タカラトミー の歴史

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創業 1953年
創業者 富山栄市郎
創業地 東京都葛飾区
創業 1924年、富山栄市郎氏が関東大震災で焼けた東京で富山玩具製作所を創業した。19
1924年、富山栄市郎氏が関東大震災で焼けた東京で富山玩具製作所を創業した。1953年に三陽工業を設立して法人の形を整え、素材をブリキからプラスチックへいち早く切り替えている。1961年10月、プラスチック製の線路をつなぐ鉄道玩具"プラレール"を発売し、のちの主力ブランドとなった。大手問屋の下請けから離れて以降、トミーは自ら考え自ら作り自ら売る体制を守り、1977年時点の商品開発本部は約100人の専門スタッフを抱えている。ただし作る機能を国内に置いたまま売上の過半を輸出に依存したことが、次の10年で為替の影響を全面に受ける原因となった。
決断 自ら作って自ら売る体制から、作る側を先に手放した。1970年に香港へ現地法人を設
自ら作って自ら売る体制から、作る側を先に手放した。1970年に香港へ現地法人を設立したのを起点に、1977年からは各国へ自社の販売会社を直接置いた。バイヤーに利益を吸い上げられ現地の情報も入らない輸出をやめ、香港・シンガポール・米国・西独へ自社の拠点を並べている。1985年のプラザ合意で2年のうちに対ドル120円まで円が急騰すると、輸出の6割を占めた北米向けが冷え込んだ。1986年11月、2工場を閉鎖して製造部門を分社し、同年12月には32歳の富山幹太郎氏が社長へ就任する。1991年11月には好調なうちにシンガポール生産から撤退した。工場を離した本社に残った企画・開発・販売の機能が、1998年のハスブロ、2000年のディズニーと他社の商品を国内で独占して扱う立場を可能にした。
現況 利益は日本の1地域がほぼ全部を作っている。2026年3月期の連結売上高は2,70
利益は日本の1地域がほぼ全部を作っている。2026年3月期の連結売上高は2,705億円、営業利益は242億円である。地域別のセグメント利益309億円のうち日本が283億円を占め、その売上高2,104億円は全体の8割弱にあたる。海外はアジアが売上190億円・利益21億円と収益を出す一方、アメリカズは売上304億円に対し利益6億円にとどまり、49億円の減損損失を計上した。欧州も3億円の赤字である。2024年6月、37年半にわたり代表を務めた富山幹太郎氏が名誉会長となり、創業家第二世代の富山彰夫氏が社長へ就任した。同年5月に掲げた"中長期経営戦略2030"は2030年3月期の売上高3,000億円・営業利益300億円を置いており、その伸びしろは利益を出せていない海外側にある。
競合 バンダイナムコは作品を回し、タカラトミーは商品を売り直している。バンダイナムコは
バンダイナムコは作品を回し、タカラトミーは商品を売り直している。バンダイナムコは2005年にナムコと経営統合し、一つのキャラクターを玩具からゲーム、映像まで横断して回す設計へ寄せている。タカラトミーは2006年にタカラと合併しながら、収益はトミカ・プラレール・リカちゃんという自社ブランドと、1998年に取得したハスブロ商品の独占販売権に置いた。国内の年間出生数は2015年の100万人超から2024年に70万人弱へ約3割減っている。子どもの数が減る速さより速く1人あたりの単価を上げるほかなく、55年もののトミカを大人へ売り直すことが次の成長の条件になった。
長期業績の推移 1953〜2026年
タカラトミー:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

第1章 1953年〜 創業期 ─ 三陽工業の設立からプラレール発売と海外一貫生産まで

1953年〜三陽工業の設立とプラレールの誕生

創業者精神として掲げた「世界の友だち、日本のトミー」「われらの優良な商品で世界の市場をにぎわせよう」は、のちのちまで経営理念に据えられた。その出発点は1924年、初代・富山栄市郎氏が関東大震災で焼け野原になった東京で玩具屋を開いたことにあり、商号は富山玩具製作所であった。ブリキを使った金属玩具を製造していたが、戦時中は平和産業である玩具づくりをやめるよう求められて事業を止めた。再起は1953年1月で、戦後に金属玩具を製造していた合資会社三陽玩具製作所を改組し、東京都葛飾区立石に三陽工業株式会社を設立した。1959年3月には営業部門を分離独立、販売子会社富山商事株式会社を設立し、製販分離による営業体制を構築した。

