和田恒輔

富士電機・元取締役社長(再任)

Wada Tsunesuke(敬称略)

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社長就任 1945年11月
生年月日 —
学歴 神戸高等商業学校
出自 —
社長就任までの出自
出自

1887年11月、山口県厚狭郡厚狭の商家に生まれた。1909年3月に神戸高等商業学校を卒業し、下関商業時代の恩師の紹介で古河鉱業へ入社した。販路開拓でインドに駐在し、古河合名の井上総理事による欧米視察にも随行した。この視察と前後したジーメンスとの提携交渉が、のちの富士電機製造の創設につながっている。帰国後は上海支店長を務め、銀本位制下の為替変動をにらむ商売を経験した。

社長に選ばれた経緯
抜擢

1945年11月、吉村社長が終戦直後の公職追放で富士電機製造の社長を辞任し、和田氏がその後を継いだ。1948年1月公布の財閥同族支配力排除法では古河財閥の傍系会社として指定を受け、社長以下の全役員が該当者とされた。富士電機製造は古河とジーメンスの合弁で純然たる傍系ではないと異議を申し立て、同年6月に指定解除の承認を得た。戦時中に富士通信機製造の社長を兼務していた和田氏も、追放を免れた。

在任中の主な施策
施策

就任直後は1万人超の従業員を1,300人程度まで減らし、進駐軍から各工場の操業再開許可を得た。三国委員会が接収したジーメンス所有株(発行株式の3割)は古河系各社と金融機関の協力で買い戻した。東海村の日本初の商用原子力発電所には英国GEC社との技術導入契約をもとに全面協力し、1966年7月に平常運転へ入った。1958年5月に会長へ就任したが、家電の混乱で業績が崩れた1964年に社長へ戻り、相田長平氏を副社長に迎えて1965年5月に社長を託した。

在任の評価
評価

執筆予定

経歴 1923〜1965年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
参考文献 1件

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