森永乳業 の歴史

更新: Author:

創業 1917年
創業者 森永太一郎
創業地 神奈川県逗子町
創業
1917年9月、森永製菓が千葉県安房郡の愛国練乳合資会社を買収し、その傍系会社として日本煉乳を資本金30万円で設立した。初代社長は松崎半三郎氏で、翌1918年には静岡県田方郡へ錦田工場を開設している。日本煉乳は1920年7月に森永製菓へ合併されて畜産部となり、同じ年の末に錦田工場で日本最初の機械装置による粉乳製造が始まった。菓子と乳業を切り離す判断で1927年9月に森永煉乳が資本金150万円で発足し、社長には森永太一郎氏が就任する。1941年5月に森永乳業へ改称したものの、1942年10月には再び森永製菓へ合併された。現在の法人は、目黒工場の返還を受けて1949年4月13日に資本金1000万円で設立され、独立した法人としては三度目にあたる。
決断
事件の責任の取り方が、そのまま商品の作り方を決めた。1955年、徳島工場で乳質安定剤に混入したヒ素により、死者131人・中毒患者12,159人の粉乳中毒事件が起きる。大野勇氏は1956年春に専務を辞任したうえで、信用の回復を研究に求め、北海道大学の前野正久博士を研究所長に招いた。前野氏はガラクトース入りの森永Gドライを開発し、1957年には東京工場で日本の乳業として初の大量生産方式へ移行している。後遺症の公表と三者会談を経た1974年4月には全面出資で恒久救済の財団法人ひかり協会を設立した。同じ研究の系譜から1969年採取のビフィズス菌BB536が1971年に日本で初めて乳製品へ応用され、1977年6月には森永ビヒダスを発売してビフィズス菌の独自路線へ進んだ。事件のあとに置いた研究の設備が、1993年の特定保健用食品第1号まで続く品目を生んだ。
現況
売上は10年前を下回るのに、営業利益は5倍になった。2026年3月期の連結売上高は5,714億円で、2015年3月期の5,948億円を下回る。一方の営業利益は68億円から344億円へ増え、営業利益率は1.1%から6.0%へ上がった。報告セグメントは現在も食品事業の単一で、売上5,474億円・セグメント利益458億円を計上する。地域別では日本4,840億円に対し海外が874億円、比率は15.3%となり、10年ビジョンに掲げた2029年3月期15%以上へ3年早く到達した。2023年2月の米Turtle Island Foodsを取得して植物性食品へ参入したを含め、2021年以降に集中させた買収が海外の売上を押し上げている。
競合
外資との提携が、競争相手ではなく国の制度を動かした。1970年2月、森永乳業は米クラフト社と提携し、チーズ専業のエムケーチーズを設立した。国内酪農との調整をめぐって雪印乳業と生産者団体が強く反対し、その結果ナチュラルチーズの関税割当制度という国産優遇の仕組みが生まれている。原料の側では1940年に北海道の全工場と集乳権を北海道興農公社へ現物出資しており、集中排除法による三分割の指令を二分割へ戻した雪印系に対して集乳では劣位に置かれた。乳業3社のうち森永だけが菓子会社を母体に持ち、原料ではなく製品の側から乳業へ入っている。この出自が、集乳量ではなく菌と機能性素材で棚を分ける現在の位置を決めた。
森永乳業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 森永製菓との分離と合併を繰り返した乳業部門 (1917年〜)

輸入練乳の代替として発足した日本煉乳

1917年9月、森永製菓は千葉県安房郡にあった愛国練乳合資会社を買収し[1]、その傍系会社として日本煉乳株式会社を東京市芝区田町に資本金30万円で設立した[2][3]。森永乳業の製酪事業は、この千葉県での酪農起業にさかのぼる[4]。初代社長には松崎半三郎氏が就き[5]、乳業部門の育成にあたった。翌1918年には静岡県田方郡に錦田工場を開設した[6]が、この頃は千葉県で原料乳の争奪が激しく、1919年3月に日本煉乳は吉尾・勝山の両工場を房総練乳へ統合した[7]。1919年5月には小缶煉乳の森永ミルクを発売した[8]。その後も併合と分離を繰り返しながら日本煉乳は規模を広げた[9]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1917年9月 森永製菓が愛国練乳合資会社を買収し傍系会社日本煉乳を設立
    • [2]日本煉乳の設立地 東京市芝区田町・資本金30万円
    • [5]日本煉乳の初代社長 松崎半三郎
    • [6]1918年 静岡県田方郡に錦田工場を開設
    • [7]1919年3月 千葉県の原料乳争奪を受け吉尾・勝山両工場を房総練乳へ統合
    • [9]併合と分離を繰り返しながら日本煉乳が規模を拡大
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1917年9月 日本煉乳株式会社設立
    • [8]1919年5月 小缶煉乳森永ミルクを発売
  • 証券 1954年(10)(63)
    • [4]森永乳業の製酪事業は1917年に千葉県で酪農を興した日本煉乳に始まる

