{"title":"明治乳業の歴史概略","sections":[{"start_year":1917,"end_year":1939,"main_title":"北の生乳を消費地へ運ぶ会社として ── 極東煉乳の設立と明治系という出自","subsections":[{"title":"三島と札幌に工場を置いた煉乳会社","text":"明治乳業の法人は、1917年12月に設立された極東煉乳から続いている。資本金150万円、工場は静岡県三島町と札幌市の二か所で、札幌市外には軽川牧場を持った。生乳の産地である北海道と、消費地に近い静岡へ、工場を分けて置いた。当時の乳製品業界で名の挙がる会社は、極東煉乳・北海道煉乳・明治製菓・森永製菓・北海道製酪販売組合の五者であった。煉乳と育児用ミルクが主な製品で、生乳をそのまま売る市乳の事業はまだ小さい。1938年には東京と大阪にも工場を設け、二つの大消費地へ供給する体制を整えている。\n\n経営は楽ではなかった。森永乳業の大野勇氏が後年に書いたところでは、大正期の育児用ミルクは極東煉乳や北海道煉乳も作っていたが、規格に届かない品はすべて森永に持ち込まれ、森永製菓がこれを買い上げてキャラメルの原料にしていた。昭和の初めには極東煉乳の江別工場が森永に売られている。森永側の評価額は5、6千円だったが、河井専務が黙って3万円を出したところ、極東の岩波専務と一日で話がまとまったという。買い手が付けば工場をすぐ手放す状態にあった。育児用ミルクという難しい製品を抱えながら、資金の面では余裕を欠いていた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「明治乳業」「その他食品 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人20（1986年）大野勇","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"明治系という出自を、資料はどこまで書いているか","text":"極東煉乳が明治系に入った時点は、はっきりしている。1935年12月、当時3大乳業会社の一つに数えられていた極東煉乳の過半数の株式を、明治製糖が取得した。会長には明治製菓専務の有島健助氏が就き、経営そのものは明治製菓に任されている。設立から18年を経ての傘下入りであり、1917年の時点で明治製糖が出資したわけではない。もっとも、まったく縁がなかったわけでもない。同じ1917年の4月、明治製糖は房総煉乳へ資本参加している。乳業をめぐる明治製糖の関心は、極東煉乳が生まれたのと同じ年に始まっていた。\n\nもう一つの傍証は、販売の側にある。1920年11月に明治製糖と明治製菓の販売機関として設立された明治商店は、砂糖・酒精・ビートパルプ・菓子・乳製品・食品缶詰を扱った。設立時の取扱品目に、すでに乳製品が入っている。一方、のちに明治製菓となる東京菓子も1920年12月に房総煉乳を吸収合併して乳製品の生産に入り、グループの内側には乳業が二つ並んだ。極東煉乳が煉乳と育児用ミルクを、東京菓子改め明治製菓が房総煉乳から引き継いだ設備をそれぞれ持つ状態である。この重複が、1940年に一つへ束ねられる下地になった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「明治乳業」「その他食品 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人20（1986年）大野勇","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1940,"end_year":1959,"main_title":"戦時に二度手放した設備を、戦後に買い戻す ── 明治乳業の発足と再建","subsections":[{"title":"嵯峨野会談から、明治乳業への商号変更まで","text":"発端は1940年1月にあった。北海道酪農義塾を率いる黒沢酉蔵氏のもとを町村敬貴氏が訪ね、酪連と煉乳各社が折り合わない現状を「こんな狭いところで競い合っても仕方がないじゃないか」と説いた。両名は道庁長官宅へ向かい、町村氏が森永・極東・明治の各社を歴訪する。同年8月17日、東京・芝の料亭「嵯峨野」で会談が持たれ、戸塚道庁長官が興北農業総合公社の案を示した。明治の相馬半治氏は、公社が製糖事業もあわせて行うべきだと修正を求めている。この協議が、翌1941年3月の北海道興農公社の発足につながった。\n\n1940年12月、極東煉乳は商号を明治乳業に改めた。新しい会社を作ったのではなく、法人はそのままである。同じ月に明治製菓の乳製品部門の経営を引き受け、1943年9月にはこれを全面的に譲り受けた。あわせて明治製糖の牧場も引き継いでいる。臨時資金調整法のもとでグループ内に分散していた乳業を1社へ束ねる再編で、明治製菓は菓子と食品に、明治乳業は乳製品に事業が分かれた。まず経営を預かり、次に資産を譲り受ける順で移した。乳業専業の会社としての形は、ここで整った。社名は明治を名乗ったが、法人としては極東煉乳がそのまま続いた。