    • [1]大正13年(1924年) 初代・富山栄市郎氏が関東大震災で焼け野原となっていた東京で玩具屋を開いたのが始まり
    • [3]創業当初はブリキを材料とした金属玩具を製造、戦時中は平和産業である玩具の製造中止を求められ事業を中止
    • [2]創業時の商号は富山玩具製作所(大正13年創業)、創業者精神は「世界の友だち、日本のトミー」「われらの優良な商品で世界の市場をにぎわせよう」「誠意と努力は他を益し、自己の幸福の基となる」
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1953年1月 合資会社三陽玩具製作所を改組し三陽工業株式会社を東京都葛飾区立石に設立(戦後玩具メーカーとしての出発点、事業再スタート)
    • [5]1959年3月 営業部門を分離独立し販売子会社富山商事株式会社を設立(製販分離)

素材をいち早くブリキからプラスチックに切り替え、プラスチック玩具のトップメーカーとして成長を遂げた。のちに主力ブランドへ育つ"プラレール"は、プラスチック製のレールで走らせる鉄道玩具として1961年10月に売り出された。米国でありふれた人名トムの愛称と富山の音とを掛け合わせたのがトミーという名であり、この名を掲げた時点で会社を多国籍にする構想をすでに温めていたと後年明かされている。その名が社名になったのは1963年3月で、三陽工業株式会社がトミー工業株式会社に、富山商事株式会社が株式会社トミーに改められ、1969年4月には東京都葛飾区立石で本社社屋が新築された

    • [6]素材をいち早くプラスチックに切り替え、プラスチック玩具のトップメーカーとして成長(社長本人談)
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1963年3月 三陽工業㈱→トミー工業㈱、富山商事㈱→㈱トミーへ商号変更
    • [8]1961年10月 鉄道玩具「プラレール」を発売(後の主力ブランド)
    • [10]1969年4月 東京都葛飾区立石に本社社屋を新築
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [9]社名「トミー」は米国で最もポピュラーな名前の一つトムの愛称に富山の語感を重ねたもので、改称時点でミニ多国籍企業化の腹案を持っていた

創業者は商品開発を企業の命と断じ、市場情報を集める部門と開発部門を切り分けた組織で、新製品を年30〜50点、特許・実用新案・意匠登録の出願を年100件超送り出していた。その担い手として、1977年時点の商品開発本部には約100人の専門スタッフがおり、同じ規模の玩具メーカーでは珍しい厚みだった大手玩具問屋の下請けから離れて以来、企画・製造・販売を自前でこなす体制を崩さず、1976年度にはトミー工業・トミー・米国・香港・シンガポールの5社の連結売上高が250億6000万円となって、業界首位のバンダイグループに並ぶところまで届いていた

