富士電機全従業員の16%にあたる205名の削減と、名取和作社長の退任

9期のうち7期が赤字の合弁会社は、何を削って収支を合わせたか

時期 1931年1月
意思決定者(推定) 名取和作(社長)・吉村萬治郎 第2代社長
論点 創業期の赤字体質と経営再建
概要
1931年1月、富士電機製造が経営再建のため全従業員の16%にあたる205名を削減し、残る社員に昇給停止と手当減額を実施した経営判断。同年春には初代社長の名取和作氏が退き、古河合名代表社員で取締役の吉村萬治郎氏が第2代社長に就いた。
背景
設立時資本金1,000万円のうちシーメンスが引き受けた300万円は現金では払い込まれず、川崎工場の建設資金は銀行借入に依存した。1925年に工場が動き始めてから毎期損失を重ね、1924年3月期から1932年3月期までの9期のうち7期が赤字であった。
内容
人員整理は1930年と1931年の二度にわたって行われ、昇給停止や減給といった非常措置も併せて講じられた。1931年1月の削減は205名で、当時の全従業員の16%に当たる。
含意
削られたのは人件費であったが、赤字の源は現金の入らない資本構成と借入で建てた工場にあった。収支の均衡が見えたのは満州事変後の需要増と重なってからで、1932年上期に利益へ転じ、1934年下期に初めて年6分の配当に達した。
筆者の見解

205名という数字の読み方

削られたのは人件費であって、赤字の源はそこになかった。現金の入らない資本構成と、借入で建てた578万円の川崎工場、そこに積み上がる利息と償却が損失の中身であり、1931年3月期の損失7万円は売上681万円に対する額として、人員の16%を削れば消える規模に見えていたとみられる。それでも翌期の損失は12万円へ膨らんだ。手元の現金が続かない会社に残された手が限られていたことのほうが、この数字から読み取れる。

名取和作氏の退任も、一つの説明では収まらない。沿革は引責辞任と記し、和田恒輔氏と稲垣平太郎氏はそろって時事新報社への転出を挙げる。株を集められる人物として招かれた社長が、集めた資本の不足に足を取られて去った、という読み方は成り立つものの、それを裏づける当人の言葉は残っていない。会社が息を吹き返した過程は業績の数字で追えるのに、削られた205名について当事者が書き残したのは、人員整理のつらさを忘れきれないという一行だけであった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

現金が入らない資本と、借入で建てた川崎工場

富士電機製造は1923年8月、古河電気工業とドイツ・シーメンスの提携により資本金1,000万円で設立された。シーメンスが引き受けた300万円は現金では払い込まれず、機械器具の現物100万円と技術報償金200万円で振り替えられている。第一次世界大戦後の不況で株式の引受人は少なく、古河合名も古河電気工業も負担しきれなかったため、古河虎之助社長は三井の池田成彬氏を通じて、株を集められる人物として名取和作氏に社長就任を懇請した[1][2]

1925年4月、投資額578万円をかけた川崎工場が稼働を始めた。設立時資本金の過半を超える投資であったが、現金の払い込みがない分は金融機関からの借入で埋めるほかなかった。稼働後の状況を和田恒輔氏は「川崎に工場が完成し、運転状態にはいった大正十四年の上期ごろから、会社は毎期損失を重ね」と記している。シーメンスからは多いときで13人の技術者が来ており、その滞在経費も経理を圧迫した。額面50円の株が一時10円台まで落ち込んだ時期もあった[3][4][5]

9期のうち7期が赤字という創業期

業績は数字にはっきり出ていた。『富士電機社史』の業績推移によれば、1924年3月期の売上高は114万円で損失20万円、1927年3月期は売上1,004万円に対し損失30万円、1931年3月期は売上681万円で損失7万円である。黒字となったのは1925年3月期と1928年3月期のわずか2期で、1924年3月期から1932年3月期までの9期のうち7期が赤字であった。1929年3月期の1,033万円を頂点に、売上は3期続けて縮んだ[6]

外の環境も好転しなかった。1931年は金輸出の解禁と再禁止、英国の金本位制停止が重なった大恐慌の只中で、電機各社は一様に受注減に見舞われている。政府は商工省に産業合理局を設け、芝浦・日立・三菱・富士の首脳を集めて企業の合同や機種の整理による合理化を熱心に勧告したが、四社は協議を重ねながらも踏み切れずに終わった。和田氏は、電機は各社が別の財閥に属し技術提携先も違うため合同は一層面倒であったと書いている[7][8]

決断

二度の人員整理と減給

1931年1月、同社は全従業員の16%にあたる205名を削減し、残る社員には昇給停止と手当の減額を実施した。人員整理はこの一度で終わらず、和田氏の回想では1930年と1931年の二度にわたって断行されている。すでに1926年の時点で経費節約のため本社業務を川崎工場に移しており、削るべき経費は先に削ったうえでの人員整理であった[9][10]

社長交代後も措置は続いた。和田氏は「吉村新社長は、非常な決意をもって再度にわたり人員整理を断行、昇給停止あるいは減給などの非常処置も講じられた」と書き残している。和田氏自身も上海支店長時代に六十名ほどの所帯を十数名まで減らした経験を持ち、そのつらさを「後年、富士電機における数次の人員整理の場合と同様、全く忘れきれない」と振り返った。当事者の記録に残る人員整理の記述は、この程度の分量にとどまる[11][12]

初代社長の退任と後任の招聘

1931年春、初代社長の名取和作氏が退いた。有価証券報告書の沿革は、経営再建にあたって名取社長が引責辞任したと記す。一方で当事者の記録は別の経緯を伝えており、和田氏は名取氏が慶応の同窓各位の要請で時事新報社の経営を引き受けることになり社長を辞任したと書き、稲垣平太郎氏も同じく時事新報の社長への転出だったと記している。二つの記録は退任の時期では一致し、理由の記述では重なっていない[13][14][15]

後任は社内から出せなかった。名取氏は残る二人に任せるよう言い置いたが、和田氏らはそれを引き受けられる相談ではないと判断し、創立以来この事業に関わり取締役でもあった古河合名代表社員の吉村萬治郎氏に出馬を願うほかないとして、古河の幹部へ熱心に交渉した。要請が通り、1931年4月に吉村社長が実現する。第2代社長は製品コストの低下を軸に、創業以来の赤字経営の打開へ着手した[16][17]

結果

収支が合うまでの2年半

削減の直後に業績が戻ったわけではない。1932年3月期の売上高は501万円へさらに縮み、損失は12万円と前期より膨らんだ。和田氏によれば、収支均衡の見通しがようやくつきかけた頃に満州事変が起こり、満州国からの電気機器の需要が増え、朝鮮の開発も重なって電機製造業の不振が回復に向かった。人員と給与を削った効果と、外からの需要増が同じ時期に重なった[18][19]

損益は1932年上期に利益へ転じ、繰越赤字は2年半で全額を補填した。1934年下期には初めて年6分の配当に達し、以後は七、八分の配当が続く。もっとも、和田氏は同じ箇所で「やりくりの金は依然として窮屈であった」と書き添え、その理由として1933年の電話部新設と1935年の富士通信機製造の創立という社業拡大を挙げている。削って身軽になった体制のまま、同社は電話部の新設と新会社の設立に資金を向けた[20][21]

出典・参考
  • [object Object]
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