日本煉乳は1920年7月に森永製菓へ合併され、同社の畜産部となった[10]。同じ1920年末、錦田工場で日本最初の機械装置による粉乳製造が始まり[11]、1921年11月から森永ドライミルクとして売り出した[12]。育児用粉乳の国産化はここから始まり、翌1922年末には傍系会社を含む一日平均受乳量が100石に達した[13]。1923年9月の関東大震災では本社と工場の被害は軽微で、日比谷公園と芝公園でのミルク接待[14]、芝田町・大崎両工場での近隣者と通行人へのミルク接待、三島工場による箱根越えの人々への接待とトラックでの老幼輸送を実施した[15]。大正末期の半期売上高は130万円強[16]となった。

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1920年7月 森永製菓と合併し同社畜産部となる
    • [12]1921年11月 森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [11]1920年末 錦田工場で日本最初の機械装置による粉乳製造を開始
    • [13]1922年末 傍系会社を含む一日平均受乳量100石
    • [14]関東大震災での本社・工場の被害は軽微・日比谷公園と芝公園でのミルク接待
    • [15]関東大震災での救済 三島工場による箱根越えの人々への接待とトラックによる老幼輸送
    • [16]大正末期の半期売上高 130万円強

1924年には平塚、北海道奈井江の空知、北海道常呂郡の野付牛の各工場が完成[17]し、粉乳と練乳の大規模な製造が始まった。九州でのドライミルク販売行脚を終えた社員は、ただちに北海道の市場開拓へ向かった[18]。関東大震災の直後はキャラメルに切符を渡すほどの好況だったが、消費インフレが去ると売れ行きは急落した[19]。行き詰まりを打開するためミルクの販売活動隊が組織され、活動写真を映しながらサンプルケースを持って各地を売り歩いた[20]。隊は運転手が映写技師を兼ね、一人が国産奨励輸入防遏の演説をし、もう一人が無声映画の活弁をつとめる三人一組[21]で、愛知を皮切りに熊本・鹿児島・宮崎を回った[22]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [17]1924年 平塚・空知(北海道奈井江)・野付牛(北海道常呂郡)の各工場が完成し粉乳・練乳の大規模製造を開始
    • [18]九州のドライミルク販売行脚を終えたのち北海道の市場開拓へ出発
    • [19]関東大震災直後の消費インフレとその反動での売れ行き急落
    • [20]打開策としてのミルク販売活動隊の組織と活動写真による行商
    • [21]販売活動隊の構成 運転手兼映写技師・国産奨励輸入防遏の演説・無声映画の活弁の三人一組
    • [22]販売活動隊の巡回先 愛知・熊本・鹿児島・宮崎
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1917年9月 森永製菓が愛国練乳合資会社を買収し傍系会社日本煉乳を設立
    • [2]日本煉乳の設立地 東京市芝区田町・資本金30万円
    • [5]日本煉乳の初代社長 松崎半三郎
    • [6]1918年 静岡県田方郡に錦田工場を開設
    • [7]1919年3月 千葉県の原料乳争奪を受け吉尾・勝山両工場を房総練乳へ統合
    • [9]併合と分離を繰り返しながら日本煉乳が規模を拡大
    • [11]1920年末 錦田工場で日本最初の機械装置による粉乳製造を開始
    • [13]1922年末 傍系会社を含む一日平均受乳量100石
    • [14]関東大震災での本社・工場の被害は軽微・日比谷公園と芝公園でのミルク接待
    • [15]関東大震災での救済 三島工場による箱根越えの人々への接待とトラックによる老幼輸送
    • [16]大正末期の半期売上高 130万円強
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1917年9月 日本煉乳株式会社設立
    • [8]1919年5月 小缶煉乳森永ミルクを発売
    • [10]1920年7月 森永製菓と合併し同社畜産部となる
    • [12]1921年11月 森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売
  • 証券 1954年(10)(63)
    • [4]森永乳業の製酪事業は1917年に千葉県で酪農を興した日本煉乳に始まる
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [17]1924年 平塚・空知(北海道奈井江)・野付牛(北海道常呂郡)の各工場が完成し粉乳・練乳の大規模製造を開始
    • [18]九州のドライミルク販売行脚を終えたのち北海道の市場開拓へ出発
    • [19]関東大震災直後の消費インフレとその反動での売れ行き急落
    • [20]打開策としてのミルク販売活動隊の組織と活動写真による行商
    • [21]販売活動隊の構成 運転手兼映写技師・国産奨励輸入防遏の演説・無声映画の活弁の三人一組
    • [22]販売活動隊の巡回先 愛知・熊本・鹿児島・宮崎

