電通グループ の歴史

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創業 1901年
創業者 光永星郎
創業地 東京都
創業
1901年7月、光永星郎氏が東京で資本金10万円の日本広告株式会社を設立し、同年11月、同じ社屋に電報通信社を併設した。新聞社へ通信記事を納め、その見返りに広告枠を引き受ける二重の関係を結び、枠を取り次ぐだけの同業と立場を分けている。1906年12月に株式会社日本電報通信社を設立し、1907年8月には日本広告を合併して資本金を26万円へ増やした。1936年6月、国の通信統制で通信部は同盟通信社へ移され、代わりに聯合通信社の広告部を吸収して、広告の取扱いが主な業務となる。通信と広告の二つを持つ形は自らの選択ではなく統制によって解かれ、1955年7月に商号を株式会社電通へ改めた。
決断
国内で百年かけて築いた位置を、海外では買収で一度に手に入れた。1998年11月、メディアの多様化と広告主による取引の透明化要求、外資系広告会社の進出を前に、営業局を再編し、上場と海外展開の準備に入った。2001年11月には資金需要がないまま東証一部へ上場し、買収の対価に使える株式を得ている。2012年7月、英イージス・グループを約3,955億円で買収して完全子会社とし、海外売上比率は14%から42%へ上がった。2016年9月に米Merkle、2023年3月に英Tag Worldwideを加え、拠点は100カ国を超える。同じ2016年の12月には新入社員の過労自殺と書類送検を受けて石井直社長が引責辞任し、労働環境改革基本計画に着手している。買った海外網の対価は大半がのれんとして残り、その処理が次の10年を占めることになった。
現況
4つの地域すべてが利益を出しながら、全社は3期続けて最終赤字である。2025年12月期の売上収益1兆4,352億円は、日本6,083億円・米州3,697億円・EMEA3,384億円・APAC1,122億円で、地域別のセグメント利益はそれぞれ1,211億円・723億円・338億円・27億円だった。それでも全社は2,892億円の営業損失、3,276億円の当期純損失と過去最大を更新している。差を生んだのはのれんの減損で、2024年12月期に2,101億円、2025年12月期に約3,101億円を計上してM&A偏重の路線を転換した。2025年8月には海外で約3,400人の削減方針を示し、2026年2月に社長交代を発表した。稼いでいるのは広告の営業で、赤字を作っているのは13年前に買った海外網の帳簿価額である。
競合
国内首位の座は動かないまま、目減りしたのは海外で積み上げた資産だけである。2001年11月、資金需要のない非上場のまま創業100年を迎えた電通は創業100年を経て東証一部へ株式を公開し、世界のメガエージェンシーとの競争に備えると掲げた。同じ国内市場の頭打ちに対し、博報堂・大広・読売広告社は2003年に3社統合で博報堂DYホールディングスを設立して国内で規模を作り、電通は英イージスを買収して海外へ出た。2025年12月期も日本の売上収益6,083億円・セグメント利益1,211億円は地域別で最大で、国内の順位は変わっていない。上場で得た対価で買った海外の規模を、現在は国内の広告事業が支えている。

創業ストーリー 通信と広告の二足草鞋から、戦時統制で押し出された広告専業 (1901年〜)

通信社を腹に抱えた広告会社という異形の出発

電通の出発点は、新聞社向け通信配信と広告取次を1社で兼業した『日本広告株式会社』と、その同じ社屋に併設された『電報通信社』である[1]。創業者の光永星郎氏は1901年7月に[2]資本金10万円で広告会社を東京で起こし[3]、4ヶ月後の11月にもう通信社を併設した[4]。新聞に通信記事を売り、その広告枠を引き受けるという二重の関係を握り、広告代理店としての交渉力を確保するためであった。広告枠の仕入れ先である新聞社に対し、通信配信というもう1つの商品を抱き合わせて価格交渉の主導権を握る構えである。新聞を唯一のマス媒体とする明治後期の広告市場で、主要メディアの上流を最初から押さえる設計だった。

