1917年9月、森永製菓は千葉県安房郡にあった愛国練乳合資会社を買収し[1]、その傍系会社として日本煉乳株式会社を東京市芝区田町に資本金30万円で設立した[2][3]。森永乳業の製酪事業は、この千葉県での酪農起業にさかのぼる[4]。初代社長には松崎半三郎氏が就き[5]、乳業部門の育成にあたった。翌1918年には静岡県田方郡に錦田工場を開設した[6]が、この頃は千葉県で原料乳の争奪が激しく、1919年3月に日本煉乳は吉尾・勝山の両工場を房総練乳へ統合した[7]。1919年5月には小缶煉乳の森永ミルクを発売した[8]。その後も併合と分離を繰り返しながら日本煉乳は規模を広げた[9]。
日本煉乳は1920年7月に森永製菓へ合併され、同社の畜産部となった[10]。同じ1920年末、錦田工場で日本最初の機械装置による粉乳製造が始まり[11]、1921年11月から森永ドライミルクとして売り出した[12]。育児用粉乳の国産化はここから始まり、翌1922年末には傍系会社を含む一日平均受乳量が100石に達した[13]。1923年9月の関東大震災では本社と工場の被害は軽微で、日比谷公園と芝公園でのミルク接待[14]、芝田町・大崎両工場での近隣者と通行人へのミルク接待、三島工場による箱根越えの人々への接待とトラックでの老幼輸送を実施した[15]。大正末期の半期売上高は130万円強[16]となった。
1924年には平塚、北海道奈井江の空知、北海道常呂郡の野付牛の各工場が完成[17]し、粉乳と練乳の大規模な製造が始まった。九州でのドライミルク販売行脚を終えた社員は、ただちに北海道の市場開拓へ向かった[18]。関東大震災の直後はキャラメルに切符を渡すほどの好況だったが、消費インフレが去ると売れ行きは急落した[19]。行き詰まりを打開するためミルクの販売活動隊が組織され、活動写真を映しながらサンプルケースを持って各地を売り歩いた[20]。隊は運転手が映写技師を兼ね、一人が国産奨励輸入防遏の演説をし、もう一人が無声映画の活弁をつとめる三人一組[21]で、愛知を皮切りに熊本・鹿児島・宮崎を回った[22]。
大正末から昭和初年の森永製菓は、増資と設備投資が経営を圧迫し、世界的な不況が重なって苦境にあった[23]。この二重苦のなかで菓子と乳業を切り離す判断が下され[24]、1927年4月には滋養飲料の森永コーラスを新発売して飲用牛乳普及の大キャンペーンを打ち[25]、同年9月15日に森永煉乳株式会社が資本金150万円で発足した[26][27]。社長には森永太一郎氏、専務には松崎半三郎氏、常務には畜産部長だった中村芳三氏と三菱銀行頭取瀬下清氏の推挙による伊藤律太郎氏[28]が就いた。野付牛・空知・三島・平塚・福崎・伊万里の六工場[29]を製菓から継承した。
独立後の森永煉乳は缶詰の煉乳と粉乳を主力としたが、1929年末に平塚工場で瓶詰め牛乳の製造を始めたのを機に牛乳部を開設[30]し、翌1930年3月以降は東京で初めての市乳を売り出した[31]。品目は1929年12月に森永牛乳[32]、1933年9月に森永チーズ[33]、1937年7月に森永ヨーグルト[34]と広がり、戦前のうちに液体乳・チーズ・発酵乳まで揃った。1933年半ばからはスイス・イギリス・オランダなど酪農先進国から新鋭機械[35]を輸入した。1936年に着工し翌1937年に完成した森永東北農産工業は、福島に地元資本を加えて設立した牛乳・肉・果物の缶詰工場[36]で、北海道酪連の統制で北海道に工場を建てられなくなったことと、東北農村の振興を助ける狙いから場所を選んだ[37]。
1940年、森永は北海道のすべての工場・集乳権・販売権を北海道興農公社へ[38]、東京の市乳事業を東京乳業へ現物出資した[39]。当時の森永と明治の生産比率は北海道7・内地3[40]で、両社とも強く難色を示したが、戸塚北海道長官からの申し入れを受けた松崎半三郎社長の決断で合同が決まった[41]。公社は1941年4月1日に発足し、1950年に集中排除法を受けて組織が変わるまで続いた[42]。1941年5月には森永煉乳を森永乳業株式会社へ改称した[43]が、その翌1942年10月には森永製菓に合併されて生産第二部(乳業部)となり[44]、1943年11月には森永製菓自体が森永食糧工業株式会社へ改称した[45]。