森永煉乳の分離独立と北海道興農公社への統合

大正末から昭和初年の森永製菓は、増資と設備投資が経営を圧迫し、世界的な不況が重なって苦境にあった[23]。この二重苦のなかで菓子と乳業を切り離す判断が下され[24]、1927年4月には滋養飲料の森永コーラスを新発売して飲用牛乳普及の大キャンペーンを打ち[25]、同年9月15日に森永煉乳株式会社が資本金150万円で発足した[26][27]。社長には森永太一郎氏、専務には松崎半三郎氏、常務には畜産部長だった中村芳三氏と三菱銀行頭取瀬下清氏の推挙による伊藤律太郎氏[28]が就いた。野付牛・空知・三島・平塚・福崎・伊万里の六工場[29]を製菓から継承した。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [23]大正末〜昭和初年の森永製菓の苦境 増資・設備投資による圧迫と世界的不況の二重苦
    • [24]二重苦に悩む森永製菓による乳業の分離独立という判断
    • [26]1927年9月15日 森永煉乳株式会社の設立
    • [28]森永煉乳の役員 社長森永太一郎・専務松崎半三郎・常務中村芳三・常務伊藤律太郎(三菱銀行頭取瀬下清の推挙)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [25]1927年4月 滋養飲料 森永コーラスを新発売し飲用牛乳普及の大キャンペーンを実施
    • [27]1927年9月 森永製菓から森永煉乳を分離独立させ資本金150万円で発足
    • [29]森永煉乳が継承した六工場 野付牛・空知・三島・平塚・福崎・伊万里

独立後の森永煉乳は缶詰の煉乳と粉乳を主力としたが、1929年末に平塚工場で瓶詰め牛乳の製造を始めたのを機に牛乳部を開設[30]し、翌1930年3月以降は東京で初めての市乳を売り出した[31]。品目は1929年12月に森永牛乳[32]、1933年9月に森永チーズ[33]、1937年7月に森永ヨーグルト[34]と広がり、戦前のうちに液体乳・チーズ・発酵乳まで揃った。1933年半ばからはスイス・イギリス・オランダなど酪農先進国から新鋭機械[35]を輸入した。1936年に着工し翌1937年に完成した森永東北農産工業は、福島に地元資本を加えて設立した牛乳・肉・果物の缶詰工場[36]で、北海道酪連の統制で北海道に工場を建てられなくなったことと、東北農村の振興を助ける狙いから場所を選んだ[37]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [30]1929年末 平塚工場でのビン詰め牛乳製造開始と牛乳部の開設
    • [31]1930年3月以降 東京で初めての市乳を発売
    • [35]1933年半ば以降 スイス・イギリス・オランダなど酪農先進国からの新鋭機械導入
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1929年12月 森永牛乳を発売
    • [33]1933年9月 森永チーズを発売
    • [34]1937年7月 森永ヨーグルトを発売
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [36]1936年着工・1937年完成の森永東北農産工業(福島)と牛乳・肉・フルーツ缶詰の3設備
    • [37]東北を選んだ理由 北海道は酪連の統制で工場建設ができず、東北農村振興の一助とするため