設立から数えれば、この時点で23年の会社であった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人17（1981年）黒沢酉蔵","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人20（1986年）野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"北海道と首都圏、二度にわたって手放した生産設備","text":"明治乳業は、発足から5年のあいだに生産設備を二度手放している。一度目は1941年、北海道興農公社の設立に際して北海道所在の全工場を現物出資した。生乳の主産地に置いた拠点を失い、以後は本州の乳製品事業に専念した。二度目は1945年2月で、東京牛乳乳製品統制会社の設立に都内のミルクプラント全部を、千葉酪業の設立に千葉県内の事業全部を、いずれも現物出資した。主産地と主要市場の設備を、続けて失った。残ったのは静岡と大阪、そして明治製菓から譲り受けた設備であった。いずれも自ら望んだ処分ではない。北海道は道庁主導の公社設立、東京と千葉は統制会社の設立にともなうもので、戦時の政策がそのまま生産基盤を削った。\n\n敗戦の直後、明治乳業は乳業とは別の製品にも手を伸ばした。1946年10月、大阪工場にペニシリンの製造設備を新設して各種ペニシリンの生産を始めている。同じ月に明治製菓も川崎工場でペニシリンの製造を開始しており、グループの2社が別々の工場で同時に抗生物質へ入った。発酵と培養の設備を持つ会社が、原料の入らない本業の代わりに医薬へ回る。統制下の各社が採った道であった。もっとも明治乳業にとってこれは副業にとどまる。明治製菓が抗生物質を全社の柱へ育てたのに対し、こちらは乳業へ戻った。本業の再建は、別の方法で進んだ。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人17（1981年）黒沢酉蔵","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人20（1986年）野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"合併で買い戻した首都圏の市乳基盤","text":"再建の方法は、手放した設備を買い戻すことであった。1949年11月に日本乳製品ほか3社の営業を譲り受け、1950年12月には東京乳業と湘南牛乳を吸収合併する。この東京乳業は、5年前に都内のミルクプラントを現物出資して作られた統制会社そのものであった。1951年12月には朝日乳業を合併し、千葉の事業も取り戻した。1950年2月に飲用牛乳の統制令が撤廃されると、市乳は自由競争の商品になった。1952年に烏山工場、1954年に戸田橋工場を新設し、1953年には帯広・三川・月形の三工場で北海道にも再び足場を築いている。\n\nこの時期の業界再編は、持株会社整理委員会が主導した。北海道酪農協同に本州の四工場を明治と森永へ譲渡させ、社名を雪印乳業と改めさせた再編である。委員会にいた野田岩次郎氏によれば、明治と森永から「雪印は北海道内だけでやるべきで本州に進出すべきでない」という陳情があったが、これはしりぞけられ、三社で競争させる方針が採られた。市乳の上位10社の生産集中度は1950年の29%から1955年に37%へ上がっている。1955年3月期の明治乳業は全国に41の工場と牧場を持ち、売上高は43億5,000万円であった。同じ期の明治製菓が52億円、前年度の雪印乳業が90億円である。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人17（1981年）黒沢酉蔵","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人20（1986年）野田岩次郎","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1960,"end_year":1990,"main_title":"借りたブランドで売った20年 ── 米ボーデンとの提携と、その解消","subsections":[{"title":"レディボーデンという借りものの主力商品","text":"明治乳業が米国のボーデン社と組んだのは1970年代の初めである。高級アイスクリームが1971年、スライスチーズが1973年に出た。ボーデン社側の記録は商標権の許諾を1972年、チーズの合弁を1974年とし、開始年は資料によって振れる。アイスクリーム・チーズ・マーガリンの3事業で、アイスクリームとマーガリンは明治乳業が生産と販売を担ってボーデンへ技術使用料を払い、チーズは折半出資の明治ボーデンが明治乳業の設備を借りて生産する形をとった。高級アイスクリームの「レディボーデン」は日本に入って13か月で年20億円を売り、1990年3月期にはボーデンブランド全体で250億円に達している。総売上高3,921億円の6%にあたる内訳は、アイスクリーム120億円、チーズ80億円、マーガリン50億円であった。\n\n首位のシェアを支えていたのは、ボーデンから借りたブランドであった。1990年3月期のアイスクリームの出荷額シェアは明治15.3%で、森永と並ぶ首位である。