「岐路に立つ広告の王者」——3つの大波を前にした組織改革と上場・海外への布石
広告市場でシェア2割超を握る首位企業は、揺らぎ始めた強さの基盤をどう保とうとしたか
更新:
- 概要
- 1998年、日本の広告市場でシェア2割超を握る電通が、メディアの多様化・広告主の要求の変化・外資系広告会社の日本進出という3つの構造変化に直面した。同社は同年11月をめどに、営業局を束ね直す組織改革に踏み出し、2001年の株式上場と海外展開の拡大を布石として掲げた。広告枠の確保という強みが相対的に弱まるなかで、事業モデルを組み替えようとした転換の試みであった。
- 背景
- 電通はテレビ広告枠を確保する能力を強みに、日本の広告市場でシェア22.3%を握り、単独企業として世界最大の広告会社に育っていた。だが放送のデジタル化とインターネットの普及、費用対効果を求める広告主の取引透明化の要求、オムニコムやWPPなど外資系グループの日本進出が同時に押し寄せ、強さを支えてきた基盤が揺らぎ始めた。
- 内容
- 電通は1998年11月をめどに、第1から第20まで並ぶ「文鎮型」の営業局を4つのグループにまとめ、広告制作やマーケティングの機能の一部を営業部門に近づける組織改革を打ち出した。あわせて2001年の東京証券取引所への上場と、15%程度にとどまる海外売上高比率を30%、次いで50%へ引き上げる目標を掲げた。
- 含意
- 成田豊社長は、2002年の新社屋完成を節目に21世紀に対応した電通の姿を確立したいと述べた。組織改革と上場計画は予定どおり実現し、電通は2001年に上場を果たした。一方で海外展開の遅れは残り、その後の大型買収へと課題が引き継がれたとみられる。
王者の岐路が問いかけたもの
1998年の電通が立たされたのは、業績が傾いたための岐路ではなかった。売上高は過去最高を更新し、市場シェアは2割を超えていた。にもかかわらず、メディアの多様化・広告主の要求・外資の進出という三つの変化は、電通の強さそのものであった「広告枠の確保能力」を、少しずつ相対化していくものであった。好調のさなかに構造変化の兆しを読み、営業局の組み替えと上場・海外拡大に動いた点に、この判断の性格がうかがえる。
もっとも、組織や上場という枠組みを整えることと、事業モデルそのものを組み替えることは、同じではない。上場は実現し、コンサルやデジタルへの試みも始まったが、広告枠に依存する収益構造や海外の弱さは、その後も長く電通の課題として残った。1998年の岐路で示された「21世紀に対応した姿」がどこまで実現したのかは、後年の海外大型買収やデジタルシフトの成否のなかで、あらためて問われていくとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
単独世界最大の広告会社
1901年に創業した電通は、1990年代末には単独企業として世界最大の広告会社に育っていた。1997年1月から12月までの売上高は前年比6.2%増の1兆3350億円で、広告市場全体の伸びを上回る過去最高を記録し、日本の広告市場に占めるシェアは22.3%に達した。欧米では上位2社を合わせても市場シェアは1割に届かないと言われるなかで、突出した存在感であった[1]。
その強さの源泉は、電波メディアの広告枠を確保する能力にあった。電通は広告枠をあらかじめ買い取る「買い切り」に、自前の番組企画・制作機能を組み合わせ、高視聴率のヒット番組を生みながら広告主との取引を広げてきた。民放キー局に占める電通の取扱高は夜の時間帯で4割から5割に及び、五輪などの大型イベントの広告も、規模ゆえのリスクを引き受けられる電通に流れてきた[2]。
押し寄せる3つの大波
その基盤に、3つの変化が同時に押し寄せた。第1は放送のデジタル化とインターネットの普及によるメディアの多様化で、チャンネルが増えれば広告枠は広告主優位の買い手市場に転じ、電通の媒体確保能力への評価が相対的に下がりかねなかった。第2は広告主の要求の変化で、景気低迷でコスト管理が厳しくなるなか、手数料の内訳を明かさない不透明な取引や、電通が多数の競合企業を同時に抱える体制への不満が強まっていた[3]。
第3が、外資系広告会社の日本進出であった。米オムニコム傘下のBBDOが中堅のI&Sを実質買収し、同傘下のTBWAは日産系の日放に50%強を出資、英WPPは旭通信社に20%を出資して業務提携を結んだ。外資は1業種1社への取引限定や手数料の透明化を原則とし、これが定着すれば取引透明化と1業種1社制の流れは加速する。すでに日産自動車は1992年に責任代理店制を導入し、電通がトヨタ自動車を優遇する懸念から博報堂を指名していた[4]。
決断
文鎮型組織の組み替えと、上場・海外への布石
電通が選んだのは、巨大広告会社として生き残るための自己改革であった。1998年11月をめどに、第1から第20まで横並びに並ぶ「文鎮型」の営業局を4つのグループにまとめ、独立性を高めて広告主ごとの情報の隔離を進める。同時に、独立していた広告制作やマーケティングの機能の一部を営業部門に移し、営業担当者個人の能力を損なわないまま、組織として広告主の多様な要望に応える体制へ組み替えた。メディアに対する強みは保持しつつ、外資が前面に出す広告以外のサービスに対抗する狙いであった[5]。
組織改革は、より大きな二つの布石と組み合わされていた。ひとつは2001年に予定した東京証券取引所への上場で、資本市場から資金を調達し、海外展開やサービスの質の向上に充てる狙いがあった。いまひとつが海外の強化で、当時15%前後にとどまる海外売上高比率を、できるだけ早く30%、次いで50%まで引き上げる目標を掲げ、提携先の米ヤング&ルビカム以外にも複数の広告会社と緩やかな提携を結ぶ方向を探った。成田豊社長は、2002年の新社屋完成を節目に、21世紀に対応した電通の姿を確立したいと述べた[6]。
結果
上場の実現と、残された海外の課題
掲げた布石のうち、上場は予定どおり実現した。電通は2001年11月に東京証券取引所第一部へ株式を上場し、2002年3月期には上場後初の通期連結業績として売上高1兆7894億円を開示した。汐留の新社屋も2002年に姿を現し、21世紀の拠点という位置づけを得た。株式市場からの資金調達という布石は、計画に沿って形になった[7]。
一方、事業モデルの組み替えは、なお道半ばであった。上場と前後して、電通は2000年に米SIPS最大手マーチファーストと合弁で電通マーチファーストを設立し、広告取次を超えたコンサルティング領域へ足がかりを築こうとした。ただ、この合弁は相手先の破綻に直面し、掲げた海外売上高比率の引き上げも短期には進まなかった。国内で首位を保ちながら海外の実力が相対的に劣る状態は残り、後年の大型買収へと課題が引き継がれていったとみられる[8]。
- 日経ビジネス 1998年9月28日号「電通スタディー 岐路に立つ広告の王者」
- 日経ビジネス 2000年10月23日号「電通、ネット時代のコンサル業へ本格進出! 米最大手と合弁、ライバルはアンダーセン・日本IBM」
- 電通 有価証券報告書(2002年3月期・連結)