この合併には、自ら描いた戦略と呼べる部分が乏しい。統合の枠組みは大日本紡績聯合会の側が用意し、4社はそれに応じた。ただし応じ方には差があった。4社は業界で最初に動き、対等合併に踏み切って自社の看板をそろって下ろしている。結果として新会社は全国4位の設備を手にし、以後の統制のなかでも一定の発言力を保った。統制に先んじて動いた者が相対的に有利な位置を得るという、戦時期の企業行動の一例とみられる。
もっとも、そこで得た規模はきわめて短命であった。1941年に集めた精紡機114万5,252錘のうち、終戦まで残ったのは18万3,580錘にとどまる。合併の実質的な果実は設備でも工場でもなく、佐賀・和歌山・島根に分かれていた4つの会社を1つの法人にまとめたという事実そのものであった。その法人名"大和紡績"は、繊維事業を切り離した2009年まで本体の商号として使われ、さらに中間持株会社の名として2024年の事業売却まで残った。