家庭用の高級アイスクリーム市場は10年ほど年率10%で伸び、そのうち約6割をレディボーデンが占めた。ただし提携している間は、競合する製品を自社で開発できない。明治ボーデンは折半出資でありながら、チーズ工場は明治乳業の持ちもので、送り込む社長だけが代表権を持つ実質的な子会社であった。明治ボーデン社長を兼ねた福田耕作専務は、経営を任された以上は赤字配当にできないと、明治乳業が犠牲を払って黒字にしてきたと語っている。","references":[{"title":"日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業 ボーデンとの離婚」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年6月号「Borden, Inc.」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「食品－食の多様化・グローバル化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"提携の傍らで進めた自社製品と、事業領域の拡張","text":"提携の外側では、自社の製品も出している。1973年12月に発売した明治ブルガリアヨーグルトは、砂糖を加えない酸味のあるプレーンヨーグルトで、国内にヨーグルトという分野そのものを作った。1976年4月には冷凍食品に参入し、1978年6月には幼児向け粉ミルクの明治ステップを発売した。1980年代の前半には甘さ離れが進み、アイスクリームに似た味でカロリーと甘さを半分にうたうフローズンヨーグルトが明治乳業と雪印乳業から発売されて、若い女性に受けた。1986年3月には医薬関連の分野にも入っている。広げた先は、いずれも乳と乳酸菌から離れない領域であった。\n\n販売の側も整えている。1972年3月、グループの明治商事が持っていた乳製品の営業を譲り受け、製造と販売を一つの会社に収めた。同じ年の4月には明治製菓も明治商事を合併し、グループ全体が製販一体へ動いた。1983年には牛乳の宅配を立て直す取り組みを始め、宅配でしか買えないカルシウム強化牛乳などの専用商品を作った。量販店の店頭で値段を競う市乳とは別の売り場を、自前で持とうという判断である。売れる量は一軒ずつしか増えず、成果が出るまでに10年近くを要した。それでもこの地味な商売は、20年後に市場の4割を占める規模へ育っている。","references":[{"title":"日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業 ボーデンとの離婚」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年6月号「Borden, Inc.」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「食品－食の多様化・グローバル化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"ニューヨークで交わされた2日間の交渉","text":"提携の相手方が変わった。1986年にロメオ・ベントレス氏が最高経営責任者に就くと、ボーデンは乳製品の大手から買収と売却を重ねてパスタとスナックの会社へ姿を変える。1987年12月には明治ボーデンへ代表権を持つ副社長として松山和夫氏が送り込まれた。もと明治乳業の社員である。福田専務は、この時から意見がことごとく対立して意思決定が難しくなったと振り返っている。乳製品の輸入自由化が進むなか、日本市場で売上をもっと伸ばせるはずだと考えるボーデンと、従来どおり日本側が主体で運営したい明治乳業との差は開いていった。\n\n1990年4月、ニューヨークのボーデン本社で2日間の交渉が持たれた。ベントレス会長の最終提案は、ボーデンが中心になって作る拠点で生産と販売を行い、日本の商慣習で難しい部分や保冷輸送を明治に任せるというものであった。事実上、明治乳業を下請けに置く内容である。前年6月に常務の末席から8人を越えて社長へ就いていた中山悠氏は、これを受けなかった。5月末に正式に断り、20年続いた提携は順次解けていく。マーガリンは1990年10月、アイスクリームは1991年8月、チーズは1992年4月に契約が切れた。年250億円の売上と、市場の6割を占めるブランドを手放す判断であった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業 ボーデンとの離婚」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年6月号「Borden, Inc.」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「食品－食の多様化・グローバル化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"中山悠","role":"1990年当時の明治乳業社長","date":"1990-04","text":"私はホテルの窓からニューヨークの街を見て、なんて汚い街だろうと思いました。