1895年〜 教育雑誌の広告取次から、統制と再建をくぐって総合広告会社になるまで
博報堂DYホールディングスの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
神田の一室で始まった教育雑誌の広告取次
1895年10月、瀬木博尚氏が神田区鍋町22番地に教育雑誌の広告取次店「博報堂」を創業した。扱ったのは新聞ではなく教育雑誌で、対象を学校と教員に読まれる媒体に絞ったところに出発点の特徴がある。社名は「博く、華客に奉仕報酬する」という創業者の考えから採られた。広告主に代わって媒体を押さえる商売そのものは当時すでに存在したが、扱い媒体を限定し、その分野の広告主と媒体社の双方に食い込む形は、規模で先行者を追わない後年の博報堂の作法を先取りしている。教育雑誌は発行部数こそ小さいものの、読者が教員と学校に限られるため、広告主にとっては相手を絞って届けられる媒体にあたる。部数の大小ではなく読者の輪郭で媒体を選ぶ発想が、創業の時点ですでに置かれていた。 [1][2]
- [1]1895年10月、瀬木博尚が神田区鍋町22番地に教育雑誌の広告取次店「博報堂」を創業
- [2]社名は創業者の理念「博く、華客に奉仕報酬する」に由来する
広告代理業の草創期にあって、博報堂の創業は同業の主要各社より早い。のちに最大の競合となる電通は、光永星郎氏が日本広告株式会社を設立した1901年を起源とし、博報堂の創業から6年後にあたる。もっとも先行が優位に直結したわけではない。電通は通信社業務を併営して新聞社との関係を厚くし、四大媒体の取扱高で戦後長く首位を占めた。創業の早さは、博報堂に業界順位ではなく、教育・出版分野の広告主とのつながりという別種の資産をもたらした。広告主に対して媒体を確保する取次と、媒体社に対して広告を集める代理は、同じ会社のなかで利害が反する。どちらの側に立つ会社になるかという問いは、この時期の広告各社に共通しており、博報堂は特定分野の媒体に深く入る形でその問いに答えている。 [3]
- 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
- [3]電通の起源は1901年7月に光永星郎が設立した日本広告株式会社
- [1]1895年10月、瀬木博尚が神田区鍋町22番地に教育雑誌の広告取次店「博報堂」を創業
- [2]社名は創業者の理念「博く、華客に奉仕報酬する」に由来する
- 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
- [3]電通の起源は1901年7月に光永星郎が設立した日本広告株式会社
株式会社への改組と、戦時統制を挟んだ戦後の再建
1914年10月に本社を神田区錦町へ移し、1924年2月には株式会社に改組して瀬木博尚氏が初代取締役社長に就いた。当時の法人格は内外通信社で、博報堂はその広告部として名を掲げる形をとっている。1930年6月には錦町本館が竣工し、木造西洋館から自社ビルへと拠点を移している。取次の店から法人へ、借家から自社ビルへという移行は、広告業が経済のなかで一つの業種として認められた過程とも重なる。創業者は資産を教育分野へ還元する意向を持ち、この志向はのちに財団の設立と、その財団が筆頭株主として持株会社を支える構造につながった。 [4][5][6]
- [4]1914年10月に本社を神田区錦町へ移転
- [5]1924年2月に株式会社へ改組し、瀬木博尚が初代取締役社長に就任。当時の表示は「株式会社内外通信社 広告部博報堂」
- [6]1930年6月に新社屋(錦町本館)が竣工
戦時期の広告業は、用紙統制と媒体の統廃合によって取扱いそのものが縮んだ。戦後の再建で博報堂が最初に手をつけたのは、広告の効用を語る自前の媒体づくりであり、1948年9月に「博報堂月報」を発刊した。同誌はのちに「広告」と改題され、業界の言論媒体として続いた。1955年4月には商号を株式会社博報堂に改め、社名と事業体を一致させている。それまで法人としては内外通信社の名を掲げ、博報堂は広告部門の呼称にとどまっていた。看板の統一は、通信社の一部門から広告会社そのものへと主たる事業が移り終えたことを示す手続きにあたる。創業から60年をかけて、雑誌広告の取次店は総合広告会社としての形を整えた。 [7][8]
- [7]1948年9月に「博報堂月報」を発刊(のちに「広告」と改題)
- [8]1955年4月に商号を「株式会社博報堂」へ変更
- [4]1914年10月に本社を神田区錦町へ移転
- [5]1924年2月に株式会社へ改組し、瀬木博尚が初代取締役社長に就任。当時の表示は「株式会社内外通信社 広告部博報堂」
- [6]1930年6月に新社屋(錦町本館)が竣工
- [7]1948年9月に「博報堂月報」を発刊(のちに「広告」と改題)
- [8]1955年4月に商号を「株式会社博報堂」へ変更