  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [11]富山栄次郎会長は「商品開発こそ企業のいのち」と言明、開発本部から年間30〜50点の新製品、特許・実用新案・意匠登録申請は毎年100件以上
    • [12]1977年時点で商品開発本部は約100人のスタッフを擁し、同社程度の規模で商品開発専門スタッフを100人置くのは珍しいと評された
    • [13]1976年度のトミーグループ連結売上高は250億6000万円(トミー工業・トミー・トミーコーポレーション・トミー香港・トミーシンガポールの5社)
参考文献[1]-[13]
    • [1]大正13年(1924年) 初代・富山栄市郎氏が関東大震災で焼け野原となっていた東京で玩具屋を開いたのが始まり
    • [3]創業当初はブリキを材料とした金属玩具を製造、戦時中は平和産業である玩具の製造中止を求められ事業を中止
    • [6]素材をいち早くプラスチックに切り替え、プラスチック玩具のトップメーカーとして成長(社長本人談)
    • [2]創業時の商号は富山玩具製作所(大正13年創業)、創業者精神は「世界の友だち、日本のトミー」「われらの優良な商品で世界の市場をにぎわせよう」「誠意と努力は他を益し、自己の幸福の基となる」
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1953年1月 合資会社三陽玩具製作所を改組し三陽工業株式会社を東京都葛飾区立石に設立(戦後玩具メーカーとしての出発点、事業再スタート)
    • [5]1959年3月 営業部門を分離独立し販売子会社富山商事株式会社を設立(製販分離)
    • [7]1963年3月 三陽工業㈱→トミー工業㈱、富山商事㈱→㈱トミーへ商号変更
    • [8]1961年10月 鉄道玩具「プラレール」を発売(後の主力ブランド)
    • [10]1969年4月 東京都葛飾区立石に本社社屋を新築
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [9]社名「トミー」は米国で最もポピュラーな名前の一つトムの愛称に富山の語感を重ねたもので、改称時点でミニ多国籍企業化の腹案を持っていた
    • [11]富山栄次郎会長は「商品開発こそ企業のいのち」と言明、開発本部から年間30〜50点の新製品、特許・実用新案・意匠登録申請は毎年100件以上
    • [12]1977年時点で商品開発本部は約100人のスタッフを擁し、同社程度の規模で商品開発専門スタッフを100人置くのは珍しいと評された
    • [13]1976年度のトミーグループ連結売上高は250億6000万円(トミー工業・トミー・トミーコーポレーション・トミー香港・トミーシンガポールの5社)

1970年〜海外進出と東京ディズニーランドスポンサー参加

海外バイヤーに製品を輸出するだけでは、儲けの多くを相手に持っていかれ、現地の市場の動きも手元に届かない。そう見た同社は、リスクを承知で自ら市場を切り開く直接進出へと方針を転じた。その最初の現地法人として、1970年8月に香港でTOMY (Hong Kong) Ltd.を設けた。欧州の拠点としては、1982年12月にイギリスでTOMY UK Ltd.(現TOMY UK Co.,Ltd.)を立ち上げた。1983年4月には東京ディズニーランドのオフィシャルスポンサーに加わり、キャラクタービジネスに力を入れた。

  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [14]当初はバイヤーへの輸出にとどまっていたが、利益をバイヤーに吸い取られ現地の市場情報も入手できないため「リスクは大きくても、自ら市場を開拓しない限り、飛躍は望めない」として直接進出に転換
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1970年8月 香港にTOMY (Hong Kong) Ltd.を設立(海外展開の最初の現地法人)
    • [16]1982年12月 イギリスにTOMY UK Ltd.(現TOMY UK Co.,Ltd.)を設立(欧州拠点)
    • [17]1983年4月 東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加(キャラクタービジネス強化の起点)

1970年創立のシンガポール子会社は同社唯一の海外一貫工場で、特恵関税の対象国という利点から100%自社工場として建設され、1979年度の売上高は2年前の倍以上に達する勢いにあった。毎年8月か9月には世界各国の生産・販売拠点のトップが東京に集まる海外連絡会議を開き、特恵関税の有無や労賃・原材料価格を突き合わせて翌年の生産配分を決めていた。一方、1976年7月に設立した西独子会社トミー・シュピールバーレンは、販路開拓の難しさから現地玩具会社との合弁に切り替えたものの、経営を委ねた相手の販売力と財務が伴わず1979年3月に合弁を解消し、香港・シンガポールからの輸入品販売に絞り直した。事前調査の甘さが招いた曲折だった。

  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [18]シンガポール・トミー工業は1970年創立、特恵関税の対象国という利点から100%自社工場として建設された同社唯一の海外一貫工場で、売上高は1977年度1400万ドルから1979年度3000万ドル(シンガポールドル)へ拡大見通し
    • [19]毎年8月か9月に世界各国の生産・販売拠点トップが東京本社に集まる「海外連絡会議」で翌年の生産・販売計画を決定、特恵関税・労賃・原材料価格を勘案して生産配分を決めた
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
    • [20]1976年7月に西独子会社トミー・シュピールバーレンを独力で設立するも販路開拓の難しさから翌年ステレコ社との合弁に切り替え、1979年3月に合弁解消・現地生産停止、香港・シンガポールからの輸入品販売に集中
    • [21]西独進出の困難はパートナー選びを含むフィージビリティ・スタディの甘さに帰されると総括された

