雪印メグミルク の歴史

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創業 1925年
創業者 宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵
創業地 北海道
創業
1925年5月、宇都宮仙太郎氏と黒澤酉蔵氏らが札幌で有限責任北海道製酪販売組合を設立した。関東大震災後の恐慌で乳製品の市況が崩れ、原料乳を買いたたかれた北海道の酪農家が自ら出資してつくった共同組織で、2か月後の7月には農場の一部を借りた仮工場でバターの製造を始めている。1926年に保証責任北海道製酪販売組合連合会へ改組し、同年12月には商標を『雪印』と定めた。1932年にはバターの国内生産量の75%を占め、1935年には集乳量で明治・森永の両社を上回る。ただし1941年に戦時の国策会社である北海道興農公社へ改組され、生産者が乳の値段と販路を自ら決める仕組みはここでいったん失われた。
決断
分割を強いられるたびに、時間をかけて分社された事業を統合し直してきた。1950年6月、北海道酪農協同は過度経済力集中排除法で二分されて雪印乳業となり、もう一方の北海道バターはクロバー乳業となる。雪印乳業は『雪印』の商標を引き継いで同年8月に東京・札幌の両証券取引所へ上場し、占領の終結で分割を強いた政策が変わると、1958年にクロバー乳業を合併して生産基盤を一つに戻した。二度目は2002年で、雪印食品の牛肉偽装のあと赤字の市乳事業を切り出し、2003年1月に日本ミルクコミュニティが発足する。2009年10月には日本ミルクコミュニティと経営統合して雪印メグミルクを設立し、市乳と乳製品は同じグループへ戻った。二度の再統合で取り戻したのは事業の範囲であって、酪農家が乳の値段と販路を自ら決める創業時の仕組みではない。
現況
売上が並ぶ二つの事業で、利益は乳製品が飲料・デザート類の2.7倍を出す。2026年3月期の連結売上高は6,158億円、営業利益183億円。セグメント別では乳製品が売上2,684億円・利益105億円、飲料・デザート類が2,603億円・39億円、飼料・種苗が479億円・7億円である。牛乳は商品の差別化が難しく特売の定番になりやすいため赤字が常態化し、『中期経営計画2022』が掲げた赤字幅3分の1の縮減も未達に終わった。2025年の『Next Design 2030』は国内生産拠点の2〜3割を協業・M&A・生産受委託で再編するとし、2026年5月までに神戸・興部・川越の3工場の生産終了が決まっている。商品で直らない牛乳の採算を、工場の数のほうから直す段階へ移った。
競合
二度の事件で失ったのは順位ではなく、単独で再建する資格だった。2000年6月の低脂肪乳による集団食中毒は被害者13,420人に達し、45年前の八雲工場の事件と同じ黄色ブドウ球菌によるものだった。信頼が戻りかけた2002年1月に子会社の雪印食品による牛肉偽装が発覚すると、西紘平社長が望んだネスレの資本参加案に対して農林水産省は全農・全酪連との市乳統合を後押しし、全農を筆頭株主とする農協系主導の再建を受け入れた。育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと、事業ごとに提携先が決まった。同じ総合乳業の形へ戻るにも、明治乳業が自ら選んで明治製菓と統合して総合食品グループへ移ったのに対し、雪印の再編は監督官庁と提携先が枠組みを決めている。
雪印メグミルク:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2010年3月期2026年3月期

創業ストーリー 北海道の酪農家がつくった製酪販売組合から戦時国策会社までの四半世紀 (1925年〜)

乳価の混乱に抗した酪農家自身による製酪組合の設立

雪印メグミルクの源流は、1925年(大正14)5月に札幌で設立された有限責任北海道製酪販売組合である[1]。関東大震災後の恐慌で乳製品の市況が崩れ、原料乳の買いたたきに苦しんだ北海道の酪農家が、自らの手で乳製品をつくり売るための共同組織として立ち上げた。中心となったのは、米国で酪農を学んだ宇都宮仙太郎氏と、その門下で酪農運動を率いた黒澤酉蔵氏、佐藤善七氏らである[2]。設立からわずか2カ月後の同年7月には、農場の一部を借りた仮工場でバターの製造を開始し、10月から販売を始めた[3]。乳業メーカーの多くが資本の側から生まれたなかで、この組合は酪農家の出資でつくられた点で異色の出発だった。