1940年、森永は北海道のすべての工場・集乳権・販売権を北海道興農公社へ[38]、東京の市乳事業を東京乳業へ現物出資した[39]。当時の森永と明治の生産比率は北海道7・内地3[40]で、両社とも強く難色を示したが、戸塚北海道長官からの申し入れを受けた松崎半三郎社長の決断で合同が決まった[41]。公社は1941年4月1日に発足し、1950年に集中排除法を受けて組織が変わるまで続いた[42]。1941年5月には森永煉乳を森永乳業株式会社へ改称した[43]が、その翌1942年10月には森永製菓に合併されて生産第二部(乳業部)となり[44]、1943年11月には森永製菓自体が森永食糧工業株式会社へ改称した[45]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [38]1940年 北海道の全工場・集乳権・販売権を北海道興農公社へ現物出資
    • [40]当時の明治・森永の生産比率 北海道7・内地3
    • [41]戸塚北海道長官の申し入れと松崎半三郎社長の決断による合同の決定
    • [42]北海道興農公社の法律上の開始日 1941年4月1日・1950年の集中排除法による組織変更まで存続
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [39]戦時統制の強化に伴い東京の市乳事業を東京乳業に現物出資
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1941年5月 森永煉乳を森永乳業株式会社に改称
    • [44]1942年10月 森永製菓と合併
    • [45]1943年11月 森永製菓を森永食糧工業株式会社に改称
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [23]大正末〜昭和初年の森永製菓の苦境 増資・設備投資による圧迫と世界的不況の二重苦
    • [24]二重苦に悩む森永製菓による乳業の分離独立という判断
    • [26]1927年9月15日 森永煉乳株式会社の設立
    • [28]森永煉乳の役員 社長森永太一郎・専務松崎半三郎・常務中村芳三・常務伊藤律太郎(三菱銀行頭取瀬下清の推挙)
    • [36]1936年着工・1937年完成の森永東北農産工業(福島)と牛乳・肉・フルーツ缶詰の3設備
    • [37]東北を選んだ理由 北海道は酪連の統制で工場建設ができず、東北農村振興の一助とするため
    • [38]1940年 北海道の全工場・集乳権・販売権を北海道興農公社へ現物出資
    • [40]当時の明治・森永の生産比率 北海道7・内地3
    • [41]戸塚北海道長官の申し入れと松崎半三郎社長の決断による合同の決定
    • [42]北海道興農公社の法律上の開始日 1941年4月1日・1950年の集中排除法による組織変更まで存続
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [25]1927年4月 滋養飲料 森永コーラスを新発売し飲用牛乳普及の大キャンペーンを実施
    • [27]1927年9月 森永製菓から森永煉乳を分離独立させ資本金150万円で発足
    • [29]森永煉乳が継承した六工場 野付牛・空知・三島・平塚・福崎・伊万里
    • [30]1929年末 平塚工場でのビン詰め牛乳製造開始と牛乳部の開設
    • [31]1930年3月以降 東京で初めての市乳を発売
    • [35]1933年半ば以降 スイス・イギリス・オランダなど酪農先進国からの新鋭機械導入
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1929年12月 森永牛乳を発売
    • [33]1933年9月 森永チーズを発売
    • [34]1937年7月 森永ヨーグルトを発売
    • [43]1941年5月 森永煉乳を森永乳業株式会社に改称
    • [44]1942年10月 森永製菓と合併
    • [45]1943年11月 森永製菓を森永食糧工業株式会社に改称
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [39]戦時統制の強化に伴い東京の市乳事業を東京乳業に現物出資

戦後の独立再設立と1954年の東証上場

森永製菓の乳業部は1947年6月に森永アイスクリームを発売[46]した。戦後の経済回復に伴い独立した形で製酪業を立て直す必要が生じ、森永はまず東京乳業から目黒工場の返還を受け[47]、1949年4月13日に資本金1000万円で森永乳業株式会社を設立した[48][49]。社長には松崎半三郎氏が就いた[50]。当初は目黒工場での市乳生産で発足し[51]、同年9月に資本金を7000万円へ増額、同年10月には森永食糧工業から改称した森永製菓の乳業部を営業ごと継承した[52]。1950年10月には森永製菓から賃借していた工場設備資産を譲り受け[53]、この間に北海道をはじめ各地で工場を買収または新設して総合的な乳製品事業を始めた[54]

  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1947年6月 森永アイスクリームを発売
    • [49]1949年4月 森永乳業株式会社設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [47]経済の回復に伴い独立形態で製酪業の復興に当たる必要が生じ、東京乳業から目黒工場の返還を受けた
    • [48]1949年4月13日 資本金1000万円で森永乳業株式会社を設立
    • [50]1949年設立時の社長 松崎半三郎
    • [51]当初は目黒工場における市乳の生産をもって発足
    • [52]1949年9月 資本金7000万円へ増資・同年10月 森永製菓乳業部の営業一切を継承
    • [53]1950年10月 森永製菓から賃借中の工場設備資産を譲受
    • [54]北海道はじめ各地での工場の買収・新設による総合的乳製品事業の開始

1954年4月1日に資本金は4億6500万円となり[55]、同年9月1日に東京証券取引所へ株式を上場した[56]。上場時点で工場は24を数え、六大都市を中心とする8工場が市乳とアイスクリームを、全国の酪農地帯にある地方16工場が乳製品を作っていた[57]。従業員は1442名で[58]、社長は森永太平氏、専務は大野勇氏であった[59]。生産原価金額でみた製品構成は乳製品が71%を占め、うち粉乳が42%強、煉乳が20%、バターが8%[60]で、粉乳の比重の高さから『ドライの森永』と呼ばれた[61]。育児用のドライミルクは全国生産の約半分[62]を占めていた。

