雪印メグミルク市乳事業の分離と全農主導での再建受け入れ

赤字の牛乳をどこへ預け、本体に何を残すか——雪印乳業が選んだ切り分け

時期 2002年3月
意思決定者(推定) 西紘平 雪印乳業社長
論点 赤字事業の切り離しと資本の受け入れ先
概要
2002年3月28日、雪印乳業は市乳(牛乳)事業を本体から切り離し、全農・全酪連の市乳2社と統合する再建策を発表した。本体はチーズ・バターなど乳製品事業に絞り、全農を筆頭株主に迎える。2003年1月、統合会社の日本ミルクコミュニティが発足した。
背景
2000年の食中毒事件からの再建途上で、2002年1月に子会社の雪印食品による牛肉偽装が発覚し、雪印ブランドの支持率は2月初めの50%から同月末に35%へ落ちた。もともと市乳事業は営業赤字が常態化しており、2001年度は推定400億円規模の営業赤字となる見通しであった。
内容
本体社員を4,500人から1,500人へ削減し、市乳・医薬品・育児品・アイスクリームなどを分離して提携先へ委ねる。全農と伊藤忠商事に計300億円規模の増資を求め、全農が筆頭株主となる。役員は株主総会後に全員が引責辞任した。
含意
当初西紘平社長が望んだネスレの資本参加は成らず、農林水産省が後押しした農協系主導の枠組みに落ち着いた。日本ミルクコミュニティは2003年度に132億円の営業赤字で債務超過に陥ったが、2004年度に黒字化し2006年に債務超過を解消した。雪印乳業本体も2003年度に黒字へ戻り復配した。
筆者の見解

預けた事業が戻るまでの6年

この判断で雪印乳業が実際に選んだのは、事業を売って現金に換えることではなく、赤字の事業を持てる相手に預け、本体を採算の取れる範囲まで縮めることであった。市乳を切り離せば本体の止血にはなるが、預けた先が非営利に近い生産者団体である以上、そこで採算が立つ保証はない。当時の誌面が繰り返し指摘したのもその点で、消費者に向いたブランド経営のノウハウは全農の側に乏しかった。ネスレを望んだ社長の判断が通らなかったことも含め、選択の幅はきわめて狭かった。

実際、日本ミルクコミュニティは初年度に債務超過へ落ち、雪印乳業の再建のほうが先に進んだ。ただし預けた事業は消えたわけではない。2009年10月、両社は経営統合して共同持株会社の雪印メグミルクを設立し、7年前に分けた牛乳と乳製品はひとつの企業グループに戻る。2002年3月28日に西紘平社長が語った「解体ではない」という言葉は、少なくとも事業の帰属という点では、6年後に裏づけを得た。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

再建途上で起きた二度目の不祥事

2000年6月の集団食中毒事件のあと、雪印乳業は全国8工場の閉鎖と従業員の15%にあたる1,000人の削減で立て直しを進め、収益は少しずつ戻りつつあった。その途上の2002年1月23日、子会社の雪印食品がBSE対策の国産牛肉買い上げ制度を悪用し、輸入牛肉を国産と偽って交付金を不正に受け取っていたことが報じられた。食中毒からわずか1年半での二度目の不祥事であり、今度は法を犯した詐欺事件であった[1][2]

販売への影響は速かった。雪印食品の売上は事件後に85%減り、同社は4月末に自主解散した。本体でも牛乳の売上が事件前より3割、全体で2割落ちた状態が続き、雪印の調査による消費者の支持率は2月初めの50%から同月末には35%まで下がっている。2002年3月期は繰延税金資産192億円の取り崩しも重なって連結当期純損失717億円を計上し、土地の再評価による差額金384億円で債務超過をかろうじて回避した[3][4]

採算が立たない牛乳事業という前提

販売不振とは別に、市乳事業そのものの採算が構造として悪かった。パック牛乳1リットルの製造原価は原料代や人件費を含めて約160円とされ、市場価格150円では1本あたり10円の赤字が出る。国内の飲用牛乳事業は各社とも営業利益率1%を確保するのがやっとで、チーズ・バターなどの乳製品が5%ほど稼ぐのとは対照的であった。2001年度の雪印乳業の市乳事業は、食中毒事件の直前期に比べ4割の減収となり、推定で400億円規模の営業赤字となる見通しであった[5][6]

収益の低い牛乳部門を抱えたままでは、外部から資本を入れることも難しかった。証券アナリストからは、牛乳部門を切り離さなければ外資系企業は資本参加に応じられないとの見方が出ていた。生乳は酪農家から全国11の指定生産者団体へ販売を委託する仕組みで一括して乳業各社に流れるため、需要が減っても供給が減らない。この仕組みのもとで牛乳の分社に踏み込めば生産規模の縮小につながると、酪農家や農林水産省の側は警戒していた[7][8]

