日本国有鉄道行政機関職員定員法にもとづく9万5018人の人員整理

均衡予算か、団体交渉権か——法律が定めた定員のなかで国鉄が決めたこと

時期 1949年5月
意思決定者(推定) 下山定則加賀山之雄 総裁・総裁(1949年9月就任)
論点 均衡予算と要員規模
概要
1949年、公共企業体として発足した直後の日本国有鉄道が、行政機関職員定員法にもとづき職員の約6分の1にあたる9万5018人を整理した判断。整理の規模も期限も法律が定めており、国鉄に残されたのは誰を残すかの選別であった。
背景
復員・引揚げの受け入れなどで職員は1949年3月末に60万4243人へ膨らみ、1948年度は一般会計からの300億円の繰入金でかろうじて収支を保っていた。公共企業体への移行と同時に、経済安定9原則による均衡予算の厳守が第1の命題とされた。
内容
定員法附則第7項が1949年10月1日の国鉄職員を50万6734人以下と定め、附則第9項が公共企業体労働関係法の団体交渉の規定を外した。国鉄は6月27日の準則で整理基準を定め、7月1日に通告、4日と14日の二次にわたり解雇を通告した。
含意
7月下旬までに9万5018人が職を離れ、下山総裁の死と三鷹・松川の両事件が重なって組合の抵抗は組織化されなかった。東京地方裁判所はドッジ・ラインに沿う予算の均衡を理由に、団体交渉を経ない整理を憲法違反にはあたらないとした。
筆者の見解

枠を決めた者と、選別を任された者

9万5018人という数を決めたのは国鉄ではない。定員法附則第7項が1949年10月1日時点の上限を50万6734人と書き、附則第9項が団体交渉の適用を外した以上、国鉄総裁に残されたのは誰をその枠の外へ置くかという選別だけであった。6月27日の準則が人格や熟練の優劣を先に置き、差を認め難いときは勤務の長さで比べるとしたのは、削減の幅も期限も動かせない以上、選び方の公平さでしか整理を説明できなかったからだとみられる。

ただし、すべてを外から来た枠に帰すこともできない。佐藤栄作次官が磯崎叡氏にドイツ国鉄の例を引いて要員問題の一挙解決を指示したのは定員法より前のことで、国鉄部内はこの日を待つ側でもあった。磯崎氏は後年、この整理以来20余年にわたって国鉄経営は安定したと書き、国鉄労働組合は同じ法律を組合の圧殺を狙ったものとして記録している。一つの整理が二つの記憶に分かれて残った点に、この判断の性格が表れているとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

60万4243人を抱えた発足

1949年3月末の国鉄職員数は60万4243人であった。終戦直後の国鉄は事業官庁として多くの職種を持ち、復員や引揚げで戻った軍人・政府関係職員を受けいれる組織として着目されたため、人員を積極的に受け入れる立場に置かれた。食糧増産や運輸建設本部、軍管理工場と軍病院の引受け、炭坑の経営、教習所の拡充、公安員の設置、列車の増発。いずれも職員数を押し上げる計画であった[1][2]

人の多い割にサービスは向上せず、営業でも運転でも事故が減らないという非難は絶えなかった。財政も苦しく、1948年度は一般会計からの300億円の繰入金でかろうじて収支の均衡を保っている。1949年6月1日に公共企業体として発足した国鉄は、経済安定9原則によって均衡予算を厳守することを第1の命題とされ、貨物運賃の据置きと旅客運賃の値上げを条件に収支を合わせることを求められた[3][4]

増員の内訳をめぐる対立

増員には理由があるというのが国鉄労働組合の主張であった。1949年5月18日、参議院の内閣委員会と人事委員会による連合審査会で、組合の公述人は戦後の特殊事情による必要増員が18万人あると述べ、その内訳に連合軍関係の輸送要員、労働基準法の実施に伴う要員増、公安官と保安維持要員の設置を挙げた。争点は、その上に働く12万人が過員かどうかにあると訴えた[5]

公述人は仕事量の伸びも並べた。1937年当時の貨物9600万トン・乗客10億6000万人に対し、1948年度は貨物1億3000万トン・輸送人員35億6000万人で、双方を併せた倍率は250%にのぼる。この増大を42万人でこなしているという計算であった。近郊の電車は戦時中のままで車輪のタイヤもバネも酷使で傷み、それを支えているのは人の力だけだという安全面の警告も添えられた[6][7]