  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]出発点は広告取次の「日本広告株式会社」と併設された「電報通信社」である
    • [2]創業者は光永星郎
    • [3]1901年7月に光永星郎が資本金10万円で東京に広告会社を創業した
    • [4]創業4ヶ月後の1901年11月に通信社(電報通信社)を併設した

1906年に株式会社日本電報通信社を設立[5]、翌1907年に日本広告と合併し、資本金を26万円[6]に増やして広告と通信を1社に統合した。広告料をニュース配信料で割り引く実質値引きや、スクープを広告主に流す情報サービスなど、通信を握る代理店ならではの営業を展開する。明治後期から大正、昭和初期にかけて新聞広告代理店の最大手の地位を固めた。広告主である企業側にも通信ソース付きの代理店として優位を示し、純粋に広告枠だけを売り歩く他社との差を広げた。通信事業が広告事業の交渉材料となる体制は、以後30年間にわたり同社の収益基盤を支え、昭和初期には国内新聞広告の取扱額で首位を保った。

  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1906年に株式会社日本電報通信社を設立した
    • [6]1907年に日本広告を合併し資本金を26万円に増やして広告と通信を1社に統合した
  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]出発点は広告取次の「日本広告株式会社」と併設された「電報通信社」である
    • [2]創業者は光永星郎
    • [3]1901年7月に光永星郎が資本金10万円で東京に広告会社を創業した
    • [4]創業4ヶ月後の1901年11月に通信社(電報通信社)を併設した
    • [5]1906年に株式会社日本電報通信社を設立した
    • [6]1907年に日本広告を合併し資本金を26万円に増やして広告と通信を1社に統合した

国策統制で通信を失った日に、広告専業企業が生まれた

1936年6月、日本政府の通信統制で社団法人同盟通信社が設立された[7]。電通の通信部はそこに合併され、同社は逆に同盟通信社の前身である聯合通信社の広告部を吸収する[8]。資本金を200万円に増資し、創業以来の二本立てだった通信業務を手放して広告取扱いを主業務とする会社へ転換した[9]。広告と通信を握って成立した30年来のビジネスモデルが、国策によって半分奪われた格好にあたる。代償として国内の広告部門を同盟通信社から巻き取り、広告事業そのものの規模は拡大した。単純な縮小再編ではない。自ら選んだというより戦時下の取引条件として受け入れた転換だが、結果として広告専業会社の原型が1930年代後半に固まった。

  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1936年6月、通信統制で社団法人同盟通信社が設立され電通の通信部が合併された
    • [8]同盟通信社の前身である聯合通信社の広告部を吸収した
    • [9]1936年に資本金を200万円に増資し広告取扱いを主業務とする会社へ転換した

戦後の1955年7月、商号を『株式会社電通』に変更[10]する。日本電報通信社という通信社時代の名残を捨て、広告会社としての電通ブランドを表に立てた。テレビ放送が翌年から本格化する直前のタイミングである。戦時統制で通信機能を失ったことが、結果として広告メディアの拡大期をフルに広告専業として迎える条件を整えた。通信事業を抱えたままテレビ時代を迎えていれば、新聞系通信社との競合や編集・広告分離の議論に巻き込まれた可能性もある。広告代理店として民間放送の番組枠を独占的に扱う立場を早期に築けたのは、20年前に通信を切り離さざるを得なかった国策統制の再編が前提となった結果である。

  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]戦後の1955年7月に商号を「株式会社電通」に変更した
  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1936年6月、通信統制で社団法人同盟通信社が設立され電通の通信部が合併された
    • [8]同盟通信社の前身である聯合通信社の広告部を吸収した
    • [9]1936年に資本金を200万円に増資し広告取扱いを主業務とする会社へ転換した
    • [10]戦後の1955年7月に商号を「株式会社電通」に変更した