決断

ネスレ案から全農案へ

2002年2月5日、雪印乳業は最初の再建方針を公表したが、示されたのはA4判1枚の項目書きにとどまり、市乳事業の扱いも資本提携の比率も決まっていなかった。このとき西紘平社長が想定していた資本の受け入れ先はネスレを第一候補とする食品メーカーであった。しかし自民党の農林関係議員などから異論が出てこの案は進まず、代わって浮上したのが全農であった。会見当日に再建策が骨抜きと見られると株価は急落し、一時は100円割れの水準まで下げている[9][10]

全農とはすでに市乳部門の一部地域で提携関係があり、全農・全酪連ともにメインバンクが農林中央金庫という共通点もあった。2月中旬、農水省に背中を押された農林中金の仲介で提携の話が持ち上がる。西社長は後日、赤字の市乳事業を引き受けてもらう以上、本体にも入ってもらうのが筋だと語っている。全農の側は、赤字部門を引き受ける見返りとして採算の高い乳製品事業での提携と筆頭株主の座を求めた[11][12]

3月28日の再建策と事業ごとの委譲

2002年3月28日、雪印乳業は再建策を発表した。市乳事業は全農・全酪連と統合し、本体にはチーズ・バターなどの乳食品事業と原料乳製品事業のみを残す。本体の売上高は当時の4分の1になり、社員は4,500人から1,500人へ減る。全農と伊藤忠商事を中心に300億円規模の増資を求め、全農にはその半分を引き受けてもらいたいと西社長は述べた。役員は6月の株主総会をもって全員が引責辞任すると表明している[13][14]

市乳以外の事業も本体を離れた。育児品はネスレ、医薬品は大塚製薬グループ、アイスクリームはロッテと、事業ごとに提携先を定めて共同出資会社などへ移す組み立てであった。伊藤忠商事は本体への出資に加え、冷凍食品会社アクリの株式を買い取り、食品卸の雪印アクセス株の2割超を握った。再建計画では2004年度に60億円の経常黒字を目標とした。西社長はこれを解体ではないと述べ、それぞれの事業が新しい相手と組んで各分野で首位を狙える企業群になると説明した[15][16]

結果

日本ミルクコミュニティの発足と両社の再建

2003年1月、雪印乳業から分離した市乳事業部門、全農系の全国農協直販、全酪連系のジャパンミルクネットの3者が統合し、日本ミルクコミュニティが発足した。出資は全農が4割で筆頭株主となり、雪印乳業3割、全酪連2割、農林中央金庫1割が続く。牛乳のシェアでは明治乳業を抜いて国内首位となり、3社のブランドに加えて「メグミルク」を新たに掲げた。統合を機に、3社合計で従業員の3分の1にあたる1,000人を削減している[17][18]

新会社の滑り出しは苦しかった。大量のテレビ広告で赤いパッケージの認知は広がったが、広告の終息とともに販売は落ち、2003年4〜9月の牛乳売上は計画を14%下回った。2003年度は132億円の営業赤字を計上して債務超過に陥り、社長は発足1年を待たずに交代した。その後は工場閉鎖と物流・営業拠点の再編で2004年度に黒字化し、2006年に農林中央金庫の支援で債務超過を解消した。一方の雪印乳業も2003年度に黒字へ戻り、チーズ事業を軸に復配まで果たしている[19][20]

出典・参考
  • 日経ビジネス 2002年2月11日号「“官製”牛乳事業の重い足かせ 徹底追及雪印」
  • 日経ビジネス 2002年4月22日号「敗軍の将、兵を語る 西紘平氏[雪印乳業社長]」
  • 週刊東洋経済 2001年8月11日号「再生戦略 雪印乳業 信頼回復と安売り脱却 名門復活への“力走”」
  • 週刊東洋経済 2002年3月9日号「雪印食品の解散も焼け石に水 不祥事続く雪印乳業の閉塞感」
  • 週刊東洋経済 2002年4月13日号「全農も提携に“及び腰” 雪印の解体・再生の行方」
  • 週刊東洋経済 2002年5月11日号「経営分析 雪印乳業 全農傘下で再建なるか 真の再生には課題山積」
  • 週刊東洋経済 2002年6月15日号「雪印乳業 巨額赤字で金融支援要請へ」
  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「雪印農協連合が誕生 新ブランドも迫力不足 問われる非牛乳事業の実力」
  • 週刊東洋経済 2003年12月6日号「3rdメグミルク迷走 八方塞がりの「国策牛乳」 寄り合い所帯に不協和音」
  • 週刊東洋経済 2009年2月7日号「日本ミルクと経営統合 雪印、乳業回帰の茨道」
  • 雪印乳業「株式移転計画の作成に関するお知らせ」(2009年4月9日)
  • 雪印メグミルク公式サイト「『2つの事件』の概要と『雪印八雲工場食中毒事件』」

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