ダイワボウホールディングス紡績ブロック結成案に応じ4社合併で大和紡績を設立
統制の求めに最初に応じるか、単独で残るか——業界に先駆けた4社の合流
- 概要
- 1941年5月、大日本紡績聯合会が提唱した紡績ブロック結成案の決定に従い、錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併し、大和紡績株式会社が設立された。本社事務所は大阪市東区瓦町に置かれた。
- 背景
- 4社はいずれも独自の技術と販路を持ち、業界に地歩を占めていた。和歌山紡織は1893年、日出紡織は1912年、錦華紡績は1917年、出雲製織は1920年の設立で、出雲製織と和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布を手がけていた。
- 内容
- 設立当初の設備は紡織16工場(精紡機114万5,252錘、織機3,581台)、人絹・スフ3工場(日産115屯強)、加工2工場で、全国第4位の規模にあたった。資本金は8,666万8,450円であった。
- 含意
- 聯合会の案に業界で最初に応じた4社は、統合によって全国4位の設備を手にした。だがその設備は戦時の縮小と戦災で失われ、終戦時に残った精紡機は18万3,580錘にとどまった。
業界に先駆けたことの意味
この合併には、自ら描いた戦略と呼べる部分が乏しい。統合の枠組みは大日本紡績聯合会の側が用意し、4社はそれに応じた。ただし応じ方には差があった。4社は業界で最初に動き、対等合併に踏み切って自社の看板をそろって下ろしている。結果として新会社は全国4位の設備を手にし、以後の統制のなかでも一定の発言力を保った。統制に先んじて動いた者が相対的に有利な位置を得るという、戦時期の企業行動の一例とみることができる。
もっとも、そこで得た規模はきわめて短命であった。1941年に集めた精紡機114万5,252錘のうち、終戦まで残ったのは18万3,580錘にとどまる。合併の実質的な果実は設備でも工場でもなく、佐賀・和歌山・島根に分かれていた4つの会社を1つの法人にまとめたという事実そのものであった。その法人名「大和紡績」は、繊維事業を切り離した2009年まで本体の商号として使われ、さらに中間持株会社の名として2024年の事業売却まで残った。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
大日本紡績聯合会が示した紡績ブロック結成案
1941年、業界団体である大日本紡績聯合会は、紡績各社を系列ごとに束ねる紡績ブロック結成案を提唱した。個々の会社の判断ではなく、業界の側から統合の枠組みが先に示され、各社はその決定に従う立場に置かれた。錦華紡績、日出紡織、出雲製織、和歌山紡織の4社は、この案に業界で最も早く応じ、4社対等の合併へ進んだ。合併の理由は市場競争でも収益改善でもなく、統制の要請に沿って規模を束ねることにあった[1]。
4社はいずれも合併に追い込まれた弱小会社ではなかった。それぞれが独自の特色と伝統の技術を持ち、業界に確固たる地歩を占めていた会社どうしの合流であった。単独でも操業を続けられる4社が同時に看板を下ろした点で、この合併は当時の業界でも例のない規模の統合となった。合併後の商号「大和紡績」は、4社のいずれの社名も継がない新しい名であった[2]。
合流した4社の来歴
最も古いのは1893年設立の和歌山紡織で、以下、1912年設立の日出紡織、1917年設立の錦華紡績、1920年設立の出雲製織と続いた。日出紡織は重布部門の経営に特色を持ち、錦華紡績は「金鳥票綿糸」の生産で広く知られていた。設立年で半世紀近い開きがあり、得意とする品種も分かれていた4社が、1941年に一つの会社へ集まった[3]。
このうち出雲製織と和歌山紡織は、陸海軍の指定業者として軍需綿布の生産に注力していた。軍の調達に直結する生産を担う会社と、綿糸や重布で民需の販路を持つ会社とが、同じ資本のもとに並んだ。合併は民間の事業判断としてよりも、軍需綿布の供給体制を整える側面を色濃く帯びていた。工場の所在も佐賀、和歌山、島根と各地に分かれ、新会社は発足の時点で全国に散った生産拠点を抱えた[4]。
決断
1941年5月の4社合併
1941年5月、4社の合併によって大和紡績株式会社が設立された。本社事務所は大阪市東区瓦町に置かれ、同年7月には今橋一丁目へ移された。設立当初の設備は紡織16工場(精紡機114万5,252錘、織機3,581台)、人絹・スフ3工場(日産115屯強)、加工2工場で、これは全国第4位の規模にあたった。資本金は8,666万8,450円であった。発足の時点で、新会社は業界上位の設備を一挙に手にしていた[5][6]。
合併がもたらしたのは設備の合算だけではなかった。軍需綿布の指定業者2社と、綿糸・重布で市中の販路を持つ2社が同じ帳簿に入り、平時の需要と軍の調達の双方に応じられる品種構成ができた。もっとも、この時点で紡績業に許された役割はすでに狭まりつつあり、統合で得た114万錘の精紡機をそのまま回し続ける前提は成り立たなくなっていた。合併から3年のうちに、この設備の相当部分が閉鎖と転換の対象となる[7]。
結果
発足直後からの縮小と戦災
発足後の紡績業は縮小の道をたどった。大和紡績も設立から1944年にかけて綿紡8工場と人絹・スフ3工場を閉鎖し、綿紡2工場を重工業へ転換、加工1工場を現物出資に充てた。1944年1月には商号そのものを大和工業株式会社へ改め、紡績の名を外した。統合からわずか3年で、会社は合併時の設備構成も社名も保てなくなっていた[8][9]。
国内の縮小と並行して、会社は海外へ手を伸ばした。満支大陸では重工業・ゴム・繊維の傍系各社を運営し、朝鮮では朝鮮大和紡績を設立、フィリピンでは綿花の栽培と紡績の設営を進めた。だが本社社屋をはじめ各工場が戦災に遭い、海外資産も接収された。終戦時に手元に残ったのは精紡機18万3,580錘と織機2,674台で、合併時に集めた114万錘の6分の1にすぎなかった。統合で得た全国4位の規模は、4年余で消えた[10][11]。
戦後の再建と「十大紡績」
戦後は制限会社・持株会社の指定など種々の拘束を受けたが、工場の再開と設備の復旧・新増設を重ね、綿紡事業を中心に再建が進んだ。1946年6月に商号を大和紡績へ戻し、1949年5月には東京・大阪両証券取引所へ株式を上場した。同じ1949年、舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を据えて業界における同機採用の先鞭をつけ、紡機・自転車製造部門の宍道工場を大和機械工業株式会社(現オーエム製作所)として分離独立させた[12][13]。
1952年にはスフ製造の益田工場の第一期復元工事が完成し、紡績一本から化繊兼営へ業容が広がった。同年6月、大阪・御堂筋に本社新社屋が落成する。翌1953年に福井工場へ同社初の毛設備を併設し、繊維総合経営の体制が整った。合併から20年を経た創立20周年時点の保有設備は、綿紡機43万4,108錘、スフ紡機6万2,720錘、梳毛紡機1万6,800錘、合繊紡機2万5,480錘であった。品種は増えたものの、綿紡の錘数は1941年の114万錘には遠く及ばなかった[14][15]。
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- ダイワボウホールディングス 有価証券報告書【沿革】