1925年 北海道の酪農家がつくった製酪販売組合から戦時国策会社までの四半世紀
- 1925年有限責任 北海道製酪販売組合設立
- 1925年バター製造開始
- 1925年バター販売開始
- 1926年「雪印」商標決定(「雪印北海道バター」誕生)
雪印メグミルクの業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
乳価の混乱に抗した酪農家自身による製酪組合の設立
雪印メグミルクの源流は、1925年(大正14)5月に札幌で設立された有限責任北海道製酪販売組合である。関東大震災後の恐慌で乳製品の市況が崩れ、原料乳の買いたたきに苦しんだ北海道の酪農家が、自らの手で乳製品をつくり売るための共同組織として立ち上げた。中心となったのは、米国で酪農を学んだ宇都宮仙太郎氏と、その門下で酪農運動を率いた黒澤酉蔵氏、佐藤善七氏らである。設立からわずか2カ月後の同年7月には、農場の一部を借りた仮工場でバターの製造を開始し、10月から販売を始めた。乳業メーカーの多くが資本の側から生まれたなかで、この組合は酪農家の出資でつくられた点で異色の出発だった。 [1][2][3]
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1925年5月に有限責任北海道製酪販売組合が設立された
- [3]1925年7月にバター製造を開始し10月に販売を開始した
- [2]設立の中心は宇都宮仙太郎・黒澤酉蔵・佐藤善七らである
組合の創業を思想面で支えたのが、黒澤氏の唱えた「健土健民」である。健康な国土があってこそ健康な国民が育つという意味のこの造語は、寒冷地の畑作偏重を改め、牛を飼い堆肥で土を肥やす循環型の酪農によって北海道農業を立て直すという運動論であり、現在も雪印メグミルクが創業の精神として掲げている。事業は初年度から軌道に乗り、翌1926年には組織を保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)に改めて道内の集乳基盤を広げ、札幌に米国製の最新設備を備えた中央工場を建設して量産体制を整えた。東京出張所を開くなど、販売の目は早くから本州の消費地に向いていた。 [4][5]
- 雪印メグミルクレポート2023
- [4]黒澤酉蔵の造語「健土健民」が創業の精神とされている
- [5]1926年に保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)に改組した
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1925年5月に有限責任北海道製酪販売組合が設立された
- [3]1925年7月にバター製造を開始し10月に販売を開始した
- [2]設立の中心は宇都宮仙太郎・黒澤酉蔵・佐藤善七らである
- 雪印メグミルクレポート2023
- [4]黒澤酉蔵の造語「健土健民」が創業の精神とされている
- [5]1926年に保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)に改組した
「雪印」商標の誕生とバター市場での躍進
1926年12月、酪連は商標を「雪印」に決めた。札幌第一中学校(現・札幌南高等学校)の校章の雪のマークに着想を得て、雪の結晶に北極星を重ねた意匠であり、ここに「雪印北海道バター」が生まれた。品質本位の製造は販路を広げ、1927年には上海・大連への輸出を開始、1930年には鉄道貨車に氷を積む冷蔵輸送で本州への大量出荷を実現した。1929年に北海道庁が設けたバター検査条例の推奨マークも品質の裏書きとなり、1932年にはバターの国内生産量の75%を占めるに至っている。バターがまだ高級品だった時代に、一つの商標が市場の大半を押さえた。 [6][7][8][9]
- 有価証券報告書【沿革】
- [6]1926年12月に「雪印」商標が決定し「雪印北海道バター」が誕生した
- [7]商標は札幌第一中学校の校章の雪のマークに着想を得た
- [8]1927年に上海・大連への輸出を開始した
- [9]1932年にバター国内生産量の75%を占めた
販売の工夫も先進的だった。1930年ごろから映画スターを起用した宣伝を打ち、バターを使う料理を紹介する「料理のしおり」を配って、商品と洋風の食文化をひとまとめに家庭へ届けた。牛乳や乳製品が日本人の食生活にまだ根づいていない時代、まず食べ方から伝える販売活動だった。酪農家の販売組合として出発した酪連は、こうして道内の集乳網と本州の販路の両方を広げながら乳業メーカーとしての実体を強め、1935年には集乳量で先行する明治・森永の両社を上回り、全国一の製乳業者となった。設立から10年、小さかったバター需要を自らつくり、集乳網と販路を同時に広げた結果である。 [10][11]
- [10]1930年ごろに映画スターを使った宣伝と「料理のしおり」による普及活動を行った
- [11]1935年に集乳量で明治・森永を抜いて全国一の製乳業者となった
- 有価証券報告書【沿革】
- [6]1926年12月に「雪印」商標が決定し「雪印北海道バター」が誕生した
- [7]商標は札幌第一中学校の校章の雪のマークに着想を得た
- [8]1927年に上海・大連への輸出を開始した
- [9]1932年にバター国内生産量の75%を占めた
- [10]1930年ごろに映画スターを使った宣伝と「料理のしおり」による普及活動を行った
- [11]1935年に集乳量で明治・森永を抜いて全国一の製乳業者となった
戦時統制下の興農公社から北海道酪農協同への改組
日中戦争から太平洋戦争へと続く経済統制は乳業にも及び、酪連は1941年、戦時の国策会社である株式会社北海道興農公社に改組された。酪農家の出資と合意を積み上げてきた共同販売組織は、協同組合の形を離れ、乳製品の増産を担う統制会社として戦時を過ごすことになる。牛乳・乳製品は軍需と国民栄養の両面で重視され、事業そのものは統制の網の中で続いたが、生産者が自ら値段と販路を決めるという創業の仕組みは、この改組でいったん失われた。設立から16年、「健土健民」を掲げた運動体としての組合の歴史は、ここでひと区切りを迎える。 [12]
- [12]1941年に株式会社北海道興農公社に改組された
敗戦後の1947年、会社は社名を北海道酪農協同株式会社(北酪社)に改めて再出発した。しかし道内の集乳とバター・チーズ製造をほぼ一手に担う体制は、財閥解体を軸とする連合国占領下の経済民主化政策と衝突する。北酪社は過度経済力集中排除法の適用対象となり、市場の独占的な地位を解くための会社分割を迫られた。戦前に集乳量で全国一まで育った事業体は、その大きさそのものが分割の理由になった。創業から四半世紀で北海道酪農の代名詞となった組織は、二つの会社に分かれて戦後の再出発を期すことになる。 [13][14]
- [13]1947年に北海道酪農協同株式会社に社名変更した
- [14]北酪社は過度経済力集中排除法の適用を受けて分割された
- [12]1941年に株式会社北海道興農公社に改組された
- [13]1947年に北海道酪農協同株式会社に社名変更した
- [14]北酪社は過度経済力集中排除法の適用を受けて分割された