組合の創業を思想面で支えたのが、黒澤氏の唱えた『健土健民』[4]である。健康な国土があってこそ健康な国民が育つという意味のこの造語は、寒冷地の畑作偏重を改め、牛を飼い堆肥で土を肥やす循環型の酪農によって北海道農業を立て直すという運動論であり、現在も雪印メグミルクが創業の精神として掲げている。事業は初年度から軌道に乗り、翌1926年には組織を保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)[5]に改めて道内の集乳基盤を広げ、札幌に米国製の最新設備を備えた中央工場を建設して量産体制を整えた。東京出張所を開くなど、販売の目は早くから本州の消費地に向いていた。

  • 雪印メグミルクレポート2023
    • [4]黒澤酉蔵の造語「健土健民」が創業の精神とされている
    • [5]1926年に保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)に改組した

「雪印」商標の誕生とバター市場での躍進

1926年12月、酪連は商標を『雪印』[6]に決めた。札幌第一中学校(現・札幌南高等学校)の校章の雪のマークに着想を得て[7]、雪の結晶に北極星を重ねた意匠であり、ここに『雪印北海道バター』が生まれた。品質本位の製造は販路を広げ、1927年には上海・大連への輸出を開始、1930年には鉄道貨車に氷を積む冷蔵輸送で本州への大量出荷を実現した。[8]1929年に北海道庁が設けたバター検査条例の推奨マークも品質の裏書きとなり、1932年にはバターの国内生産量の75%を占めるに至っている。[9]バターがまだ高級品だった時代に、一つの商標が市場の大半を押さえた。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1926年12月に「雪印」商標が決定し「雪印北海道バター」が誕生した
    • [7]商標は札幌第一中学校の校章の雪のマークに着想を得た
    • [8]1927年に上海・大連への輸出を開始した
    • [9]1932年にバター国内生産量の75%を占めた

販売の工夫も先進的だった。1930年ごろから映画スターを起用した宣伝を打ち[10]、バターを使う料理を紹介する『料理のしおり』を配って、商品と洋風の食文化をひとまとめに家庭へ届けた。牛乳や乳製品が日本人の食生活にまだ根づいていない時代、まず食べ方から伝える販売活動だった。酪農家の販売組合として出発した酪連は、こうして道内の集乳網と本州の販路の両方を広げながら乳業メーカーとしての実体を強め、1935年には集乳量で先行する明治・森永の両社を上回り、全国一の製乳業者となった。[11]設立から10年、小さかったバター需要を自らつくり、集乳網と販路を同時に広げた結果である。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1926年12月に「雪印」商標が決定し「雪印北海道バター」が誕生した
    • [7]商標は札幌第一中学校の校章の雪のマークに着想を得た
    • [8]1927年に上海・大連への輸出を開始した
    • [9]1932年にバター国内生産量の75%を占めた
    • [10]1930年ごろに映画スターを使った宣伝と「料理のしおり」による普及活動を行った
    • [11]1935年に集乳量で明治・森永を抜いて全国一の製乳業者となった

戦時統制下の興農公社から北海道酪農協同への改組

日中戦争から太平洋戦争へと続く経済統制は乳業にも及び、酪連は1941年、戦時の国策会社である株式会社北海道興農公社に改組された[12]。酪農家の出資と合意を積み上げてきた共同販売組織は、協同組合の形を離れ、乳製品の増産を担う統制会社として戦時を過ごすことになる。牛乳・乳製品は軍需と国民栄養の両面で重視され、事業そのものは統制の網の中で続いたが、生産者が自ら値段と販路を決めるという創業の仕組みは、この改組でいったん失われた。設立から16年、『健土健民』を掲げた運動体としての組合の歴史は、ここでひと区切りを迎える。

敗戦後の1947年、会社は社名を北海道酪農協同株式会社[13](北酪社)に改めて再出発した。しかし道内の集乳とバター・チーズ製造をほぼ一手に担う体制は、財閥解体を軸とする連合国占領下の経済民主化政策と衝突する。北酪社は過度経済力集中排除法の適用対象となり[14]、市場の独占的な地位を解くための会社分割を迫られた。戦前に集乳量で全国一まで育った事業体は、その大きさそのものが分割の理由になった。創業から四半世紀で北海道酪農の代名詞となった組織は、二つの会社に分かれて戦後の再出発を期すことになる。

    • [12]1941年に株式会社北海道興農公社に改組された
    • [13]1947年に北海道酪農協同株式会社に社名変更した
    • [14]北酪社は過度経済力集中排除法の適用を受けて分割された

