オークマ大隈孝一社長の引責退陣と、大隈武雄社長による「ガラス張り経営」での再建

累積赤字36億円を前に、30年続いた技術者社長の体制をどう畳んだか

時期 1978年2月
意思決定者(推定) 大隈武雄 社長
論点 経営責任と労使の信頼回復
概要
1978年2月、大隈鐵工所(現オークマ)で1948年以来30年間社長を務めた大隈孝一が経営責任を取って退陣し、妹婿で大隈家の養子であった大隈武雄が社長に就いた。武雄社長は労働組合の三役を加えた経営会議を最高意思決定機関に据える「ガラス張り経営」を掲げ、赤字経営の立て直しに入った。
背景
1973年秋のオイルショック以降、受注高は1973年3月期の175億1,400万円から1975年3月期に115億6,400万円へ落ち込み、1974年9月期に5億9,600万円の経常損失を計上。1977年9月期の累積赤字は36億2,000万円に達していた。1976年1月の380人の希望退職に続く第2次480人の提案に労組が反発し、2カ月の交渉が続いていた。
内容
労組が賃金カットなど4項目で歩み寄ったのと同時に孝一社長が退陣した。武雄社長は就任初日にベンツを含む社用車6台を処分し、社長室を3分の1の広さに移した。副社長・専務と次長の職位を廃して社長と13人の部長を直結させ、労組三役を含む経営会議を新設した。開発は技術者主導から販売・製造を交えた開発会議方式へ改めた。
含意
主力銀行株400万株のうち350万株を売却し、含み資産を吐き出したうえでの再建であった。武雄社長は銀行出身社長を戴く同業と対比してオーナー経営には逃げ場がないと語っている。1978年3月期に3億円の当期純損失であった業績は、翌1979年3月期に15億円の当期純利益へ転じた。
筆者の見解

社長の首と引き換えの賃金カット

この交代で目を引くのは、退陣の理由ではなく退陣の日付である。大隈孝一社長が職を退いたのは、労組が賃金カットと昇給停止を受け入れたのと同じ日であった。従業員が賃金を削るという取り引きの、相手側に経営者の首が置かれている。大隈武雄社長が就任初日に社用車6台を処分し、3年放置されていた本社前の駐車場の区画線を2時間で引かせたのも、その取り引きを目に見える形へ落とす作業であったとみられる。

もっとも、この取り引きが成立したのは経営側にも逃げ場がなかったからであった。含み資産を持ちながら主力銀行から再建計画の提出を求められ、保有していた銀行株400万株も大半を売り払っている。武雄社長は後年、銀行から経営者が来ると金もついてくるため労使双方に危機感が浸透しない、と述べた。頼れるものを失った労使が同時に素っ裸になれたのは、大隈家という同族経営が前提にあったからでもある。逃げ場を断って結束を作る方法は、断つ相手が身内であるうちしか使えない。差し出すものを持たないまま定年引き下げを求めた1994年が労働委員会と世論の批判を浴びたことは、そのことを裏側から示しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

雪だるま式に膨らんだ赤字

1973年秋のオイルショックで工作機械の需要は急速に冷え込んだ。大隈鐵工所の受注高は1973年3月期の175億1,400万円から、1975年3月期には115億6,400万円へ落ちる。1974年9月期に5億9,600万円の経常損失を計上してからは赤字が積み上がり、1977年9月期の累積赤字は36億2,000万円に達した。工作機械の名門として旋盤・研削盤で業界の上位を占めてきた会社が、資金繰りに追われる状態へ入っていた[1][2]

減量は資産の切り売りを伴った。1976年1月に全従業員の約2割にあたる380人の希望退職を募り、大隈病院を売却する。同年秋と翌1977年秋には、名古屋市北区の本社工場の敷地を合わせて約4万平方メートル手放した。それでも1977年12月には480人におよぶ第2次の希望退職募集に踏み切らざるをえず、労組はこの提案に強く反発して交渉が2カ月に及んだ[3]

経営陣への不信という壁

労組の反発は、人員削減そのものだけに向けられていたわけではなかった。相次ぐ希望退職と労働条件の切り下げに加え、1976年度を初年度とする再建3カ年計画が初年度で赤字半減、2年目で収支トントン、3年目で黒字転換という道筋を描きながら失敗したことが、経営陣への不信を深めていた。厳しい環境のなかで前社長がトイレ付きの広い社長室を使い、ベンツで通う姿にも批判が向いていた。孝一社長の長男と武雄社長の長男が業績のどん底であった1977年6月にそろって取締役へ就いたことも、一族優遇という不満を生んでいた[4][5]

