明治乳業の法人は、1917年12月に設立された極東煉乳から続いている。資本金150万円、工場は静岡県三島町と札幌市の二か所で、札幌市外には軽川牧場を持った。[1]生乳の産地である北海道と、消費地に近い静岡へ、工場を分けて置いた。当時の乳製品業界で名の挙がる会社は、極東煉乳・北海道煉乳・明治製菓・森永製菓・北海道製酪販売組合の五者[2]であった。煉乳と育児用ミルクが主な製品で、生乳をそのまま売る市乳の事業はまだ小さい。1938年には東京と大阪にも工場を設け[3]、二つの大消費地へ供給する体制を整えている。
経営は楽ではなかった。森永乳業の大野勇氏が後年に書いたところでは、大正期の育児用ミルクは極東煉乳や北海道煉乳も作っていたが、規格に届かない品はすべて森永に持ち込まれ、森永製菓がこれを買い上げてキャラメルの原料にしていた。[4]昭和の初めには極東煉乳の江別工場が森永に売られている。森永側の評価額は5、6千円だったが、河井専務が黙って3[5]万円を出したところ、極東の岩波専務と一日で話がまとまったという。買い手が付けば工場をすぐ手放す状態にあった。育児用ミルクという難しい製品を抱えながら、資金の面では余裕を欠いていた。
極東煉乳が明治系に入った時点は、はっきりしている。1935年12月、当時3大乳業会社の一つに数えられていた極東煉乳の過半数の株式を、明治製糖が取得した。会長には明治製菓専務の有島健助氏が就き、経営そのものは明治製菓に任されている。設立から18年を経ての傘下入りであり、1917年の時点で明治製糖が出資したわけではない[6]。もっとも、まったく縁がなかったわけでもない。同じ1917年の4月、明治製糖は房総煉乳へ資本参加している。乳業をめぐる明治製糖の関心は、極東煉乳が生まれたのと同じ年に始まっていた。
もう一つの傍証は、販売の側にある。1920年11月に明治製糖と明治製菓の販売機関として設立された明治商店は、砂糖・酒精・ビートパルプ・菓子・乳製品[7]・食品缶詰を扱った。設立時の取扱品目に、すでに乳製品が入っている。一方、のちに明治製菓となる東京菓子も1920年12月に房総煉乳を吸収合併して乳製品[8]の生産に入り、グループの内側には乳業が二つ並んだ。極東煉乳が煉乳と育児用ミルクを、東京菓子改め明治製菓が房総煉乳から引き継いだ設備をそれぞれ持つ状態である。この重複が、1940年に一つへ束ねられる下地になった。
発端は1940年1月にあった。北海道酪農義塾を率いる黒沢酉蔵氏のもとを町村敬貴氏が訪ね、酪連と煉乳各社が折[9]り合わない現状を『こんな狭いところで競い合っても仕方がないじゃないか』[引用元]と説いた。両名は道庁長官宅へ向かい、町村氏が森永・極東・明治の各社を歴訪する。同年8月17日、東京・芝の料亭『嵯峨野』で会談が持たれ、戸塚道庁長官が興北農業総合公社の案を示した。明治の相馬半治氏は、公社が製糖事業もあわせて行うべきだと修正を求めている。[10]この協議が、翌1941年3月の北海道興農公社の発足につながった[11]。
1940年12月、極東煉乳は商号を明治乳業に改めた。新しい会社を作ったのではなく、法人はそのままである。同じ月に明治製菓の乳製品部門の経営を引き受け、1943年9月にはこれを全面的に譲り受けた。[12]あわせて明治製糖の牧場も引き継いでいる[13]。臨時資金調整法のもとでグループ内に分散していた乳業を1社へ束ねる再編で、明治製菓は菓子と食品に、明治乳業は乳製品に事業が分かれた。まず経営を預かり、次に資産を譲り受ける順で移した。乳業専業の会社としての形は、ここで整った。社名は明治を名乗ったが、法人としては極東煉乳がそのまま続いた。設立から数えれば、この時点で23年の会社であった。
明治乳業は、発足から5年のあいだに生産設備を二度手放している。一度目は1941年、北海道興農公社の設立に際して北海道所在の全工場を現物出資した[14]。生乳の主産地に置いた拠点を失い、以後は本州の乳製品事業に専念した。二度目は1945年2月で、東京牛乳乳製品統制会社の設立に都内のミルクプラント全部を、千葉酪業の設立に千葉県内[15]の事業全部を、いずれも現物出資した。主産地と主要市場の設備を、続けて失った。残ったのは静岡と大阪、そして明治製菓から譲り受けた設備であった。いずれも自ら望んだ処分ではない。北海道は道庁主導の公社設立、東京と千葉は統制会社の設立にともなうもので、戦時の政策がそのまま生産基盤を削った。
敗戦の直後、明治乳業は乳業とは別の製品にも手を伸ばした。1946年10月、大阪工場にペニシリンの製造設備を新設して各種[16]ペニシリンの生産を始めている。同じ月に明治製菓も川崎工場でペニシリンの製造を開始しており[17]、グループの2社が別々の工場で同時に抗生物質へ入った。発酵と培養の設備を持つ会社が、原料の入らない本業の代わりに医薬へ回る。統制下の各社が採った道であった。もっとも明治乳業にとってこれは副業にとどまる。明治製菓が抗生物質を全社の柱へ育てたのに対し、こちらは乳業へ戻った。本業の再建は、別の方法で進んだ。
