博報堂DYホールディングス の歴史

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創業 1895年
創業者 瀬木博尚
創業地 東京都千代田区
創業
1895年10月、瀬木博尚氏が東京・神田区鍋町で教育雑誌の広告取次店「博報堂」を創業した。扱ったのは新聞ではなく学校と教員が読む媒体で、部数の大小ではなく読者の輪郭で媒体を選ぶ商いから始まっている。1901年創業の電通に6年先んじたが、電通は通信社の業務を併せ持って新聞社との関係を厚くし、四大媒体の取扱高で戦後長く首位を占めた。1924年2月に株式会社へ改組したのちも法人としては内外通信社の名を掲げ、博報堂は広告部の呼称にとどまったが、1955年4月に商号を株式会社博報堂へ改め、社名と事業を一致させている。
決断
規模で追わない会社が、規模の要る領域だけは会社ごと買収して埋めてきた。2000年に最高を記録した総広告費は翌年から反落し、二位以下が同時に苦しくなる。2002年12月に大広・読売広告社との三社経営統合を発表し、2003年10月1日に株式移転で博報堂DYホールディングスを設立して、単独7,097億円だった博報堂は首位との差を半分から7割強へ縮めた。統合したのは広告枠の調達と媒体開発だけで、制作と営業は三社が別々に持ち続けている。ネット広告は単価が小さくテレビ中心の営業では育たないため、2009年2月にデジタル・アドバタイジング・コンソーシアムへ出資し、2018年10月に公開買付けで完全子会社とした。出資から完全子会社化まで九年をかけたことが、テレビとデジタルを同じ提案に載せる編成の前提になった。
現況
会社が主指標に置くのは売上高ではなく、売上総利益である。2026年3月期の売上高は8,610億円、営業利益446億円、当期純利益167億円だった。収益認識の基準変更で売上高が過去と連続しないため、会社は売上総利益4,060億円と売上総利益率25.7%を主指標に据え、前期から利益率を1.1ポイント改善させている。地域別では日本6,227億円に対し海外2,382億円で、海外は広告の取扱いを伸ばす形を採らず、2014年に発足させた戦略事業組織kyuがデザインと経営変革の会社を集めた。2025年12月にはデジタルホールディングスを公開買付けで子会社としたし、中堅企業とスタートアップの顧客基盤を加えている。媒体の調達を三社で合算した2003年の設計は、22年を経て博報堂1社へ戻された。
競合
首位との差は取扱高では縮まらず、海外の作り方のほうで分かれた。電通は2012年に英イージス・グループを約4,000億円で買収して海外を取扱高ごと取り込み、2024年12月期には海外事業で巨額の減損を計上して路線を転換した。博報堂DYは自社の看板を海外へ掲げず、2014年5月に戦略事業組織kyuを発足させ、米SYPartnersやデザイン会社IDEOなど設計側の会社を集めている。2026年3月期の海外売上は2,382億円で、日本の6,227億円に対し4割に達しない。国内のデジタルでは、自ら媒体を持つアメーバブログで自ら媒体を持ったサイバーエージェントのようなネット専業とも競う。取得したのが広告の取扱高ではなく設計の会社だったことが、海外の小さな規模と、減損を伴わない構成の両方を作った。
博報堂DYホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2005年3月期2026年3月期

創業ストーリー 教育雑誌の広告取次から、統制と再建をくぐって総合広告会社になるまで (1895年〜)

神田の一室で始まった教育雑誌の広告取次

1895年10月、瀬木博尚氏が神田区鍋町22番地に教育雑誌の広告取次店『博報堂』を創業[1]した。扱ったのは新聞ではなく教育雑誌で、対象を学校と教員に読まれる媒体に絞ったところに出発点の特徴がある。広告主に代わって媒体を押さえる商売そのものは当時すでに存在したが、扱い媒体を限定し、その分野の広告主と媒体社の双方に食い込む形は、規模で先行者を追わない後年の博報堂の作法を先取りしている。教育雑誌は発行部数こそ小さいものの、読者が教員と学校に限られるため、広告主にとっては相手を絞って届けられる媒体にあたる。部数の大小ではなく読者の輪郭で媒体を選ぶ発想が、創業の時点ですでに置かれていた。