  • 証券 1954年(10)(63)
    • [55]1954年4月1日 資本金4億6500万円
    • [57]1954年時点の工場24・六大都市中心の8工場が市乳とアイスクリーム・地方16工場が乳製品
    • [58]1954年時点の従業員1442名
    • [59]1954年時点の社長 森永太平・専務 大野勇
    • [60]生産原価金額比の製品構成 乳製品71%・粉乳42%強・煉乳20%・バター8%
    • [61]粉乳の比重の高さから業界大手4社中で「ドライの森永」と称された
    • [62]育児用ドライミルクは全国生産の約半分を占めた
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1954年9月 東京証券取引所に株式上場

森永は1940年11月にビタミン入りドライミルクを創製発売[63]し、ビタミン強化粉乳の先駆けとなった。戦後の1952年には市乳の新製品としてビタミン入りホモ牛乳を売り出した[64]。平塚・松本の両工場には超高速度粉乳製造装置のロケットミルクプラントを据えて育児用粉乳の量産に成功し[65]、1953年12月には母乳と均質のビタミン入りベータドライミルクを完成させた[66]。乳糖を加熱してβ乳糖に転化させたものを加え、従来の粉乳では3〜4割の乳児に出ていた白い便を黄色に変える[67]製品であった。1955年3月期の売上高は45億円に達し、工場は全国27を数えた[68]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [63]1940年11月 ビタミン入ドライミルクを創製発売
    • [64]1952年 市乳の新製品としてビタミン入ホモ牛乳を発売
    • [65]平塚・松本両工場へのロケットミルクプラント(超高速度粉乳製造装置)設置と育児用粉乳の量産成功
    • [66]1953年12月 ビタミン入ベータドライミルク(母乳と均質)の製造完成
    • [68]1955年3月期 売上高45億円・全国27工場
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [67]βドライの原理 乳糖を加熱しβ乳糖へ転化させたものを加え、従来の粉乳で3〜4割の乳児に出ていた白い便を黄色に変える仕組み
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1947年6月 森永アイスクリームを発売
    • [49]1949年4月 森永乳業株式会社設立
    • [56]1954年9月 東京証券取引所に株式上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
    • [47]経済の回復に伴い独立形態で製酪業の復興に当たる必要が生じ、東京乳業から目黒工場の返還を受けた
    • [48]1949年4月13日 資本金1000万円で森永乳業株式会社を設立
    • [50]1949年設立時の社長 松崎半三郎
    • [51]当初は目黒工場における市乳の生産をもって発足
    • [52]1949年9月 資本金7000万円へ増資・同年10月 森永製菓乳業部の営業一切を継承
    • [53]1950年10月 森永製菓から賃借中の工場設備資産を譲受
    • [54]北海道はじめ各地での工場の買収・新設による総合的乳製品事業の開始
    • [63]1940年11月 ビタミン入ドライミルクを創製発売
    • [64]1952年 市乳の新製品としてビタミン入ホモ牛乳を発売
    • [65]平塚・松本両工場へのロケットミルクプラント(超高速度粉乳製造装置)設置と育児用粉乳の量産成功
    • [66]1953年12月 ビタミン入ベータドライミルク(母乳と均質)の製造完成
    • [68]1955年3月期 売上高45億円・全国27工場
  • 証券 1954年(10)(63)
    • [55]1954年4月1日 資本金4億6500万円
    • [57]1954年時点の工場24・六大都市中心の8工場が市乳とアイスクリーム・地方16工場が乳製品
    • [58]1954年時点の従業員1442名
    • [59]1954年時点の社長 森永太平・専務 大野勇
    • [60]生産原価金額比の製品構成 乳製品71%・粉乳42%強・煉乳20%・バター8%
    • [61]粉乳の比重の高さから業界大手4社中で「ドライの森永」と称された
    • [62]育児用ドライミルクは全国生産の約半分を占めた
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [67]βドライの原理 乳糖を加熱しβ乳糖へ転化させたものを加え、従来の粉乳で3〜4割の乳児に出ていた白い便を黄色に変える仕組み