再建の方法は、手放した設備を買い戻すことであった。1949年11月に日本乳製品ほか3社の営業を譲り受け、1950年12月には東京乳業と湘南牛乳を吸収合併する[18]。この東京乳業は、5年前に都内のミルクプラントを現物出資して作られた統制会社そのものであった。1951年12月には朝日乳業を合併し、千葉の事業も取り戻した。1950年2月に飲用牛乳の統制令が撤廃されると[19]、市乳は自由競争の商品になった。1952年に烏山工場、1954年に戸田橋工場を新設し、1953年には帯広・三川・月形の三工場で北海道[20]にも再び足場を築いている。
この時期の業界再編は、持株会社整理委員会が主導した。北海道酪農協同に本州の四工場を明治と森永へ譲渡させ、社名を雪印乳業と改めさせた再編である。委員会にいた野田岩次郎氏によれば、明治と森永から『雪印は北海道内だけでやるべきで本州に進出すべきでない』[引用元]という陳情があったが、これはしりぞけられ、三社で競争させる方針が採られた。市乳の上位10社の生産集中度は1950年の29[21]%から1955年に37%へ上がっている。1955年3月期の明治乳業は全国に41の工場と牧場を持ち[22]、売上高は43億5,000万円であった。同じ期の明治製菓が52億円、前年度の雪印乳業が90億円である。
明治乳業が米国のボーデン社と組んだのは1970年代の初めである。高級アイスクリームが1971年、スライスチーズが1973年に出た。ボーデン社側の記録は商標権の許諾を1972年、チーズの合弁を1974年とし、開始年は資料[23]によって振れる。アイスクリーム・チーズ・マーガリンの3事業で、アイスクリームとマーガリンは明治乳業が生産と販売を担ってボーデンへ技術使用料を払い、チーズは折半出資の明治ボーデンが明治乳業の設備を借りて生産する形をとった。高級アイスクリームの『レディボーデン』は日本に入って13か月で年20億円を売り[24]、1990年3月期にはボーデンブランド全体で250億円に達している。総売上高3,921億円の6%にあたる内訳は、アイスクリーム120[25]億円、チーズ80億円、マーガリン50億円であった。
首位のシェアを支えていたのは、ボーデンから借りたブランドであった。1990年3月期のアイスクリームの出荷額シェアは明治15.3%で[26]、森永と並ぶ首位である。家庭用の高級アイスクリーム市場は10年ほど年率10%で伸び、そのうち約6割をレディボーデンが占めた。ただし提携している間は、競合する製品を自社で開発できない。明治ボーデンは折半出資でありながら、チーズ工場は明治乳業の持ちもので、送り込む社長だけが代表権を持つ実質的な子会社であった。
提携の外側では、自社の製品も出している。1973年12月に発売した明治ブルガリアヨーグルトは[27]、砂糖を加えない酸味のあるプレーンヨーグルトで、国内にヨーグルトという分野そのものを作った。1976年4月には冷凍食品に参入し、1978[28]年6月には幼児向け粉ミルクの明治ステップを発売した。1980年代の前半には甘さ離れが進み、アイスクリームに似た味でカロリーと甘さを半分にうたうフローズンヨーグルトが明治乳業と雪印乳業から発売されて、若い女性に受けた[29]。1986年3月には医薬関連の分野にも入っている。広げた先は、いずれも乳と乳酸菌から離れない領域であった。
販売の側も整えている。1972年3月、グループの明治商事が[30]持っていた乳製品の営業を譲り受け、製造と販売を一つの会社に収めた。同じ年の4月には明治製菓も明治商事を合併し、グループ全体が製販一体へ動いた。量販店の店頭で値段を競う市乳とは別の売り場を、自前で持とうという判断である。売れる量は一軒ずつしか増えず、成果が出るまでに10年近くを要した。それでもこの地味な商売は、20年後に市場の4割を占める規模へ育っている。
提携の相手方が変わった。1986年にロメオ・ベントレス氏が最高経営責任者に就くと、ボーデンは乳製品の大手から買収と売却を重ねてパスタ[31]とスナックの会社へ姿を変える。1987年12月には明治ボーデンへ代表権を持つ副社長として松山和夫氏が送り込まれた。もと明治乳業の社員である。乳製品の輸入自由化が進むなか、日本市場で売上をもっと伸ばせるはずだと考えるボーデンと、従来どおり日本側が主体で運営したい明治乳業との差は開いていった。