でもこのオフィスから見ると、こんなに素晴らしい景色もあるのだと気がつきました。あなたも一つの窓からしか日本を見ていないのでは","source":"日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業 ボーデンとの離婚」","paragraph":2}]}]},{"start_year":1991,"end_year":2009,"main_title":"自社ブランドと乳酸菌の19年 ── 提携解消から明治製菓との統合まで","subsections":[{"title":"自社ブランドの立ち上げと、宅配という遅い商売","text":"提携の解消を前に、明治乳業は自社ブランドのアイスクリームを出した。1990年9月発売の「ＡＹＡ〈彩〉」で、レディボーデンより高い価格帯を狙っている。ボーデンからは提携中に競合商品を出さない契約に反するとの抗議が書面で届き、のちにニューヨーク連邦地裁へマーガリンの発売差し止めを求める仮処分が申請されたが、これは却下された。1991年に高級アイスの「ブルージェ」、1992年にプロセスチーズの「明治十勝」を出している。福田専務は、開発力のない会社に未来はない、ボーデンブランドへの依存から脱して自分たちのブランドを作るという意欲が社内に感じられるようになったと述べた。\n\nもう一つ、時間のかかる商売を立て直している。牛乳の宅配は1976年に2万1,000店あった販売店が半減し、契約軒数は1992年の120万軒で底を打った。明治乳業は1983年から宅配でしか買えない専用商品を作り、訪問営業を積み重ねる方針をとる。量販店の1リットル紙パックが200円前後で売られるなか、宅配は200ミリリットル瓶が120円で、価格競争とは別の場所に商売を置いた。2003年には契約が260万軒で市場の4割を占め、2位の森永乳業を引き離している。市乳販売本部の日野正雄氏は、一軒ずつの積み重ねでウルトラCのヒットがない世界だと語った。","references":[{"title":"日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業 ボーデンとの離婚」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年3月4日号「株価高騰、明治乳業の『ピロリ菌騒動』舞台裏」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年6月9日号「新・売れる商品Best100」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年10月25日号「営業革命」／2004年11月27日号「マーケティングの達人に会いたい 第56回 明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年12月20日号「未曾有の酪農危機で牛乳再値上げが決定」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"乳酸菌を味ではなく機能で売るという道","text":"2000年、明治乳業は胃で生き抜く乳酸菌を使ったヨーグルトを出した。ボーデンの提案を断った中山悠氏は、このとき社長の11年目にあたる。1月27日にピロリ菌と乳酸菌LG21の説明会を開くと、年初に311円だった株価は翌日445円のストップ高となる。2月にテレビ番組でピロリ菌への抗菌作用が紹介され、翌朝の全国紙には胃の写真を背景にした一面広告が載り、株価は668円と1997年以来の高値をつけた。薬事法すれすれの宣伝として厚生省の監視指導課に呼び出されてもいる。3月27日の発売時の目標は年30億円だったが、初年度は80億円を売った。乳製品は20億から30億円で成功とされる世界である。\n\n売り方は、味ではなく体への働きを説明するものへ変わった。2000年7月に雪印乳業が食中毒事件を起こして乳業への信頼が揺れたなかでも、LG21は伸びている。2002年4月には「明治おいしい牛乳」を全国で発売した。酸素を抜いて風味の劣化を抑える製法とキャップ付きの紙容器を組み合わせ、価格競争に沈んでいた牛乳で、品質を理由に高い値段を選んでもらう売り方を採っている。ただし全社の売上は動かなかった。連結売上高は2002年3月期の7,140億円から2009年3月期の7,114億円まで、7,000億円台の前半で推移している。経常利益は同じ期間に80億円から234億円まで振れ、統合前年は139億円であった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業 ボーデンとの離婚」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年3月4日号「株価高騰、明治乳業の『ピロリ菌騒動』舞台裏」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年6月9日号「新・売れる商品Best100」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年10月25日号「営業革命」／2004年11月27日号「マーケティングの達人に会いたい 第56回 明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年12月20日号「未曾有の酪農危機で牛乳再値上げが決定」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"原料乳の調達が揺らいだ2008年と、統合の決定","text":"2008年、原料乳の調達そのものが揺らいだ。