1985年9月のフランス TOMY France SARL.、1987年10月のタイ TOMY (Thailand) Ltd.、1988年2月の株式会社ユージン(現株式会社タカラトミーアーツ)設立でカプセル玩具・キャラクター事業の母体を整え、1996年3月には株式会社トミーテックを設立して鉄道模型・ホビー事業の中核も追加した。タイ工場は円高後により労働コストの安い生産地を求めた工場再編の一環で、1988年4月から稼働している。海外拠点は生産と販売で役割を分け、日本本社は企画と開発を担う分業が定着した。

  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1985年9月 フランスにTOMY France SARL.を設立
    • [23]1987年10月 タイにTOMY (Thailand) Ltd.を設立
    • [24]1988年2月 株式会社ユージン(現株式会社タカラトミーアーツ)を設立(カプセル玩具・キャラクター事業の母体)
    • [25]1996年3月 株式会社トミーテックを設立(鉄道模型・ホビー事業の中核)
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [26]労働コストの安いタイに着目し1988年4月からの工場稼働に向けて手を打った(円高後の工場再編の一環)
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [27]生産拠点を香港・シンガポール・台湾など労働力の安い地域に、販売拠点を西ドイツ・米国に置き、日本本社の役割は玩具の企画・開発にほぼ限定されていた
参考文献[14]-[27]
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [14]当初はバイヤーへの輸出にとどまっていたが、利益をバイヤーに吸い取られ現地の市場情報も入手できないため「リスクは大きくても、自ら市場を開拓しない限り、飛躍は望めない」として直接進出に転換
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1970年8月 香港にTOMY (Hong Kong) Ltd.を設立(海外展開の最初の現地法人)
    • [16]1982年12月 イギリスにTOMY UK Ltd.(現TOMY UK Co.,Ltd.)を設立(欧州拠点)
    • [17]1983年4月 東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加(キャラクタービジネス強化の起点)
    • [22]1985年9月 フランスにTOMY France SARL.を設立
    • [23]1987年10月 タイにTOMY (Thailand) Ltd.を設立
    • [24]1988年2月 株式会社ユージン(現株式会社タカラトミーアーツ)を設立(カプセル玩具・キャラクター事業の母体)
    • [25]1996年3月 株式会社トミーテックを設立(鉄道模型・ホビー事業の中核)
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [18]シンガポール・トミー工業は1970年創立、特恵関税の対象国という利点から100%自社工場として建設された同社唯一の海外一貫工場で、売上高は1977年度1400万ドルから1979年度3000万ドル(シンガポールドル)へ拡大見通し
    • [19]毎年8月か9月に世界各国の生産・販売拠点トップが東京本社に集まる「海外連絡会議」で翌年の生産・販売計画を決定、特恵関税・労賃・原材料価格を勘案して生産配分を決めた
    • [27]生産拠点を香港・シンガポール・台湾など労働力の安い地域に、販売拠点を西ドイツ・米国に置き、日本本社の役割は玩具の企画・開発にほぼ限定されていた
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
    • [20]1976年7月に西独子会社トミー・シュピールバーレンを独力で設立するも販路開拓の難しさから翌年ステレコ社との合弁に切り替え、1979年3月に合弁解消・現地生産停止、香港・シンガポールからの輸入品販売に集中
    • [21]西独進出の困難はパートナー選びを含むフィージビリティ・スタディの甘さに帰されると総括された
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [26]労働コストの安いタイに着目し1988年4月からの工場稼働に向けて手を打った(円高後の工場再編の一環)

第2章 1982-2000 (気が向いたら執筆します!) 再編期 ─ 円高不況の工場閉鎖から東証一部上場とハスブロ独占販売権まで

第3章 2001-2014 (気が向いたら執筆します!) 拡大期 ─ タカラ・トミー合併(2006年)とTPG提携による海外展開

第4章 2015-2026 (気が向いたら執筆します!) 第二世代承継期 ─ 外部社長による回復から創業100周年と"中長期経営戦略2030"へ

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歴史年表 1953〜2008年

タカラトミーの沿革1953〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1953〜1981年創業期 ─ 三陽工業の設立からプラレール発売と海外一貫生産まで三陽玩具製作所を改組して、三陽工業を設立
営業部門を分離独立、販売子会社富山商事を設立
プラスチック・レールを使用した鉄道玩具「プラレール」を発売★★
三陽工業をトミー工業に、富山商事をトミーに、それぞれ商号変更
本社社屋を新築
TOMY (Hong Kong) Ltd.を設立
本社ビル本館を新築
バイヤー依存の輸出から海外現地法人の直接進出への転換