広告代理業の草創期にあって、博報堂の創業は同業の主要各社より早い。のちに最大の競合となる電通は、光永星郎氏が日本広告株式会社を設立した1901[2]年を起源とし、博報堂の創業から6年後にあたる。もっとも先行が優位に直結したわけではない。電通は通信社業務を併営して新聞社との関係を厚くし、四大媒体の取扱高で戦後長く首位を占めた。創業の早さは、博報堂に業界順位ではなく、教育・出版分野の広告主とのつながりという別種の資産をもたらした。広告主に対して媒体を確保する取次と、媒体社に対して広告を集める代理は、同じ会社のなかで利害が反する。どちらの側に立つ会社になるかという問いは、この時期の広告各社に共通しており、博報堂は特定分野の媒体に深く入る形でその問いに答えている。

  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [2]電通の起源は1901年7月に光永星郎が設立した日本広告株式会社
    • [1]1895年10月、瀬木博尚が神田区鍋町22番地に教育雑誌の広告取次店「博報堂」を創業
  • 電通グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [2]電通の起源は1901年7月に光永星郎が設立した日本広告株式会社

株式会社への改組と、戦時統制を挟んだ戦後の再建

1914年10月に本社を神田区錦町へ移し、[3]1924年2月には株式会社に改組して瀬木博尚氏が初代取締役社長に就いた。[4]当時の法人格は内外通信社で、博報堂はその広告部として名を掲げる形をとっている。1930年6月には錦町本館が竣工し[5]、木造西洋館から自社ビルへと拠点を移している。取次の店から法人へ、借家から自社ビルへという移行は、広告業が経済のなかで一つの業種として認められた過程とも重なる。創業者は資産を教育分野へ還元する意向を持ち、この志向はのちに財団の設立と、その財団が筆頭株主として持株会社を支える構造につながった。

    • [3]1914年10月に本社を神田区錦町へ移転
    • [4]1924年2月に株式会社へ改組し、瀬木博尚が初代取締役社長に就任。当時の表示は「株式会社内外通信社 広告部博報堂」
    • [5]1930年6月に新社屋(錦町本館)が竣工

戦時期の広告業は、用紙統制と媒体の統廃合によって取扱いそのものが縮んだ。戦後の再建で博報堂が最初に手をつけたのは、広告の効用を語る自前の媒体づくりであり、1948年9月に『博報堂月報』を発刊した。[6]同誌はのちに『広告』と改題され、業界の言論媒体として続いた。1955年4月には商号を株式会社博報堂に改め[7]、社名と事業体を一致させている。それまで法人としては内外通信社の名を掲げ、博報堂は広告部門の呼称にとどまっていた。看板の統一は、通信社の一部門から広告会社そのものへと主たる事業が移り終えたことを示す手続きにあたる。創業から60年をかけて、雑誌広告の取次店は総合広告会社としての形を整えた。

    • [3]1914年10月に本社を神田区錦町へ移転
    • [4]1924年2月に株式会社へ改組し、瀬木博尚が初代取締役社長に就任。当時の表示は「株式会社内外通信社 広告部博報堂」
    • [5]1930年6月に新社屋(錦町本館)が竣工
    • [6]1948年9月に「博報堂月報」を発刊(のちに「広告」と改題)
    • [7]1955年4月に商号を「株式会社博報堂」へ変更

得意先ごとのグループ制とAE概念の導入

1957年6月、博報堂は得意先ごとのグループ制を採り[8]、AE(アカウント・エグゼクティブ)という概念を導入した。媒体別に人を置く従来の編成では、広告主から見て窓口が分散する。得意先ごとに担当を束ねる編成に変えると、広告主の課題を一人が引き受け、社内の制作・媒体を集める形になる。取扱高で先行する競合に対し、営業の編成そのもので差をつける選択であり、以後の博報堂の営業文化はこの設計の上に積み上がった。AEは米国の広告業で確立していた職能で、博報堂はそれを国内へ持ち込んだ側に立つ。広告主の課題から社内を編成するこの考え方は、のちに広告枠の外側にある事業設計まで請け負う仕事の広がりへつながり、2020年代のコンサルティング事業の下地にもなった。