過度経済力集中排除法による分割と雪印乳業の発足

1950年6月、北海道酪農協同は過度経済力集中排除法にもとづき二分され、その一方として雪印乳業株式会社が設立された[15]。もう一方は北海道バター株式会社(のちのクロバー乳業)である[16]。雪印乳業は『雪印』の商標を引き継ぎ、設立からわずか2カ月後の同年8月には東京証券取引所と札幌証券取引所に株式を上場して[17]、証券市場から資本を調達できる株式会社として再出発した。1925年に酪農家の共同組合として始まった事業体は、戦時の国策会社化と占領期の分割という二度の改組をへて、ここで上場企業になった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1950年6月に雪印乳業株式会社が設立された
    • [17]1950年8月に東京証券取引所・札幌証券取引所に上場した
    • [16]分割のもう一方は北海道バター株式会社である

発足翌年の1951年にはビタミン入り粉ミルク『雪印ビタミルク』を発売し[18]、バター・チーズの会社から、飲む牛乳や育児用食品も含む総合乳業への歩みを始めた。分割で分かれた北海道バターはクロバー乳業と改称して同じ市場で競い合ったが、占領の終結によって分割を強いた政策環境そのものが変わると再結合が課題にのぼり、1958年に雪印乳業はクロバー乳業を合併[19]して分割前の生産基盤を一つに戻した。北海道の原料乳を土台に全国の消費地へ売り広げる雪印ブランドの体制はここで固まり、高度成長期の拡大へ向かう足場ができた。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1950年6月に雪印乳業株式会社が設立された
    • [17]1950年8月に東京証券取引所・札幌証券取引所に上場した
    • [18]1951年に「雪印ビタミルク」を発売した
    • [16]分割のもう一方は北海道バター株式会社である
    • [19]1958年にクロバー乳業と合併した

八雲工場食中毒事件と「全社員に告ぐ」

発足5年目の1955年3月、東京都内の小学校9校の学校給食で集団食中毒が発生[20]した。原因は北海道の雪印乳業八雲工場が製造した脱脂粉乳で、製造機の故障と停電により原料乳あるいは半濃縮乳が粉化前に長時間放置され、黄色ブドウ球菌が増殖したものと推定された[21]。給食を食べた7,638人のうち患者は1,579人にのぼり[22]、成長期の子どもたちに被害が集中したことは会社に重くのしかかった。北海道庁の検査条例以来、品質を何よりの旗印として伸びてきた雪印の名が、創業30年にして初めて大規模な食品事故と結びついた事件である。

事件を受けて当時の社長佐藤貢氏は『全社員に告ぐ』[引用元][23]と題する文書を全社に発し、品質への反省と出直しを求めた。この文書は以後、同社の品質管理の原点として語り継がれることになる。しかし、その記憶はその後の組織のなかで保たれなかった。雪印メグミルクは今日、八雲工場食中毒事件を風化させ[24]、その教訓を活かすことができなかったことが2000年の食中毒事件の発生につながったと総括している。同じ黄色ブドウ球菌による事故が45年をへて繰り返されるまで、この事件が社の内外で顧みられる機会はほとんどなかった。

    • [20]1955年3月に東京都内の小学校9校の学校給食で食中毒が発生した
    • [21]原因は八雲工場製造の脱脂粉乳で、停電等による黄色ブドウ球菌の増殖と推定された
    • [22]給食者数7,638人のうち患者は1,579人である
    • [23]当時の社長佐藤貢が「全社員に告ぐ」を発した
    • [24]雪印メグミルクは八雲事件の風化が2000年の食中毒事件につながったと総括している

定番商品群の全国化と医薬・機能性への多角化

高度成長期の雪印乳業は、家庭の食卓に残る定番商品を次々に生み出した。1954年に『6Pチーズ』の大量生産化に踏み切り[25]、1962年に『雪印カマンベールチーズ』と『雪印スライスチーズ』、1963年に『雪印コーヒー』、1968年に『雪印ネオ マーガリンソフト』(現・ネオソフト)を発売した。[26]市乳では1972年に全国農協牛乳直販株式会社(のちの全国農協直販)が設立され[27]、農協系の牛乳販売網が形づくられた。1979年にはプレーンヨーグルト『雪印ナチュレ』、1980年には『ストリングチーズ[28]』(現・さけるチーズ)と、のちの主力品の多くがこの時期に出そろっている。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1954年に「6Pチーズ」を大量生産化した
    • [26]1962年にカマンベールチーズとスライスチーズ、1963年に雪印コーヒー、1968年にネオソフトを発売した
    • [27]1972年に全国農協牛乳直販株式会社が設立された
    • [28]1979年に「雪印ナチュレ」、1980年に「ストリングチーズ」を発売した