森永製菓の乳業部は1947年6月に森永アイスクリームを発売[46]した。戦後の経済回復に伴い独立した形で製酪業を立て直す必要が生じ、森永はまず東京乳業から目黒工場の返還を受け[47]、1949年4月13日に資本金1000万円で森永乳業株式会社を設立した[48][49]。社長には松崎半三郎氏が就いた[50]。当初は目黒工場での市乳生産で発足し[51]、同年9月に資本金を7000万円へ増額、同年10月には森永食糧工業から改称した森永製菓の乳業部を営業ごと継承した[52]。1950年10月には森永製菓から賃借していた工場設備資産を譲り受け[53]、この間に北海道をはじめ各地で工場を買収または新設して総合的な乳製品事業を始めた[54]。
1954年4月1日に資本金は4億6500万円となり[55]、同年9月1日に東京証券取引所へ株式を上場した[56]。上場時点で工場は24を数え、六大都市を中心とする8工場が市乳とアイスクリームを、全国の酪農地帯にある地方16工場が乳製品を作っていた[57]。従業員は1442名で[58]、社長は森永太平氏、専務は大野勇氏であった[59]。生産原価金額でみた製品構成は乳製品が71%を占め、うち粉乳が42%強、煉乳が20%、バターが8%[60]で、粉乳の比重の高さから『ドライの森永』と呼ばれた[61]。育児用のドライミルクは全国生産の約半分[62]を占めていた。
森永は1940年11月にビタミン入りドライミルクを創製発売[63]し、ビタミン強化粉乳の先駆けとなった。戦後の1952年には市乳の新製品としてビタミン入りホモ牛乳を売り出した[64]。平塚・松本の両工場には超高速度粉乳製造装置のロケットミルクプラントを据えて育児用粉乳の量産に成功し[65]、1953年12月には母乳と均質のビタミン入りベータドライミルクを完成させた[66]。乳糖を加熱してβ乳糖に転化させたものを加え、従来の粉乳では3〜4割の乳児に出ていた白い便を黄色に変える[67]製品であった。1955年3月期の売上高は45億円に達し、工場は全国27を数えた[68]。
1955年夏、森永の育児用粉乳による中毒事件が起きた[69]。徳島工場では乳質安定剤の第二リン酸ソーダを1950年7月から試験的に、1953年4月からは本格的に使い始めていた[70]が、事前に品質検査をすることもなく目分量で使っていた[71]。1955年4月納入分は表示こそ第二リン酸ソーダだったものの、実際はヒ素を含む別物で[72]、日本軽金属のアルミニウム製造で生じた廃物が何段階かの業者を経て工場へ持ち込まれたものであった[73]。静岡県は事件の約10か月前の1954年10月に、この廃物が取締法上の毒物にあたるかを国へ照会していたが、回答を待たずに流通[74]していた。
1955年8月24日、岡山大学医学部の浜本英次教授が岡山県衛生部の要請で記者会見を開き[75]、岡山県衛生部は徳島工場製の育児粉乳が原因であると発表した[76]。同工場の供給地域は主に関西以西で、地域が広かったため被害は広がった[77]。厚生省の1956年2月集計で死者131人・中毒患者1万2159人にのぼり[78]、1955年4月納入分の第二リン酸ソーダには有害水準の0.3%を超える重量比4.2〜6.3%のヒ素が含まれていた[79]。従業員組合は昇給とボーナスを辞退し、仕入先は支払いを延ばし[80]、原料乳代の手形は2か月遅れとなった。
補償の話し合いは難航し、森永は厚生省へ斡旋を依頼して白紙委任を誓約した[81]。法律家と医師ら5人からなる五人委員会が発足し[82]、日航木星号事件・国鉄桜木町・洞爺丸・紫雲丸の各事件の補償例を参考に補償意見書を作成した[83]。この意見に沿って話し合いが続き、行政と医療機関による事後の検診を行うことも定められて、1956年に厚生省の指示で実施された[84]。刑事責任については徳島工場の責任者2人が起訴され、一審は無罪となった[85]。行政は事件の公表直後に乳等省令を改め、1957年には食品衛生法を大幅に改正して食品添加物規制を強化し、1960年以降は食品添加物公定書を刊行した[86]。