配合飼料の価格は2年前と比べて約6割上がり、生産費に占める飼料の割合は採算ラインの4割に対して6割から7割まで上昇する。沖縄では年内に酪農家の1割が廃業し、その夏は生乳の不足で牛乳が品切れになった。11月に乳業各社が生乳の買い取り価格を15円引き上げ、12月には明治乳業が2009年3月からの出荷価格を1リットルあたり平均10円上げると発表している。同時に希望小売価格を廃止した。安売りが多く、希望小売価格が形だけのものになっていたためであった。\n\n2008年9月、明治乳業と明治製菓は経営統合に合意した。中山氏は2003年4月に会長へ退き、統合の判断は浅野茂太郎社長のもとで行われている。2009年3月に東京証券取引所と名古屋証券取引所での上場を廃止し、翌4月の共同株式移転で明治ホールディングスが発足して、両社はその完全子会社となる。株式移転では明治乳業の1株に共同持株会社の0.117株、明治製菓の1株に0.1株が割り当てられた。1917年の極東煉乳から92年、1949年5月の上場から60年で、独立した会社としての明治乳業が終わっている。もっとも法人は残った。2011年4月、旧明治製菓のフード＆ヘルスケア事業を引き継いだうえで商号を株式会社明治へ改める。菓子の名を継いだのは、乳業の側の法人であった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業 ボーデンとの離婚」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年3月4日号「株価高騰、明治乳業の『ピロリ菌騒動』舞台裏」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年6月9日号「新・売れる商品Best100」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2003年10月25日号「営業革命」／2004年11月27日号「マーケティングの達人に会いたい 第56回 明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年12月20日号「未曾有の酪農危機で牛乳再値上げが決定」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本会社史総覧（1995年）「明治乳業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"明治乳業 有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1917年に静岡と札幌で始まった煉乳会社が、1940年に明治の名を継いだのか","a":"明治グループが乳業を二つ抱えていたためである。1917年12月、馬越恭平氏を初代社長として資本金150万円で設立された極東煉乳は、静岡県三島町と札幌市に工場を置いて煉乳と育児用ミルクを作った。一方、のちの明治製菓にあたる東京菓子も1920年に房総煉乳を吸収して乳製品に入っている。1940年12月、この重複は極東煉乳の側へ寄せられた。新しい会社を作ったのではなく、極東煉乳が商号を明治乳業へ改め、明治製菓の乳製品部門の経営を引き受けている。法人としては、いまも1917年の会社が続いている。"},{"q":"なぜ1990年に、年250億円を売る主力ブランドを自ら手放したのか","a":"ボーデンの条件が、製造だけを請け負う立場への後退だったためである。米ボーデンとの提携で、明治乳業はレディボーデンを軸にアイスクリーム・チーズ・マーガリンを扱い、ボーデンブランドは1990年3月期に250億円を売っていた。総売上高3,921億円の6%にあたる。乳製品の輸入自由化を前に、ボーデンは自社主導の拠点で生産販売を行い、日本の商慣習と保冷輸送を明治に任せる案を示す。中山悠社長はこれを受けず、5月末に断った。家庭用高級アイスクリーム市場の6割を占めるブランドと引き換えに、競合品を出せない制約を外している。"},{"q":"なぜ2000年に乳酸菌を機能で売る道へ進み、それでも2009年に統合を選んだのか","a":"一つの商品が当たっても、会社全体の規模は変わらなかった。2000年に発売したLG21は、胃で生き抜く乳酸菌をうたって初年度に80億円を売った。目標の30億円に対して3倍近く、乳製品では20億から30億円でヒットとされる世界である。それでも連結売上高は2002年3月期の7,140億円から2009年3月期の7,114億円まで7,000億円台の前半で動かなかった。菓子と医薬を持つ明治製菓との統合に合意したのは2008年9月で、その後の11月から12月にかけて飼料高騰による生乳価格の引き上げと牛乳の再値上げが続いている。"}]}}