1960年1月には『博報堂宣言』を発表[9]した。高度成長の入口で広告需要が量的に膨らむなか、量を追う以外の立ち位置を社内外に言葉で示している。以後、博報堂は節目ごとに宣言の形で方針を掲げる会社になった。1991年5月の『グランド・デザイン・パートナー』宣言[10]、2002年5月の『パワーブランド・パートナー』宣言がそれにあたる。広告の受託者ではなく広告主の事業設計に関わる立場を名乗り続けた点で、三つの宣言は一本の線でつながっている。1991年の宣言を掲げたのは磯邊律男社長で、博報堂[11]の第二のステージという言い方をしている。宣言はいずれも取扱高の目標ではなく、広告主との関係の質を言葉にしたものであった。

    • [9]1960年1月に「博報堂宣言」を発表
    • [10]1991年5月に「グランド・デザイン・パートナー」宣言、2002年5月に「パワーブランド・パートナー」宣言
    • [11]1991年5月の「グランド・デザイン・パートナー」宣言は磯邊律男社長が博報堂の「第2のステージ」として掲げた
    • [8]1957年6月に得意先ごとのグループ制を採用し、AEという概念を導入
    • [9]1960年1月に「博報堂宣言」を発表
    • [10]1991年5月に「グランド・デザイン・パートナー」宣言、2002年5月に「パワーブランド・パートナー」宣言
    • [11]1991年5月の「グランド・デザイン・パートナー」宣言は磯邊律男社長が博報堂の「第2のステージ」として掲げた

生活総合研究所が立てた「生活者」という物差し

1981年9月、博報堂は生活者の視点に立つ発想を明示[12]して博報堂生活総合研究所を設立した。調査そのものは収益を生まないが、蓄積が長期になるほど他社に模倣されにくい資産となる。西山泰央社長は2026年の取材で『人間の意識や価値観を何十年も見続け、培った技術がある』[引用元]と述べ、この蓄積を競合との差として挙げた。設立から45年を経てなお経営者が最初に持ち出す資産である点に、この投資の性格がよく表れている。

制作面での評価も1980年代から続いた。1982年6月に松下電器産業のCM『光のメニュー』がカンヌ国際広告祭でグランプリを受け、[13]1993年6月には日清食品カップヌードルのCMがフィルム部門でグランプリを得ている。2003年6月のカンヌ50周年記念式典では特別賞を受けた。[14]取扱高では電通に及ばないまま、表現の評価では国際的な賞を重ねる状態が続き、規模と評判が一致しない二番手という位置づけが定着した。広告主から見れば、取扱量の大きさと表現の質はそれぞれ別の理由で選ぶ材料になる。博報堂は前者で追いつけない差を、後者で埋める形を長く続けた。1992年にはBMWが広告の担当を電通から博報堂[15]へ移しており、この構図が実際の取引の移動として表れた例にあたる。

    • [13]1982年6月に松下電器産業のCM「光のメニュー」がカンヌ国際広告祭でグランプリ受賞
    • [14]1993年6月にカンヌ国際広告祭で日清食品カップヌードルのCMがフィルム部門グランプリ、2003年6月に同祭50周年記念式典で特別賞
  • 日経ビジネス 1992年3月30日号
    • [15]1992年にBMWが広告の担当を電通から博報堂へ切り替えた
    • [12]1981年9月に「生活者の視点に立つ」発想を明示し、博報堂生活総合研究所を設立
    • [13]1982年6月に松下電器産業のCM「光のメニュー」がカンヌ国際広告祭でグランプリ受賞
    • [14]1993年6月にカンヌ国際広告祭で日清食品カップヌードルのCMがフィルム部門グランプリ、2003年6月に同祭50周年記念式典で特別賞
  • 日経ビジネス 1992年3月30日号
    • [15]1992年にBMWが広告の担当を電通から博報堂へ切り替えた

海外提携とニューメディア対応、財団という株主

1980年代の広告業は総広告費の伸び悩みに直面し、各社は新しい媒体と海外に活路を求めた。博報堂は東北新社などとCATV番組ソフト会社の日本映像ネットワークを設立し[16]、米国企業と組んでコンピューターを使うカタログ販売の実験にも取り組んだ。提携先の選び方にも特徴があり、韓国の第一企画、台湾の連広[17]、米国のエーデルマンと結んでいる。同じ時期に大広は米フット・コーン・アンド・ベルディングと、旭通信社は米DDBインターナショナルと組んでおり、日本の広告各社が一斉に海外の作法を取りにいった時期にあたる。