1980年代に入ると、乳で培った技術を土台に事業の幅を広げた。1983年には医薬品事業への進出をねらって生物科学研究所を設立し[29]、約130人の研究者を集めて研究体制を築いた。この立ち上げを主導した研究本部出身の片山純男氏は1993年6月に社長に就任し[30]、ウルグアイ・ラウンド交渉で迫る乳製品の輸入自由化に対し『打つべき手は打って、自由化をにらんだ一層の体制づくりに挑む』[引用元]と備えを語った。

  • 日経ビジネス 1993年11月22日号
    • [29]1983年に医薬品事業進出をねらい生物科学研究所を設立した
    • [30]片山純男は1993年6月に社長に就任した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1954年に「6Pチーズ」を大量生産化した
    • [26]1962年にカマンベールチーズとスライスチーズ、1963年に雪印コーヒー、1968年にネオソフトを発売した
    • [27]1972年に全国農協牛乳直販株式会社が設立された
    • [28]1979年に「雪印ナチュレ」、1980年に「ストリングチーズ」を発売した
  • 日経ビジネス 1993年11月22日号
    • [29]1983年に医薬品事業進出をねらい生物科学研究所を設立した
    • [30]片山純男は1993年6月に社長に就任した

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雪印メグミルクの沿革1925〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1925〜1949年北海道の酪農家がつくった製酪販売組合から戦時国策会社までの四半世紀有限責任 北海道製酪販売組合設立
バター製造開始
バター販売開始
「雪印」商標決定(「雪印北海道バター」誕生)
1950〜1999年集排法下で発足した雪印乳業の全国ブランド化と乳製品自由化への備え過度経済力集中排除法による分割と雪印乳業の発足

1950年6月、北海道酪農協同が過度経済力集中排除法にもとづき雪印乳業と北海道バターの2社に分割され、雪印乳業が発足した。同社は『雪印』の商標を引き継ぎ、設立2カ月後の同年8月に東京証券取引所・札幌証券取引所へ株式を上場した。

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★★★
雪印乳業、東京証券取引所・札幌証券取引所に株式上場
「雪印ビタミルク」発売
「6Pチーズ」大量生産化
「雪印カマンベールチーズ」発売
「雪印スライスチーズ」発売
「雪印コーヒー」発売
「雪印ネオ マーガリンソフト」発売
全国農協牛乳直販設立
全国農協直販に商号変更
プレーンヨーグルト「雪印ナチュレ」発売
「ストリングチーズ」発売
「とろけるスライス」発売
「雪印北海道バター(10gに切れてる)」発売
ジャパンミルクネット設立
「北海道カマンベール 切れてるタイプ」発売
2000〜2010年戦後最大の集団食中毒と牛肉偽装によるグループ解体、雪印メグミルクの発足雪印乳業食中毒事件★★
雪印食品牛肉偽装事件★★
市乳事業の分離と全農主導での再建受け入れ

2002年3月28日、雪印乳業は市乳(牛乳)事業を本体から切り離し、全農・全酪連の市乳2社と統合する再建策を発表した。本体はチーズ・バターなど乳製品事業に絞り、全農を筆頭株主に迎える。2003年1月、統合会社の日本ミルクコミュニティが発足した。

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★★★
日本ミルクコミュニティを設立★★
高野瀬忠明日本ミルクコミュニティとの経営統合と雪印メグミルクの発足

2009年1月27日、雪印乳業と日本ミルクコミュニティが統合契約を締結し、同年10月1日に共同持株会社の雪印メグミルクを設立して東京証券取引所市場第一部と札幌証券取引所に上場した。2002年に本体から切り離した市乳事業を、7年をへて同じ資本の下に戻す統合であった。

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★★★
2011〜2026年新生雪印メグミルクの構造改革と「食の持続性」への100年目の挑戦中野吉晴日本ミルクコミュニティと雪印乳業を吸収合併★★
中野吉晴新生「雪印メグミルク」が発足
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西尾啓治「MBPドリンク」発売
佐藤雅俊プライム市場に移行
佐藤雅俊雪印メグミルク 創業100周年(有限責任 北海道製酪販売組合設立から)
出典・参考

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