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電通グループの沿革1901〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1901〜1954年通信と広告の二足草鞋から、戦時統制で押し出された広告専業光永星郎が日本広告を設立★★
電報通信社を併設し通信社業務を開始
日本電報通信社を設立
日本広告を合併し通信・広告を一体化★★
通信部を同盟通信社へ移管、聯合通信社広告部を吸収★★
1955〜2012年広告専業としての国内シェア首位確立と、海外M&Aへの助走商号を電通に変更
本店を中央区築地に移転
電通国際情報サービス(ISID)を設立
成田豊地域電通5社(東日本・西日本・九州・北海道・東北)を設立
成田豊電通アクティス等4社を統合し電通テックを発足
成田豊「岐路に立つ広告の王者」——3つの大波を前にした組織改革と上場・海外への布石

1998年、日本の広告市場でシェア2割超を握る電通が、メディアの多様化・広告主の要求の変化・外資系広告会社の日本進出という3つの構造変化に直面した。同社は同年11月をめどに、営業局を束ね直す組織改革に踏み出し、2001年の株式上場と海外展開の拡大を布石として掲げた。広告枠の確保という強みが相対的に弱まるなかで、事業モデルを組み替えようとした転換の試みであった。

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★★★
成田豊米SIPS最大手マーチファーストとの合弁による、ネット時代のコンサルティング事業への進出

2000年10月、電通が米国のSIPS(ストラテジック・インターネット・プロフェッショナル・サービス)最大手マーチファースト(シカゴ市)と提携し、合弁会社『電通マーチファースト』を同年11月に設立、2001年1月から本格的なコンサルティング事業に乗り出すと発表した経営判断。広告枠の取次を軸としてきた電通が、インターネット時代の総合コンサルティングへ越境する試みであった。

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★★★
成田豊コンサルティング事業に参入
成田豊電通国際情報サービス(ISID)が東京証券取引所一部に上場
成田豊創業100年を経た東証一部上場——資金需要なき「広告の巨人」の株式公開

2001年11月30日、電通は創業から約100年を経て東京証券取引所市場第一部に直接上場した。資金調達の必要は乏しく、公募・売り出しは全株式の1割弱にとどまったが、大株主の売却ニーズと経営の透明化、世界戦略への布石が重なった資本判断であった。

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★★★
俣木盾夫本店を港区東新橋(汐留)に移転
2013〜2024年Aegis買収によるグローバル化と、その代償石井直英イージス・グループの約4,000億円買収——日本の広告会社で過去最大の海外M&A

2012年7月12日、電通が英広告大手イージス・グループを総額約31億6,400万ポンド(約3,955億円)で買収すると発表した経営判断。日本の広告会社によるクロスボーダーM&Aとして過去最大の規模で、2013年3月26日に手続きを完了し、海外本社『電通イージス・ネットワーク』がロンドンで発足した。

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★★★
石井直電通デジタルを設立
石井直Merkle Group Inc.を買収★★
石井直新入社員の過労自殺を機とした働き方改革と社長交代

2015年12月の新入社員・高橋まつりさんの過労自殺を機に、電通は2016年末に石井直社長の引責辞任を決め、2017年に山本敏博社長の下で『労働環境改革基本計画』を打ち出した。長時間労働を是としてきた広告最大手が、成長一辺倒の企業風土の転換と働き方改革に着手した経営判断。

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★★★
山本敏博CARTA HOLDINGSを株式交換で子会社化
山本敏博海外事業を中心にのれん減損、初の営業赤字★★
山本敏博純粋持株会社体制へ移行、電通グループに商号変更★★
山本敏博コロナ禍で過去最大の最終赤字、海外のれん大型減損
五十嵐博五十嵐博氏が社長に就任
五十嵐博海外事業(電通インターナショナル)の巨額減損とM&A路線の転換

2013年に英広告大手イージスを約4000億円で買収して海外へ広げた電通グループが、海外事業(電通インターナショナル)で2024年12月期・2025年12月期と2期連続の巨額のれん減損を計上し、人員削減と中期経営計画の見直しで再建に取り組んだ経営判断。国内広告が堅調な一方、海外のデジタル事業の不振とのれんの重さが対照をなした。

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★★★
出典・参考
  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】

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