1970年代を通じて、トミー工業(現タカラトミー)が輸出をバイヤーに委ねる商法から脱し、香港・シンガポール・米国・西独へ自前の現地法人を設立して"ミニ多国籍企業"を築いた経営判断。

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★★★
1982〜2000年再編期 ─ 円高不況の工場閉鎖から東証一部上場とハスブロ独占販売権までTOMY UK Ltd.を設立
東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加
円高危機を受けた生産拠点の整理と、つくる機能を切り離す経営再編

1986年から1989年にかけて、トミー工業(現タカラトミー)がプラザ合意後の急激な円高で悪化した業績を立て直すため、国内2工場の閉鎖と大量の希望退職、製造部門の分社化、経営陣の世代交代を一気に進めた経営再編。1986年12月には副社長の富山幹太郎氏が32歳で社長に就任し、製造主体の会社から企画・開発・販売主体の会社への転換に着手した。

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★★★
富山幹太郎ユージンを設立
富山幹太郎販売子会社旧トミーを吸収合併、同時に商号をトミーに変更
富山幹太郎好調なうちに現地の生産を畳み、技術拠点へ切り替える転換

1991年から1992年にかけて、玩具大手のトミー(現タカラトミー)が、20年近く続けたシンガポールでの玩具生産を中止した経営判断。完全撤退ではなく、約4000万円を投じて設計・技術指導の拠点へ転換し、解雇した従業員の一部を再雇用して新会社として再出発することで、アジアで摩擦を生みやすい撤退を混乱なく着地させた。

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★★★
富山幹太郎トミーテックを設立
富山幹太郎日本証券業協会に株式を店頭登録
富山幹太郎TOMY Corporationを設立
富山幹太郎ハスブロ社より同社・同社グループ商品の日本における独占的販売権を取得★★
富山幹太郎ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパンとライセンス契約を締結
2001〜2014年拡大期 ─ タカラ・トミー合併(2006年)とTPG提携による海外展開富山幹太郎タカラと合併★★
富山幹太郎タカラトミーに商号変更
富山幹太郎TPGとの戦略的資本・事業提携を発表★★
富山幹太郎インデックス・HDとの業務提携を発表・第三者割当増資を引受け★★
2015〜2026年第二世代承継期 ─ 外部社長による回復から創業100周年と"中長期経営戦略2030"へハロルド・ジョージ・メイ創業家が執行を外部のプロ経営者へ委ね、2年7か月で引き戻した社長人事

2015年6月、代表取締役副社長最高執行責任者のハロルド・ジョージ・メイ氏が代表取締役社長兼最高経営責任者に就任した。28年あまり社長を務めてきた富山幹太郎氏は代表取締役会長へ就任している。役職変更の目的に掲げたのは、経営監視機能と経営執行機能を明確に分離してガバナンスの実効性を確保するとともに、迅速な意思決定を行い機動的な業務執行を実現することであった。 メイ氏は日本コカ・コーラ副社長などを経て2014年3月に経営顧問として招かれ、同年6月に代表取締役副社長へ上がっている。社長在任は2017年12月31日の辞任まで2年7か月だった。

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富山彰夫監査役会を廃して監査を取締役会の内側へ移し、業務執行の決定を取締役へ委ねる機関設計の組み替え

2026年6月25日の第75回定時株主総会で定款を変更し、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移った。監査役4名を置く体制を改め、監査等委員である取締役3名を取締役会の構成員とする形に組み替えている。 取締役会は9名から11名へ増え、うち社外取締役は5名から6名となって過半数を占めた。監査等委員会は3名のうち2名が社外取締役で、委員長は独立社外取締役が務める。

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出典・参考 7件
出典・参考

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