1955年の粉乳中毒事件と補償交渉

1955年夏、森永の育児用粉乳による中毒事件が起きた[69]。徳島工場では乳質安定剤の第二リン酸ソーダを1950年7月から試験的に、1953年4月からは本格的に使い始めていた[70]が、事前に品質検査をすることもなく目分量で使っていた[71]。1955年4月納入分は表示こそ第二リン酸ソーダだったものの、実際はヒ素を含む別物で[72]、日本軽金属のアルミニウム製造で生じた廃物が何段階かの業者を経て工場へ持ち込まれたものであった[73]。静岡県は事件の約10か月前の1954年10月に、この廃物が取締法上の毒物にあたるかを国へ照会していたが、回答を待たずに流通[74]していた。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [69]1955年夏 森永の育児粉乳による中毒事件の発生
    • [72]納入品は表示は第二リン酸ソーダだがヒ素を含む全く別の物であった
    • [73]原料は日本軽金属のアルミニウム製造で生じた廃物で何段階かの業者を経て工場へ持ち込まれた
    • [74]1954年10月 静岡県による国への毒物該当性照会と回答を待たない流通
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [70]森永は1950年7月から第二リン酸ソーダを試験的に、1953年4月以降は本格的に使用
    • [71]事前の品質検査をせず目分量で工業用薬剤を使用

1955年8月24日、岡山大学医学部の浜本英次教授が岡山県衛生部の要請で記者会見を開き[75]、岡山県衛生部は徳島工場製の育児粉乳が原因であると発表した[76]。同工場の供給地域は主に関西以西で、地域が広かったため被害は広がった[77]。厚生省の1956年2月集計で死者131人・中毒患者1万2159人にのぼり[78]、1955年4月納入分の第二リン酸ソーダには有害水準の0.3%を超える重量比4.2〜6.3%のヒ素が含まれていた[79]。従業員組合は昇給とボーナスを辞退し、仕入先は支払いを延ばし[80]、原料乳代の手形は2か月遅れとなった。

  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [75]1955年8月24日 岡山大学医学部小児科教授 浜本英次が岡山県衛生部の要請で記者会見
    • [78]厚生省1956年2月集計 死者131人・中毒患者1万2159人
    • [79]1955年4月納入分のヒ素含有量 重量比4.2〜6.3%(有害水準0.3%を大幅に超過)
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [76]1955年8月24日 岡山県衛生部が徳島工場製造の育児粉乳を原因と発表
    • [77]徳島工場の供給地域は主として関西以西で地域が広く被害が拡大
    • [80]従業員組合の昇給・ボーナス辞退、仕入先の支払い延期、原料乳代の2か月遅れ手形

補償の話し合いは難航し、森永は厚生省へ斡旋を依頼して白紙委任を誓約した[81]。法律家と医師ら5人からなる五人委員会が発足し[82]、日航木星号事件・国鉄桜木町・洞爺丸・紫雲丸の各事件の補償例を参考に補償意見書を作成した[83]。この意見に沿って話し合いが続き、行政と医療機関による事後の検診を行うことも定められて、1956年に厚生省の指示で実施された[84]。刑事責任については徳島工場の責任者2人が起訴され、一審は無罪となった[85]。行政は事件の公表直後に乳等省令を改め、1957年には食品衛生法を大幅に改正して食品添加物規制を強化し、1960年以降は食品添加物公定書を刊行した[86]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [81]補償交渉の難航と厚生省への斡旋依頼・白紙委任の誓約
    • [82]法律家・医師ら5人による五人委員会の発足
    • [83]補償意見書 日航木星号事件・国鉄桜木町・洞爺丸・紫雲丸の各補償例を参考
    • [84]1956年 厚生省の指示で行政・医療機関による事後検診を実施
    • [85]徳島工場の責任者2人が起訴され一審は無罪
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [86]事件後の行政対応 乳等省令の改正・1957年の食品衛生法大幅改正による食品添加物規制強化・1960年以降の食品添加物公定書刊行
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [69]1955年夏 森永の育児粉乳による中毒事件の発生
    • [72]納入品は表示は第二リン酸ソーダだがヒ素を含む全く別の物であった
    • [73]原料は日本軽金属のアルミニウム製造で生じた廃物で何段階かの業者を経て工場へ持ち込まれた
    • [74]1954年10月 静岡県による国への毒物該当性照会と回答を待たない流通
    • [76]1955年8月24日 岡山県衛生部が徳島工場製造の育児粉乳を原因と発表
    • [77]徳島工場の供給地域は主として関西以西で地域が広く被害が拡大
    • [80]従業員組合の昇給・ボーナス辞退、仕入先の支払い延期、原料乳代の2か月遅れ手形
    • [81]補償交渉の難航と厚生省への斡旋依頼・白紙委任の誓約
    • [82]法律家・医師ら5人による五人委員会の発足
    • [83]補償意見書 日航木星号事件・国鉄桜木町・洞爺丸・紫雲丸の各補償例を参考
    • [84]1956年 厚生省の指示で行政・医療機関による事後検診を実施
    • [85]徳島工場の責任者2人が起訴され一審は無罪
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
    • [70]森永は1950年7月から第二リン酸ソーダを試験的に、1953年4月以降は本格的に使用
    • [71]事前の品質検査をせず目分量で工業用薬剤を使用
    • [75]1955年8月24日 岡山大学医学部小児科教授 浜本英次が岡山県衛生部の要請で記者会見
    • [78]厚生省1956年2月集計 死者131人・中毒患者1万2159人
    • [79]1955年4月納入分のヒ素含有量 重量比4.2〜6.3%(有害水準0.3%を大幅に超過)
    • [86]事件後の行政対応 乳等省令の改正・1957年の食品衛生法大幅改正による食品添加物規制強化・1960年以降の食品添加物公定書刊行