1955年の森永は売上・利益とも業界1位[87]にあった。中毒事件による打撃のあと、大野勇氏は中断していた工場建設を決意し、破産整理中だった日本建鉄の土地を取得して1956年に葛飾で東京工場を着工し、翌1957年に完成させた[88]。敷地は2万3500坪で、当時日本一とされた明治の烏山工場の4000坪を上回り[89]、市乳工場と乳製品工場を分けない総合工場とした[90]。社会的信用を取り戻すため北海道大学の前野正久博士を研究所長に招き[91]、大野勇氏は1956年春に専務を辞任して責任を明らかにした[92]。招聘には紆余曲折があり、前野正久氏は再び教壇に戻れないことも承知で移った[93]。
1956年の欧米視察で得た議論を手がかりに、前野正久氏はガラクトース入りの森永Gドライを独自に開発した[94]。1957年から1958年ごろには東京工場で大量生産方式を採り、日本の乳業では最初の試み[95]となった。原料生乳の産地が各地に点在する日本で1か所に大規模な生産設備を持つことは業界も関係官庁も疑問視していたが、森永はこれを実行して軌道に乗せた[96]。北海道では十勝の浦幌工場を町会議長の木材工場拡張という名目で建て[97]、札幌の恵庭には市乳工場を正面から建てて雪印と競合した[98]。山形の日本製乳は東急傘下から譲り受け、四国では玉藻食品を買って[99]四国森永乳業とした。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/2264/manifest.json https://the-shashi.com/api/2264/history.json https://the-shashi.com/api/2264/timeline.json https://the-shashi.com/api/2264/executives.json https://the-shashi.com/api/2264/shareholders.json https://the-shashi.com/api/2264/financials.json https://the-shashi.com/api/2264/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/2264/segments.json https://the-shashi.com/api/2264/regions.json https://the-shashi.com/api/2264/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1917〜1943年森永製菓との分離と合併を繰り返した乳業部門 | 日本煉乳設立 | ★ | ||
| 小缶煉乳森永ミルクを発売 | ★ | |||
| 森永製菓と合併 | ★ | |||
| 森永ドライミルク(育児用粉乳)を発売 | ★ | |||
| 森永煉乳を設立 | ★ | |||
| 森永牛乳を発売 | ★ | |||
| 森永煉乳を森永乳業に商号変更 | ★ | |||
| 森永製菓と合併 | ★ | |||
| 1944〜1960年三度目の独立、東証上場と粉乳中毒事件からの再建 | 森永アイスクリームを発売 | ★ | ||
| 松崎半三郎 | 森永乳業設立 | ★★ | ||
| 森永太平 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 1961〜1993年量産設備の拡張、恒久救済の確立とビフィズス菌への集中 | 大野勇 | クリープ(粉末クリーム)を発売 | ★ | |
| 大野勇 | 名古屋市乳工場を新設 | ★ | ||
| 大野勇 | 東京多摩工場を新設 | ★ | ||
| 大野勇 | 森永商事の乳製品販売部門を譲り受け | ★ | ||
| 大野勇 | エムケーチーズを設立 | ★ | ||
