へと伸びた。10年足らずで約4.7倍という増え方であった[6][7]。
蟻川氏の頭取在任は長く続いた。1968年刊の『企業の歴史 : 明治百年』は同行の頭取を蟻川五二郎氏と記し、資本金は25億円、従業員は3067名、県内121カ店を含む126カ店の営業網と伝えている。1967年4月からの業務振興第三次3カ年計画では、1970年3月末の資金量5000億円台を目標に掲げていた。招聘から13年を経てなお、外から迎えた頭取が計画経営の指揮をとっていた[8]。
4代続いた日銀出身頭取
日本銀行から頭取を迎える形は、この一度では終わらなかった。蟻川氏以後も頭取の座は4代続けて日銀出身者が占め、1995年時点の佃亮二頭取は元日銀理事・営業局長という経歴の持ち主であった。佃氏の出自は後年の誌面でも変わらず語られており、2004年の週刊東洋経済は同氏を「福岡銀行会長で日銀OB」と紹介している。中央銀行との人的なつながりが、同行の顔として外部にも定着していた[9][10]。
系譜が変わったのは2000年4月であった。佃亮二頭取が代表権を持つ会長へ退き、寺本清専務が頭取に就いて新しい経営陣が発足する。同じ時期の同行は黒字の海外3支店を閉じて九州へ経営資源を集め、広島銀行とのシステム統合にも踏み切っていた。1955年に外から迎えた頭取のもとで始まった立て直しは、45年を経て内から出た頭取に引き継がれ、その先に2007年の持株会社設立が続く[11][12]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 週刊東洋経済 2000年4月8日号「ザ・トーク 九州地銀再編の核に名乗り 福岡銀の「アグレッシブ経営」」
- 週刊東洋経済 2004年6月19日号「なおも続く金融庁との確執 UFJ融資先に火の粉」