事件後の再建と大量生産方式への転換

1955年の森永は売上・利益とも業界1位[87]にあった。中毒事件による打撃のあと、大野勇氏は中断していた工場建設を決意し、破産整理中だった日本建鉄の土地を取得して1956年に葛飾で東京工場を着工し、翌1957年に完成させた[88]。敷地は2万3500坪で、当時日本一とされた明治の烏山工場の4000坪を上回り[89]、市乳工場と乳製品工場を分けない総合工場とした[90]。社会的信用を取り戻すため北海道大学の前野正久博士を研究所長に招き[91]大野勇氏は1956年春に専務を辞任して責任を明らかにした[92]。招聘には紆余曲折があり、前野正久氏は再び教壇に戻れないことも承知で移った[93]

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [87]1955年(昭和30年)に売上・利益とも業界1位
    • [88]1956年着工・1957年完成の葛飾の東京工場(破産整理中の日本建鉄の土地を取得)
    • [89]東京工場の敷地2万3500坪・当時日本一の明治烏山工場は4000坪
    • [90]市乳工場・乳製品工場に分けない総合工場としたこと
    • [91]北海道大学の前野正久博士を研究所長に招聘
    • [92]1956年春 大野勇の専務辞任による責任の明確化
    • [93]前野正久は再び教壇に戻れないことを承知で森永へ移った

1956年の欧米視察で得た議論を手がかりに、前野正久氏はガラクトース入りの森永Gドライを独自に開発した[94]。1957年から1958年ごろには東京工場で大量生産方式を採り、日本の乳業では最初の試み[95]となった。原料生乳の産地が各地に点在する日本で1か所に大規模な生産設備を持つことは業界も関係官庁も疑問視していたが、森永はこれを実行して軌道に乗せた[96]。北海道では十勝の浦幌工場を町会議長の木材工場拡張という名目で建て[97]、札幌の恵庭には市乳工場を正面から建てて雪印と競合した[98]。山形の日本製乳は東急傘下から譲り受け、四国では玉藻食品を買って[99]四国森永乳業とした。

  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [94]1956年の欧米視察での議論を手がかりに前野正久がガラクトース入りの森永Gドライを独自開発
    • [97]十勝の浦幌工場を町会議長の木材工場拡張の名目で建設
    • [98]札幌の恵庭に市乳工場を正面から建設し雪印と競合
    • [99]山形の日本製乳の東急傘下からの譲受と四国の玉藻食品買収
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻5号(浪岡彌一郎)
    • [95]1957〜1958年ごろ 東京工場で大量生産方式を採用(日本の乳業で最初)
    • [96]1か所に大規模な生産設備を持つことを業界も関係官庁も疑問視するなか実行し軌道に乗せた
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
    • [87]1955年(昭和30年)に売上・利益とも業界1位
    • [88]1956年着工・1957年完成の葛飾の東京工場(破産整理中の日本建鉄の土地を取得)
    • [89]東京工場の敷地2万3500坪・当時日本一の明治烏山工場は4000坪
    • [90]市乳工場・乳製品工場に分けない総合工場としたこと
    • [91]北海道大学の前野正久博士を研究所長に招聘
    • [92]1956年春 大野勇の専務辞任による責任の明確化
    • [93]前野正久は再び教壇に戻れないことを承知で森永へ移った
    • [94]1956年の欧米視察での議論を手がかりに前野正久がガラクトース入りの森永Gドライを独自開発
    • [97]十勝の浦幌工場を町会議長の木材工場拡張の名目で建設
    • [98]札幌の恵庭に市乳工場を正面から建設し雪印と競合
    • [99]山形の日本製乳の東急傘下からの譲受と四国の玉藻食品買収
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻5号(浪岡彌一郎)
    • [95]1957〜1958年ごろ 東京工場で大量生産方式を採用(日本の乳業で最初)
    • [96]1か所に大規模な生産設備を持つことを業界も関係官庁も疑問視するなか実行し軌道に乗せた

