1949年の決定は、経営者が自ら選んだ戦略というより、戦時補償の打ち切りと企業再建整備法という制度の枠組みのなかで採りうる手を採った処理に近い。それでも、旧勘定に閉じ込めた損失を株主と債権者に負担させ、法人格そのものを作り替えて事業を新しい会社へ移すという手順は、負債を抱えたまま延命を図るのとは異なる決着であった。整理対象者の氏名を発表するところまで踏み込んだ神戸捨二氏の判断が、そのあとの高配当と設備投資の余地を生んだと推察される。痛みの配分を先に確定させた再建であった。
一方で、切り離せなかったものも残った。電電公社と官公庁という安定した売り先は、戦後の復興期には確実な受注をもたらし、同時に利益率の低さを構造として固定した。1969年に山本正明氏が語った制約は、1990年代のDRAM依存や2000年代のNTT依存と、形を変えて繰り返し現れる。会社を一度畳んでまで身軽にしても、誰に何を売る会社なのかという問いまでは清算できなかった——沖電気工業の再出発は、その後の判断を読むうえでの前提を示しているといえる。