決断

妥結と同時の交代

1978年2月、労使は4項目で歩み寄った。所得に応じた1〜12%の賃金カット、春の昇給停止、賞与を前年実績の半分とすること、土曜休日の無償出勤である。労組は雇用を守るために労働条件の切り下げを受け入れた。労組が新提案を受け入れたのと同じ日、1948年以来30年間社長の座にあった大隈孝一が経営責任を取って退陣する。後を継いだのは孝一の妹婿にあたる大隈武雄であった[6]

前任者と後任者は対照的な人物であった。孝一が東京大学で機械工業論を講義した技術畑の理論家で静かな学者肌であったのに対し、武雄は営業畑一筋を歩み、労組委員長から「バイタリティーのかたまり」と評される行動派であった。技術で会社を率いた30年に区切りをつけ、売る側から見てきた人物に託す交代であった。武雄は大隈家の養子で、破産に瀕した米沢藩へ養子に入った上杉鷹山になぞらえられている[7]

ガラス張り経営という設計

武雄社長がまず考えたのは、労組の信頼をどう取り戻すかであった。打ち出したのが「ガラス張り経営」で、労組三役を含めた経営会議を新設して最高の意思決定機関に据えた。その下に開発会議、生産会議、販売会議、利益管理委員会を置き、いずれにも労組の代表を参加させる。第1回の経営会議を開こうとしたところ、労組の側から始業前の朝7時に開こうと提案が出た。従業員の全員集会にも社長自ら出席し、会社の現状を直接報告している[8][9]

象徴的な措置は就任初日から始まった。ベンツを含む社用車6台をすべて処分し、社長室をそれまでの3分の1の広さへ移す。3年間放置されていた本社前の駐車禁止も、2時間以内に区画線を引くよう命じて解いた。役員では副社長と専務を、管理職では次長を廃し、社長と13人の部長を直結させる。机上の未決・既決の箱をなくし、書類だけ回す形式的な決裁もやめた。孝一の長男と武雄の長男は取締役から参事へ降格させている[10][11]

結果

1年足らずでの黒字復帰

立て直しの柱は、新技術の開発と品質向上による売れる製品づくりに置かれた。武雄社長は開発の仕組みを技術者主導から改め、技術陣に東京・大阪・名古屋の3支店と輸出の販売担当者、製造部門の責任者を加えた開発会議を新設する。3支店と輸出部門の販売会議は社長自ら主宰した。就任から2年間でLCシリーズなど11機種を開発し、とくに付加価値の高いNC旋盤の改良に力を入れている。生産面では見込み生産にあたるモデル生産方式を導入して仕掛かり期間を圧縮した[12][13]

数字は速く戻った。1978年3月期に3億円の当期純損失であった業績は、1979年3月期に売上高233億円・当期純利益15億円へ転じ、1980年3月期には売上高378億円・当期純利益36億円まで伸びる。1978年から製造業がNC工作機の導入を本格化させたことが追い風となり、赤字の種であった自社NCを積んだ機械が需要をとらえた。1982年3月期には売上高571億円に達し、本社業務も名古屋市北区から大口工場へ移して生産と本社機能の集約を終えている[14][15]

逃げ場のないオーナー経営

再建の前提には、経営側が退路を断ったことがあった。同社は古い会社で含み資産を持っていたが、主力銀行から最後通牒に近い形で再建計画の提出を求められ、額面50円で払い込んだ主力銀行株400万株のうち、これ以上売るなと言われた50万株を残して売り払った。武雄社長は後年、銀行出身の社長が続いた池貝鉄工や豊和産業と対比して、銀行から経営者が来ると金もついてくるため労使双方に危機感が浸透しないと述べている。頼れるものを失った労使が同時に素っ裸になったことが、気持ちをまとめたという見立てであった[16][17]

再建の評判は社外にも及び、武雄社長は経営難にあった豊和産業を引き受けて立て直した。同社は後に大隈豊和機械となり、2005年の持株会社移行の際に完全子会社となっている。一方で人員に手を入れる経営は同社の課題として残り、1994年には定年引き下げをめぐって労働委員会と世論の批判を浴びた。リーマン・ショック直後の2010年3月期に売上高603億円・営業損失150億円を出したとき、花木義麿社長が人員削減を抑えて生産構造の刷新へ投資を集中させた判断には、1976年と1994年の経験が影を落としていた[18][19]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1980年4月21日号「大隈鉄工所 再建へ社長の砕身が『全員一丸』を喚起」
  • 日経ビジネス 1985年4月29日号 編集長インタビュー「素っ裸になれば“奇跡”も起こせる」大隈武雄氏(大隈鐵工所社長)
  • 日経ビジネス 1994年4月号「挫折の軌跡 前田豊氏[オークマ相談役]誤りだった定年引き下げ 報道には的外れな批判も」
  • 『日本産業史』(日経文庫, 1975年)第3巻 機械・輸送機「産業機械-世界一の生産額」
  • オークマ 有価証券報告書【沿革】
  • 大隈鐵工所 会社年鑑(単体業績)

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