1990年4月、ニューヨークのボーデン本社で2日間の交渉が持たれた。ベントレス会長の最終提案は、ボーデンが中心[32]になって作る拠点で生産と販売を行い、日本の商慣習で難しい部分や保冷輸送を明治に任せるというものであった。事実上、明治乳業を下請けに置く内容である。前年6月に常務の末席から8人を越えて社長へ就いていた中山悠氏[33]は、これを受けなかった。5月末に正式に断り、20年続いた提携は順次解けていく。マーガリンは1990年10月、アイスクリームは1991年8月、チーズ[34]は1992年4月に契約が切れた。年250億円の売上と、市場の6割を占めるブランドを手放す判断であった。
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|---|---|---|---|---|
| 1917〜1939年北の生乳を消費地へ運ぶ会社として ── 極東煉乳の設立と明治系という出自 | 極東煉乳を設立(明治乳業の前身) | ★ | ||
| 「明治牛乳」を発売 | ★ | |||
| 明治製糖が極東煉乳の過半数の株式を取得 | ★★ | |||
| 1940〜1959年戦時に二度手放した設備を、戦後に買い戻す ── 明治乳業の発足と再建 | 東京・芝の料亭「嵯峨野」で北海道の乳業再編を協議 | ★ | ||
| 極東煉乳から明治乳業への商号変更と、明治製菓の乳製品部門の経営受任・全面譲受 1940年12月、極東煉乳が商号を明治乳業へ変更し、同じ月に明治製菓の乳製品部門の経営を受任した。新しい会社を設立したのではなく、1917年設立の極東煉乳を存続法人として、明治系に二つ並んでいた乳業を一つの法人へ寄せた再編である。全面譲受は1943年9月に行われた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 明治製菓の乳製品部門の経営を受任 | ★ | |||
| 全工場を北海道興農公社へ現物出資 | ★★ | |||
| 明治製菓の乳製品部門を全面譲受 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 日本乳製品ほか3社の営業を譲受 | ★ | |||
| 東京乳業と湘南牛乳を吸収合併 | ★ | |||
| 「ソフトカード明治コナミルク」を発売 | ★ | |||
| 明治飼糧に資本参加 | ★ | |||
| 全国41の工場・牧場を擁し売上高43億5,000万円 | ★ | |||
| 1960〜1990年借りたブランドで売った20年 ── 米ボーデンとの提携と、その解消 | 紙パック入り「明治牛乳ピュアパック」を発売 | ★ | ||
| ボーデンとの提携で高級アイスクリームを発売 | ★ | |||
| 明治商事の乳製品部門の営業を譲受 | ★ | |||
| 「明治ブルガリアヨーグルト」を発売 | ★★ | |||
| 冷凍食品分野に参入 | ★★ | |||
| 「明治ステップ」を発売 | ★ | |||
| ヘルスサイエンス研究所を新設 | ★ | |||
| 医薬関連分野に参入 | ★★ | |||
| 中山悠氏が社長に就任 | ★ | |||
| 明治乳業による米ボーデンの事業運営移管提案の拒否と、20年にわたる提携の解消 1990年4月、ニューヨークのボーデン本社での2日間の交渉を経て、明治乳業の中山悠社長は同社の最終提案を退け、5月末に正式に断った。アイスクリーム・チーズ・マーガリンの提携は順次解消され、レディボーデンなど年間250億円のブランド事業を手放した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| アイスクリーム「AYA〈彩〉」を発売 | ★ | |||
| 1991〜2009年自社ブランドと乳酸菌の19年 ── 提携解消から明治製菓との統合まで | 軽井沢工場が竣工 | ★ | ||
| 乳酸菌LG21を使ったヨーグルトの発売と、味から体への働きへの訴求の転換 2000年3月27日、明治乳業が乳酸菌LG21を使ったヨーグルトを発売した。発売に先立つ1月27日のマスコミ向け説明会から2月の全国紙一面広告まで、味ではなく胃への働きを前面に置いた訴求を積み上げ、初年度の販売目標30億円に対して80億円を売った経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 「明治おいしい牛乳」を全国発売 | ★★ | |||
| 浅野茂太郎氏が社長に就任 | ★ | |||
| 酪農危機を受けて牛乳の再値上げを決定 | ★ | |||
| 明治製菓と明治乳業の経営統合、持株会社・明治ホールディングスの設立 2008年9月、明治製菓と明治乳業が経営統合を発表し、翌2009年4月に共同株式移転で持株会社・明治ホールディングスを設立、2011年4月には菓子・乳業という会社区分を解いて食品『明治』と医薬『Meiji Seika ファルマ』へ再編した経営判断。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(明治乳業)