新入社員の過労自殺を機とした働き方改革と社長交代
長時間労働を是としてきた広告最大手が、成長一辺倒の企業風土の転換に踏み出すまで
更新:
- 概要
- 2015年12月の新入社員・高橋まつりさんの過労自殺を機に、電通は2016年末に石井直社長の引責辞任を決め、2017年に山本敏博社長の下で「労働環境改革基本計画」を打ち出した。長時間労働を是としてきた広告最大手が、成長一辺倒の企業風土の転換と働き方改革に着手した経営判断。
- 背景
- 石井社長の下でイージス買収や海外・デジタルへの積極投資が進む一方、労働環境の改善は後回しにされ、度重なる是正勧告があっても対策は徹底されなかった。成長分野のデジタル広告では業務過多が常態化し、過労自殺とネット広告の不正取引がほぼ同時に噴出した。
- 内容
- 2016年12月28日の書類送検を受け、翌29日に石井直社長が辞任を表明した。36協定の上限引き下げや22時の全館消灯などの初期対応に続き、2017年7月に山本社長が2年計画を公表し、1人当たり労働時間を2014年比でおよそ2割削減する目標を掲げた。
- 含意
- トップ交代と数値目標を伴う改革で風土の転換に取り組んだが、過重労働の一因である広告主との取引慣行には踏み込めず、課題は残った。働き方改革は、その後のグローバル再編や業績の変動と並ぶ、電通の企業統治上の転機となった。
筆者見解
電通の働き方改革は、一人の新入社員の死をきっかけに、成長を最優先してきた企業の価値観そのものへ迫った点に重みがある。石井直社長が引責し、山本敏博社長が数値目標を伴う計画を掲げた過程は、長時間労働を品質の担保と見なしてきた広告業の常識に対する自己否定の色を帯びていた。トップの交代と全館消灯という象徴的な措置が、風土の転換の契機になったとみることができる。
ただし、代理店という立場が抱える構造の壁は、社内改革だけでは越えにくい。広告主の要望が現場の負荷に直結する取引の慣行に踏み込めないまま数値目標だけが先行すれば、しわ寄せが見えにくい形で残る懸念はなお消えない。過労という代償の上に築かれた成長の見直しが、業界全体を巻き込む働き方の再設計にまで届くのか、その帰趨はのちのグローバル再編や業績の変動とあわせて見極める必要があるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
成長の絶頂で起きた過労自殺
2015年12月25日、電通の女性新入社員、高橋まつりさん(当時24)が過労を苦に自殺した。三田労働基準監督署は2016年9月に労災と認定し、東京労働局は10月に本社と子会社へ立ち入り調査に入った。遺族側の集計では、ビルの入退館記録から割り出した残業は2015年10月9日から11月7日で105時間に及び、自己申告の労働時間との乖離が大きかった。塩崎恭久厚生労働相が個別企業の問題に言及するなど、対応は異例の広がりを見せた[1]。
石井直氏が社長に就いた2011年4月の電通は、伸び悩むテレビ広告と国内市場の鈍化に直面していた。石井社長は2012年に仏ピュブリシスとの提携を解消し、2013年3月には約4000億円を投じて英イージス・グループを買収、デジタル広告にも年400億〜500億円の枠を設けて買収を重ねた。成長戦略は明確であった一方、労働環境の改善は後回しにされ、2010年の中部支社、2014年の関西支社、2015年の東京本社と是正勧告が続いていた[2]。
デジタル広告の負荷と不正
事件の背景には、毎年2ケタ増で伸びるデジタル広告の負荷があった。高橋さんが属したデジタル・アカウント部では連日深夜に及ぶ残業が常態化していた。同じ2016年9月、電通はネット広告で虚偽報告や過剰請求などの不適切業務を公表した。トヨタ自動車の指摘で発覚し、被害は約2億3000万円、対象は111社に上った。2016年12月期の連結売上高は8383億円、営業利益は1377億円と最高益圏にあり、成長の絶頂で労務と品質の問題が噴出していた[3][4][5]。
決断
トップの引責辞任
2016年12月28日、東京労働局は電通と当時の上司を労働基準法違反の容疑で書類送検した。電通は翌29日に緊急会見を開き、石井直社長が2017年1月の取締役会での辞任を表明した。石井社長は全責任を取りたいと述べ、過重労働の抜本的な解決に至らなかった責任を認めた。新入社員の過労自殺という衝撃は、就任以来グループを成長軌道に乗せてきたトップの引責にまで及んだ[6]。
初期対策と後任体制
辞任表明に先立ち、電通は対策を矢継ぎ早に打ち出していた。石井社長は2016年10月17日、36協定の上限を月70時間から65時間へ引き下げ、目標予算を見直す方針を社員にメールで伝え、24日からは深夜残業を防ぐため本社などで22時から午前5時まで全館消灯を始めた。11月には労働環境改革本部を設けた。2017年1月、代表取締役社長は石井直氏から山本敏博氏へ引き継がれ、改革は後任体制の下で本格化した[7][8]。
結果
労働環境改革基本計画
2017年7月27日、山本敏博社長は今後2年で実行する「労働環境改革基本計画」を公表した。半年で全社員アンケートを3回、経営陣と社員の意見交換会を100回以上重ね、約2万5000件の声を集めて練った案であった。三つの柱は労働環境の改善、労働時間の削減、社員の能力向上支援で、1人当たり労働時間を2014年の2252時間から2019年に1800時間へ、およそ2割減らす目標を掲げた。週休3日制の検討も盛り込まれた[9]。
残された課題
計画の実効性には懸念も残った。過重労働の一因である広告主との取引慣行について具体策が示されず、山本社長は利害関係の調整が必要と述べるにとどまった。急な計画変更や競合の名を挙げた値引き要求など、代理店が受注構造ゆえに背負う負荷は、単独の努力では解きにくかった。一方で業績は堅調に推移し、2017年12月期の親会社株主に帰属する当期純利益は1054億円と前期を上回った[10][11]。
- 週刊東洋経済 2016年11月5日号「電通社員の過労自殺 突き付けた重い課題」
- 週刊東洋経済 2016年11月19日号「トヨタの指摘で発覚 ネット広告で不正 電通が落ちた闇」
- 週刊東洋経済 2017年1月14日号「成長路線に落とし穴 電通・石井社長が辞任へ」
- 週刊東洋経済 2017年8月12日号「労働時間は減るのか 抜本策なき電通改革」
- 電通 有価証券報告書(2016年12月期・連結)
- 電通 有価証券報告書(2017年12月期・連結)