決断

10万人という数字の出どころ

10万人規模の整理は、定員法より前から国鉄部内で構想されていた。本省の職員課長に呼び戻された磯崎叡氏は、佐藤栄作次官から、復員や外地鉄道職員の採用が続けば職員は60万人を超えて経営が破綻すること、第一次大戦後のドイツ国鉄が要員過剰の危機を10万人ずつ二度の整理で立て直したことを説かれ、1年か2年のうちに要員問題を一挙に解決する用意をしておくよう指示されたと後年書いている[8]

もっとも、整理の規模と期限を決めたのは国鉄ではなかった。1948年12月、第2次吉田内閣の岩本国務大臣が徹底的行政簡素化案を発表し、一般会計の予算定員3割減と企業特別会計所属職員2割減を掲げた。1949年2月10日には行政機構刷新審議会が、行政機構の規模を3割程度縮減し人員を3割以上整理するよう答申した。行政機関職員定員法は4度の会期延長を経て、第5回国会の最終日にあたる5月31日に成立した[9][10]

団体交渉を外した仕組み

附則第7項は、国鉄職員を1949年10月1日において50万6734人を超えないよう、同年9月30日までに逐次整理すると定めた。衆議院は202対82で可決し、参議院内閣委員会は委員長の賛成1票を含む一票差で可決している。当局の説明では、この定員は機械的な天引きではなく、最も能率的とされた1939年度の労働生産性を基準に1950年度の業務量から算定し、労働基準法の施行に伴う労働条件を考慮して決めたものであった[11][12][13]

同じ附則の第9項が、公共企業体労働関係法第8条第2項の団体交渉の範囲と第19条の苦情処理共同調整会議を、この整理には適用しないと定めた。本多国務大臣は提案理由の説明でも、公労法にいう団体交渉と苦情処理調整会議の規定を今回は適用しないと述べている。大屋晋三運輸大臣は首切り通告の当日、国鉄中央闘争委員会を前に、この整理について団体交渉はせず、話合いも茶飲み話の域を出ないと言い放ったと労働運動側の記録は伝えている[14][15][16]

結果

通告と、三つの事件

整理基準は国鉄自身が定めた。1949年6月27日の準則は、人格・知識、肉体的適応性、業務に対する熟練および協力といった資格要件の優劣を基準に据え、差を認め難い者のあいだでは国有鉄道における勤務の長さで比べるとした。7月1日、運輸大臣が出席する場で基準が通告される。組合の団体交渉の要求は、法律の定めによる整理であって団体交渉で協定する性質ではないとして拒まれ、4日に第1次、14日に第2次の解雇通告が出された[17][18]

第1次通告の翌7月5日、下山定則総裁は出勤の途中に日本橋三越へ立ち寄ったまま消息を絶ち、翌6日午前1時ごろ常磐線北千住・綾瀬間の線路上で轢死体となって発見された。自殺説と他殺説が入り乱れ、原因は不明のまま残った。第2次通告の翌15日には三鷹駅構内で無人の電車が走り出して旅客6人が死亡し、8月16日には東北本線で列車が脱線転覆して機関士と機関助士3人が死亡した[19][20]

9万5018人と、その後の労使

政府は事件が起こるたびに共産党員や労働組合員が暴力革命の意図から起こしたかのように発表し、新聞やラジオもこれを大々的に伝えた。組合は不利な立場に追い込まれ、当初予測された自然発生的な地域闘争も組織的闘争もないまま、7月下旬に行政整理はほぼ完了する。整理された者は依願免1万2472人、免職8万141人、その他2405人の計9万5018人にのぼった[21][22]

国鉄労働組合は1949年6月17日、団体交渉に応ずべき旨を求める訴訟を東京地方裁判所に起こし、あわせて免職等の禁止を求める仮処分を申し立てた。同裁判所は8月8日、これを却下する。判決は、団体交渉権を奪ってまで急ぐ必要があったかを自ら問い、基準の点だけなら双方が誠意を尽くせば妥結点を見出すのは難しくないと述べながら、ドッジ・ラインによる予算は動かしえないとして、公共の福祉のためにやむを得ない措置と結論づけた[23][24]

整理は労使の関係も作り替えた。1950年11月からのレッドパージで国鉄では469人が追放され、1951年5月には機関車労働組合が京都で結成されて組合は分裂した。磯崎叡氏は後年、公共企業体の設立と定員法による10万人の行政整理が実行されて以来、国鉄経営は20余年にわたって安定をみることができたと書いている。国鉄労働組合の側は、同じ法律を全官公関係労働組合の戦闘力の破壊と国鉄労働組合の圧殺を狙ったものとして記録した[25][26]

出典・参考
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
  • 下山事件前後:レッドパージと国鉄労働運動(1949年)

この決断を下した社長 下山定則

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