    • [16]博報堂は東北新社などとCATV番組ソフト会社「日本映像ネットワーク」を設立し、米国企業と組んでコンピューター利用のカタログ販売実験に取り組んだ
    • [17]博報堂は韓国の第一企画・台湾の連広・米エーデルマンと、大広は米フット・コーン・アンド・ベルディングと、旭通信社は米DDBインターナショナルと提携

1970年7月、創立75周年を機に文部省認可[18]の財団法人博報児童教育振興会が設立された。児童への国語教育と視覚・聴覚に障がいのある人への教育を助成する組織で、創業者の教育分野への関心を制度の形に移したものにあたる。この財団は現在の公益財団法人博報堂教育財団であり、2026年3月末時点で博報堂DYホールディングス株式の19.77%を保有する筆頭株主となっている。創業家の資産を教育財団に移した結果、上場後も持株比率の高い安定株主が残る構造が生まれた。第2位の一般社団法人博政会が5.03%を持ち、朝日新聞社が3.12%、日本テレビ放送網が2.40%と続く。財団と媒体社が上位に並ぶ株主構成は、広告会社が媒体社との関係のうえに立つ事業であることを、資本の側からも示している。

    • [16]博報堂は東北新社などとCATV番組ソフト会社「日本映像ネットワーク」を設立し、米国企業と組んでコンピューター利用のカタログ販売実験に取り組んだ
    • [17]博報堂は韓国の第一企画・台湾の連広・米エーデルマンと、大広は米フット・コーン・アンド・ベルディングと、旭通信社は米DDBインターナショナルと提携
    • [18]1970年7月、博報堂創立75周年を記念して文部省認可の財団法人博報児童教育振興会を設立

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博報堂DYホールディングスの沿革2003〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1995〜2008年電通の背中を追った三社統合と、博報堂DYホールディングスの誕生博報堂・大広・読売広告社の三社経営統合と共同持株会社 博報堂DYホールディングスの設立

2003年10月1日、博報堂・大広・読売広告社の三社が株式移転によって共同持株会社 博報堂DYホールディングスを設立し、経営統合した判断。統合は2002年12月に発表され、持株会社の初代社長には博報堂社長の宮川智雄氏が就いた。

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★★★
株式移転により博報堂DYHDを設立★★
博報堂DYメディアパートナーズを設立
東京証券取引所市場第一部に株式を上場
2009〜2026年デジタルと海外を買収で組み立て、AI時代の一体運営へ向かうまで戸田裕一博報堂がデジタル・アドバタイジング・コンソーシアムを子会社化
戸田裕一デジタル・アドバタイジング・コンソーシアムとアイレップが株式移転を実施
戸田裕一D.A.コンソーシアムHDを設立
戸田裕一D.A.コンソーシアムホールディングスの公開買付けによる完全子会社化

2018年8月6日、博報堂DYホールディングスが連結子会社D.A.コンソーシアムホールディングス(現Hakuhodo DY ONE)の全株式取得に向けた公開買付けを決議し、同年10月に完全子会社化した経営判断。買付価格は普通株式1株につき3,700円、買付予定数をすべて取得した場合の買付代金は1,140億3,462万1,600円であった。

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★★★
戸田裕一D.A.コンソーシアムHDを完全子会社化★★
水島正幸博報堂を承継会社、博報堂DYメディアパートナーズを分割会社とする吸収分割を実施★★
水島正幸Hakuhodo DY ONEがデジタル・アドバタイジング・コンソーシアムを吸収合併
西山泰央デジタルホールディングスへの公開買付けと子会社化

2025年9月11日、博報堂DYホールディングスが、東証プライム上場のデジタルホールディングス(ネット広告代理店オプトの持株会社)の全株式を1株1,970円・総額約355億円で取得して完全子会社にするとして、公開買付けを始めた経営判断。シンガポール拠点の投資会社SilverCape Investmentsによる対抗買付けの予告を挟み、12月4日に成立した。

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★★★
西山泰央デジタルHDを子会社化
出典・参考

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