明治乳業極東煉乳から明治乳業への商号変更と、明治製菓の乳製品部門の経営受任・全面譲受
新しい会社を興すか、古い法人へ寄せるか——明治系に二つ並んでいた乳業を一本にまとめる道筋
- 概要
- 1940年12月、極東煉乳が商号を明治乳業へ変更し、同じ月に明治製菓の乳製品部門の経営を受任した。新しい会社を設立したのではなく、1917年設立の極東煉乳を存続法人として、明治系に二つ並んでいた乳業を一つの法人へ寄せた再編である。全面譲受は1943年9月に行われた。
- 背景
- 北海道では酪連と練乳各社が原料乳をめぐって長く対立していた。1940年1月、町村敬貴氏が黒沢酉蔵氏に統合を持ちかけ、8月17日の嵯峨野会談で道内事業を北海道興農公社へ集める案がまとまる。極東煉乳の有島健助会長は、この席を同系の相馬半治氏に一切委任して欠席した。
- 内容
- 商号変更と明治製菓乳製品部門の経営受任を1940年12月に同時に行い、1941年4月に北海道所在の全工場を興農公社へ現物出資、同年6月に東京牛乳運輸を設立した。1943年9月に明治製菓の乳製品部門を全面譲受し、会社銀行八十年史は明治製糖の二牧場の譲受も記している。
- 含意
- 原料地である北海道の工場を手放す代わりに、明治系の乳業を一本化して本州の乳製品事業に専念した。1942年には明治製菓の専務であった植垣弥一郎氏が社長に就き、資本の面だけでなく経営の面でも明治製菓との距離が縮まった。
古い法人を器に選んだこと
束ねる器に選ばれたのは新しい会社ではなく、1917年に資本金150万円で発足した極東煉乳であった。商号を明治乳業へ替え、明治製菓の乳製品部門はまず経営受任という預かりで引き取り、全面譲受は3年近く後の1943年9月に置いている。北海道の工場を興農公社へ差し出す前後の時期に、中身だけが入れ替わった。工場も牧場も次々に持ち主が変わる最中で、変わらなかったのは極東煉乳という法人格だけであった。
一本化といっても、明治乳業の手元に残ったのは本州の事業に限られた。北海道所在の全工場は1941年4月に興農公社へ現物出資され、酪農の産地から切り離された乳業として再出発している。町村敬貴氏が「こんな狭いところで競い合っても仕方がないじゃないか」と説いた統合は、明治系の乳業を一つにまとめると同時に、その北海道の足場を手放させる取引でもあった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
明治系に二つあった乳業
明治乳業の前身である極東煉乳は、1917年12月26日に資本金150万円で設立された煉乳会社であった。初代社長には馬越恭平氏が就き、静岡県三島町と札幌市に乳製品工場を、札幌市外に軽川牧場を設けている。1938年には東京と大阪にも工場を構えた。原料乳の産地である北海道と、大消費地である本州の双方に足場を置いた会社であった[1][2]。
極東煉乳が明治系と呼ばれた背景には、明治製糖を中心とする事業の広がりがあった。1906年12月に台湾で設立された旧明治製糖は、砂糖のほかに菓子・農牧場・乳製品・食品などへ手を伸ばし、会社銀行八十年史は明治製菓・明治乳業・明治商事といった傍系会社の基礎をここで築いたと記している。乳業はその中で、極東煉乳と明治製菓の乳製品部門の二つに分かれていた[3][4]。
酪連と練乳各社の折り合いの悪さ
北海道の酪農家と練乳会社の関係は、長く緊張したままであった。1923年の関東大震災では救援物資としてアメリカから七万数千箱の練乳が届き、政府が輸入関税を撤廃したため、道内の練乳会社は原料乳の受け入れを制限した。搾った乳を毎日下水に流すほかなかった酪農家の不満から、1925年5月に北海道製酪販売組合が生まれ、以後、酪連と練乳各社は原料乳をめぐって競い合った[5]。
1940年1月2日、北海道酪農の功労者として知られる町村敬貴氏が、酪連会長であった黒沢酉蔵氏の自宅を新年の挨拶に訪ねた。前年末にアメリカから帰ったばかりの町村氏は、土地改良の遅れを説いたうえで「酪連と練乳各社は折り合いが悪い。こんな狭いところで競い合っても仕方がないじゃないか」と述べている。黒沢氏も統合を考えており、二人はその足で戸塚久一郎道庁長官の自宅へ向かった[6]。
決断
嵯峨野会談と、相馬半治氏への委任
町村氏は森永煉乳の松崎半三郎社長、極東煉乳の有島健助会長、明治製菓の植垣専務を歴訪し、道内の大団結のため勇断を示してほしいと頼んで回った。戸塚長官も道議会に手を打ち、1940年8月17日、東京・芝の料亭「嵯峨野」での会談となる。招請されたのは町村氏、相馬半治氏、有島氏、松崎氏、黒沢氏の五人であったが、有島氏は同系の相馬氏に一切を委任して欠席した[7]。
席上、戸塚長官は製乳事業と土地改良事業を一本化して行う「興北農業総合公社案」を示し、単なる乳製品事業の企業合同ではなく北海道の農業を確立する国策第一主義のものだと説いた。相馬氏が「製糖事業もあわせて行うべきである」と修正を求めたほかに大きな異論は出ず、五人の意見はまとまった。翌1941年3月17日、酪連と明治・極東・森永三社の道内事業を継ぐ北海道興農公社が発足した[8]。
商号変更と経営受任という二段構え
嵯峨野での合意から四カ月後の1940年12月、極東煉乳は商号を明治乳業へ変更し、同じ月に明治製菓の乳製品部門の経営を受任した。新しい会社を設立したのではなく、1917年設立の極東煉乳がそのまま存続法人となっている。明治系に分かれていた二つの乳業は、資本金150万円で始まったこの古い法人のもとへ寄せられた。商号を替えた月と受任の月が揃っている点に、二つを一体で決めた跡がうかがえる[9][10]。
受任は所有権の移転を伴わない預かりであり、明治製菓の乳製品部門が正式に明治乳業のものとなったのは1943年9月の全面譲受であった。その間の1941年4月、明治乳業は北海道所在の全工場を興農公社へ現物出資している。同年6月には東京牛乳運輸を設立し、産地から切り離された本州で集配を自前で担う手当ても打った。受任から譲受までの3年は、道内の工場を差し出す時期とちょうど重なっている[11][12]。
結果
本州の乳製品事業への専念
1943年9月、明治乳業は明治製菓の乳製品部門を全面的に譲り受けた。会社銀行八十年史はこの譲受を昭和十八年四月とし、あわせて明治製糖の二牧場も引き取ったと記している。月の記載には食い違いがあるものの、北海道の全工場を興農公社へ出したうえで明治製菓の乳製品部門を受け、本州の乳製品事業に専念したという道筋は、有価証券報告書と八十年史の双方で一致している[13][14]。
人の面でも明治製菓との距離は縮まった。1942年、社長に植垣弥一郎氏が就いている。植垣氏は嵯峨野会談の前に町村氏が大団結を頼んで回った相手の一人であり、そのときの肩書は明治製菓の専務であった。歴代の経営代表者は初代社長の馬越恭平氏から小田良治氏、有島健助氏と続いており、植垣氏はその次に座ったことになる。移管する側の役員が、受け入れた側の社長として乳業を率いた[15][16]。
- 明治乳業 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「明治乳業」の項
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「明治製糖」の項
- 黒沢酉蔵「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人17』日本経済新聞社, 1981 所収)