| 大野勇 | 大和工場・村山工場を新設 | ★ | ||
| 大野勇 | サンキストグローワーズ社と商標の使用契約を締結 | ★ | ||
| 大野勇 | 森永ヒ素ミルク中毒事件と恒久救済体制の確立 1955年、森永乳業の徳島工場で製造された乳児用粉ミルクに工業用薬剤由来のヒ素が混入し、西日本を中心に死者131人・中毒患者1万2159人(1956年2月・厚生省発表)を出した食中毒事件。14年の空白を経た1973年、会社は責任を受諾し、翌1974年に恒久救済機関ひかり協会を全面出資で設立して被害者を生涯支える体制を築いた判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 稲生平八 | ビヒダス発売とビフィズス菌による独自路線 1977年6月、森永乳業がビフィズス菌を用いた乳製品乳酸菌飲料『森永ビヒダス』を発売し、明治・雪印との規模競争を避けて菌種で差別化する独自路線を選んだ判断。1969年に発見したヒト由来のビフィズス菌BB536を、1971年に日本で初めて乳製品へ応用し、機能性という新しい土俵を業界に先んじて開いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 門前貢 | ロングライフのハンディパック乳飲料(ピクニック)を発売 | ★ | ||
| 門前貢 | リプトン社と商標の使用契約を締結 | ★ | ||
| 門前貢 | 用契約を締結 | ★ | ||
| 門前貢 | Morinaga Nutritional Foods, Inc.を設立 | ★ | ||
| 大野晃 | 研究・情報センターを開設 | ★ | ||
| 大野晃 | マウントレーニア・カフェラッテ(カップ入り乳飲料)発売 | ★ | ||
| 大野晃 | 低リンミルクL.P.Kが特定保健用食品の第1号として厚生省から許可を取得 | ★ | ||
| 1994〜2026年国内市場の縮小と海外M&Aによる領域の拡張 | 古川紘一 | 全国の販売子会社9社をデイリーフーズに吸収合併 | ★ | |
| 古川紘一 | 神戸工場を新設 | ★ | ||
| 古川紘一 | 東北森永乳業設立 | ★ | ||
| 古川紘一 | 別海工場チーズ新棟稼動 | ★ | ||
| 古川紘一 | 沖縄森永乳業新工場(中頭郡西原町)稼動 | ★ | ||
| 古川紘一 | MILEI GmbHを完全子会社化 | ★ | ||
| 宮原道夫 | 浦幌乳業新棟稼働 | ★ | ||
| 宮原道夫 | 森永北陸乳業福井工場にて菌末の製造を開始 | ★ | ||
| 宮原道夫 | Morinaga Nutritional Foods (Asia Pacific) Pte.Ltd.を設立 | ★ | ||
| 宮原道夫 | パキスタンに同国2社と合弁会社NutriCo Morinaga(Private)Limitedを設立 | ★ | ||
| 宮原道夫 | Elovi Vietnam Joint Stock Companyを子会社化 | ★ | ||
| 大貫陽一 | NutriCo Morinaga(Private)Limited(パキスタン)を子会社化 | ★ | ||
| 大貫陽一 | 大貫体制での海外M&A集中と米国植物性食品への参入 2021年から2023年にかけて、森永乳業が大貫陽一社長のもとでベトナム・パキスタン・米国の企業買収を相次いで実行し、育児用ミルクと植物性食品へ事業領域を広げた経営判断。2023年2月には米国の植物由来食品メーカー、Turtle Island Foodsを約16億円で完全子会社化し、乳業の枠を越えた領域へ踏み込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大貫陽一 | Morinaga Le May Vietnam Joint Stock Companyを子会社化 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(森永乳業)