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

森永乳業の沿革1917〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1917〜1943年森永製菓との分離と合併を繰り返した乳業部門日本煉乳設立
小缶煉乳森永ミルクを発売
森永製菓と合併
森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売
森永煉乳を設立
森永牛乳を発売
森永煉乳を森永乳業に商号変更
森永製菓と合併
1944〜1960年三度目の独立、東証上場と粉乳中毒事件からの再建森永アイスクリームを発売
松崎半三郎森永乳業設立★★
森永太平東京証券取引所に株式上場
1961〜1993年量産設備の拡張、恒久救済の確立とビフィズス菌への集中大野勇クリープ(粉末クリーム)を発売
大野勇名古屋市乳工場を新設
大野勇東京多摩工場を新設
大野勇森永商事の乳製品販売部門を譲り受け
大野勇エムケーチーズを設立
大野勇大和工場・村山工場を新設
大野勇サンキストグローワーズ社と商標の使用契約を締結
大野勇森永ヒ素ミルク中毒事件と恒久救済体制の確立

1955年、森永乳業の徳島工場で製造された乳児用粉ミルクに工業用薬剤由来のヒ素が混入し、西日本を中心に死者131人・中毒患者1万2159人(1956年2月・厚生省発表)を出した食中毒事件。14年の空白を経た1973年、会社は責任を受諾し、翌1974年に恒久救済機関ひかり協会を全面出資で設立して被害者を生涯支える体制を築いた判断である。

詳細を読む
★★★
稲生平八ビヒダス発売とビフィズス菌による独自路線

1977年6月、森永乳業がビフィズス菌を用いた乳製品乳酸菌飲料『森永ビヒダス』を発売し、明治・雪印との規模競争を避けて菌種で差別化する独自路線を選んだ判断。1969年に発見したヒト由来のビフィズス菌BB536を、1971年に日本で初めて乳製品へ応用し、機能性という新しい土俵を業界に先んじて開いた。

詳細を読む
★★★
門前貢ロングライフのハンディパック乳飲料(ピクニック)を発売
門前貢リプトン社と商標の使用契約を締結
門前貢用契約を締結
門前貢Morinaga Nutritional Foods, Inc.を設立
大野晃研究・情報センターを開設
大野晃マウントレーニア・カフェラッテ(カップ入り乳飲料)発売
大野晃低リンミルクL.P.Kが特定保健用食品の第1号として厚生省から許可を取得
1994〜2026年国内市場の縮小と海外M&Aによる領域の拡張古川紘一全国の販売子会社9社をデイリーフーズに吸収合併
古川紘一神戸工場を新設
古川紘一東北森永乳業設立
古川紘一別海工場チーズ新棟稼動
古川紘一沖縄森永乳業新工場(中頭郡西原町)稼動
古川紘一MILEI GmbHを完全子会社化
宮原道夫浦幌乳業新棟稼働
宮原道夫森永北陸乳業福井工場にて菌末の製造を開始
宮原道夫Morinaga Nutritional Foods (Asia Pacific) Pte.Ltd.を設立
宮原道夫パキスタンに同国2社と合弁会社NutriCo Morinaga(Private)Limitedを設立
宮原道夫Elovi Vietnam Joint Stock Companyを子会社化
大貫陽一NutriCo Morinaga(Private)Limited(パキスタン)を子会社化
大貫陽一大貫体制での海外M&A集中と米国植物性食品への参入

2021年から2023年にかけて、森永乳業が大貫陽一社長のもとでベトナム・パキスタン・米国の企業買収を相次いで実行し、育児用ミルクと植物性食品へ事業領域を広げた経営判断。2023年2月には米国の植物由来食品メーカー、Turtle Island Foodsを約16億円で完全子会社化し、乳業の枠を越えた領域へ踏み込んだ。

詳細を読む
★★★
大貫陽一Morinaga Le May Vietnam Joint Stock Companyを子会社化
出典・参考
  • 森永乳業 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「森永乳業」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 森永乳業 会社年鑑(1976年版・単体)
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 食品(日本経済新聞社, 1994年)「食品-量から質へ」
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 食品(日本経済新聞社, 1994年)「食品-コスト低減と流通の挑戦に揺れる」
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻5号(浪岡彌一郎)
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1981年8月 大野勇
  • 日本食糧新聞(1993年10月29日)
  • 証券 1954年(10)(63)
  • 中島貴子「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」社会技術研究論文集 Vol.3(2005年)
  • 森永乳業 公式サイト「ビフィズス菌研究50年ヒストリー」

免責事項およびポリシー