電通の出発点は、新聞社向け通信配信と広告取次を1社で兼業した『日本広告株式会社』と、その同じ社屋に併設された『電報通信社』である[1]。創業者の光永星郎氏は1901年7月に[2]資本金10万円で広告会社を東京で起こし[3]、4ヶ月後の11月にもう通信社を併設した[4]。新聞に通信記事を売り、その広告枠を引き受けるという二重の関係を握り、広告代理店としての交渉力を確保するためであった。広告枠の仕入れ先である新聞社に対し、通信配信というもう1つの商品を抱き合わせて価格交渉の主導権を握る構えである。新聞を唯一のマス媒体とする明治後期の広告市場で、主要メディアの上流を最初から押さえる設計だった。
1906年に株式会社日本電報通信社を設立[5]、翌1907年に日本広告と合併し、資本金を26万円[6]に増やして広告と通信を1社に統合した。広告料をニュース配信料で割り引く実質値引きや、スクープを広告主に流す情報サービスなど、通信を握る代理店ならではの営業を展開する。明治後期から大正、昭和初期にかけて新聞広告代理店の最大手の地位を固めた。広告主である企業側にも通信ソース付きの代理店として優位を示し、純粋に広告枠だけを売り歩く他社との差を広げた。通信事業が広告事業の交渉材料となる体制は、以後30年間にわたり同社の収益基盤を支え、昭和初期には国内新聞広告の取扱額で首位を保った。
1936年6月、日本政府の通信統制で社団法人同盟通信社が設立された[7]。電通の通信部はそこに合併され、同社は逆に同盟通信社の前身である聯合通信社の広告部を吸収する[8]。資本金を200万円に増資し、創業以来の二本立てだった通信業務を手放して広告取扱いを主業務とする会社へ転換した[9]。広告と通信を握って成立した30年来のビジネスモデルが、国策によって半分奪われた格好にあたる。代償として国内の広告部門を同盟通信社から巻き取り、広告事業そのものの規模は拡大した。単純な縮小再編ではない。自ら選んだというより戦時下の取引条件として受け入れた転換だが、結果として広告専業会社の原型が1930年代後半に固まった。
戦後の1955年7月、商号を『株式会社電通』に変更[10]する。日本電報通信社という通信社時代の名残を捨て、広告会社としての電通ブランドを表に立てた。テレビ放送が翌年から本格化する直前のタイミングである。戦時統制で通信機能を失ったことが、結果として広告メディアの拡大期をフルに広告専業として迎える条件を整えた。通信事業を抱えたままテレビ時代を迎えていれば、新聞系通信社との競合や編集・広告分離の議論に巻き込まれた可能性もある。広告代理店として民間放送の番組枠を独占的に扱う立場を早期に築けたのは、20年前に通信を切り離さざるを得なかった国策統制の再編が前提となった結果である。
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|---|---|---|---|---|
| 1901〜1954年通信と広告の二足草鞋から、戦時統制で押し出された広告専業 | 光永星郎が日本広告を設立 | ★★ | ||
| 電報通信社を併設し通信社業務を開始 | ★ | |||
| 日本電報通信社を設立 | ★ | |||
| 日本広告を合併し通信・広告を一体化 | ★★ | |||
| 通信部を同盟通信社へ移管、聯合通信社広告部を吸収 | ★★ | |||
| 1955〜2012年広告専業としての国内シェア首位確立と、海外M&Aへの助走 | 商号を電通に変更 | ★ | ||
| 本店を中央区築地に移転 | ★ | |||
| 電通国際情報サービス(ISID)を設立 | ★ | |||
| 成田豊 | 地域電通5社(東日本・西日本・九州・北海道・東北)を設立 | ★ | ||
| 成田豊 | 電通アクティス等4社を統合し電通テックを発足 | ★ | ||
| 成田豊 | 「岐路に立つ広告の王者」——3つの大波を前にした組織改革と上場・海外への布石 1998年、日本の広告市場でシェア2割超を握る電通が、メディアの多様化・広告主の要求の変化・外資系広告会社の日本進出という3つの構造変化に直面した。同社は同年11月をめどに、営業局を束ね直す組織改革に踏み出し、2001年の株式上場と海外展開の拡大を布石として掲げた。広告枠の確保という強みが相対的に弱まるなかで、事業モデルを組み替えようとした転換の試みであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 成田豊 | 米SIPS最大手マーチファーストとの合弁による、ネット時代のコンサルティング事業への進出 2000年10月、電通が米国のSIPS(ストラテジック・インターネット・プロフェッショナル・サービス)最大手マーチファースト(シカゴ市)と提携し、合弁会社『電通マーチファースト』を同年11月に設立、2001年1月から本格的なコンサルティング事業に乗り出すと発表した経営判断。広告枠の取次を軸としてきた電通が、インターネット時代の総合コンサルティングへ越境する試みであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 成田豊 | コンサルティング事業に参入 | ★ | ||
| 成田豊 | 電通国際情報サービス(ISID)が東京証券取引所一部に上場 | ★ | ||
| 成田豊 | 創業100年を経た東証一部上場——資金需要なき「広告の巨人」の株式公開 2001年11月30日、電通は創業から約100年を経て東京証券取引所市場第一部に直接上場した。資金調達の必要は乏しく、公募・売り出しは全株式の1割弱にとどまったが、大株主の売却ニーズと経営の透明化、世界戦略への布石が重なった資本判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 俣木盾夫 | 本店を港区東新橋(汐留)に移転 | ★ | ||
| 2013〜2024年Aegis買収によるグローバル化と、その代償 | 石井直 | 英イージス・グループの約4,000億円買収——日本の広告会社で過去最大の海外M&A 2012年7月12日、電通が英広告大手イージス・グループを総額約31億6,400万ポンド(約3,955億円)で買収すると発表した経営判断。日本の広告会社によるクロスボーダーM&Aとして過去最大の規模で、2013年3月26日に手続きを完了し、海外本社『電通イージス・ネットワーク』がロンドンで発足した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 石井直 | 電通デジタルを設立 | ★ | ||
| 石井直 | Merkle Group Inc.を買収 | ★★ | ||
| 石井直 | 新入社員の過労自殺を機とした働き方改革と社長交代 2015年12月の新入社員・高橋まつりさんの過労自殺を機に、電通は2016年末に石井直社長の引責辞任を決め、2017年に山本敏博社長の下で『労働環境改革基本計画』を打ち出した。長時間労働を是としてきた広告最大手が、成長一辺倒の企業風土の転換と働き方改革に着手した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山本敏博 | CARTA HOLDINGSを株式交換で子会社化 | ★ | ||
| 山本敏博 | 海外事業を中心にのれん減損、初の営業赤字 | ★★ | ||
| 山本敏博 | 純粋持株会社体制へ移行、電通グループに商号変更 | ★★ | ||
| 山本敏博 | コロナ禍で過去最大の最終赤字、海外のれん大型減損 | ★ | ||
| 五十嵐博 | 五十嵐博氏が社長に就任 | ★ | ||
| 五十嵐博 | 海外事業(電通インターナショナル)の巨額減損とM&A路線の転換 2013年に英広告大手イージスを約4000億円で買収して海外へ広げた電通グループが、海外事業(電通インターナショナル)で2024年12月期・2025年12月期と2期連続の巨額のれん減損を計上し、人員削減と中期経営計画の見直しで再建に取り組んだ経営判断。国内広告が堅調な一方、海外のデジタル事業の不振とのれんの重さが対照をなした。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(電通グループ)