ゴールドウイン多角化事業の整理と自主管理売場への切り替えによる卸型ビジネスからの転換

卸先の口座を取り戻して立て直すか、売場を自分で持つ会社に作り替えるか——2期で96億円の当期損失を出した後の再構築

時期 2000年6月
意思決定者(推定) 西田東作(社長)・西田明男 専務、2000年6月から社長
論点 事業構成と販売チャネル
概要
1997年から1999年にかけて多角化した事業とブランドを整理する3カ年計画を実行し、2000年以降は直営の自主管理売場と海外生産へ体制を移した、数年がかりの構造改革。会社は1997〜2000年を「整理期」、2001〜2006年を「再構築期」と区分している。
背景
1980年代後半のスキーブームでスキー関連売上は260億円を超えたが、卸型ビジネスは需要の変動を在庫で受け止める構造にあり、1984年にも過剰在庫で赤字を計上していた。ゴルフ場運営やイベント関連へ広げた事業も収益の重荷となった。
内容
多角化事業とブランドを整理する3カ年計画を実行し、1998年3月期に41億円、1999年3月期に55億円の当期損失を計上。2000年に黒字化したうえで、直営店「ウエザーステーション」を「THE NORTH FACE原宿」へ改称して自主管理売場を本格化し、生産は中国を中心とする海外調達へ移した。
含意
卸先の店頭に委ねていた販売を自社の売場へ引き寄せたことで、需要を見てから作る「実需型ビジネス」の土台ができた。国内の生産機能は富山に縮小して残り、2017年11月に開設した研究開発施設テック・ラボも創業地の小矢部市に置かれた。
筆者の見解

損失の中身と、残した設備

2期96億円の損失は、スキー市場の縮小そのものというより、広げた事業とブランドを畳むために計上された費用であった。3カ年計画を終えた2000年に黒字へ戻し、そのうえで社長が交代し、売場と生産の作り替えに入るという順序は、危機のさなかの緊急避難とは性格が異なる。整理を先に終えたからこそ、直営店を出すという当時のスポーツ用品メーカーには前例の乏しい選択に資金を回せたとみられる。

生産を海外へ移す一方で、会社は富山を手放さなかった。1979年に分離した生産子会社は2003年に技術センターへ商号を変え、2020年4月には本体へ吸収合併された。2017年11月に小矢部市へ開いた研究開発施設テック・ラボには、運動研究室や人工気象室、品質検査室に加えて生地の裁断・縫製の設備が置かれ、パターン設計から着用試験までを一カ所に集めている。縫う工程は中国やベトナムへ渡ったが、何をどう縫うかを決める道具は、創業の地に据え直された。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

卸型ビジネスが抱えた在庫

1980年代後半、スキーブームの到来で毎年新しいウエアを買うことが流行し、ゴールドウインのスキー関連売上は260億円を超えた。スウェーデンのナショナルスキーチームの公式サプライヤーも務め、成長の軌道に乗っていた。販売は全国のスポーツ専門店への卸が中心で、海外ブランドについてもスポーツ専門代理店へ卸す形が採られていた。売場を持たない代わりに、需要の読み違いは在庫として自社に残る構造であった[1]

この構造の危うさは、ブームの前にすでに一度表れていた。全国のスポーツ専門店へ販路を広げた卸型ビジネスは順調に伸びたものの、販売先への供給過剰で在庫が増え続け、1984年には過剰在庫によって赤字を計上した。会社年鑑によれば1984年6月期の経常損益は4億5,000万円の損失、当期純損益は2億8,000万円の損失である。店頭在庫と売れ筋をつかみ、売れるものを適時適量に納める仕組みづくりは、このときから課題として残った[2][3]

広げた事業と「ビジョン21」

スポーツ用品の周辺へも事業を広げていた。1988年6月にゴールドウイン開発、1990年7月にゴールドウインイベントサポートを設立し、1990年6月にはシークラフトの株式を取得している。1991年には富山にゴルフ倶楽部を開業した。西田東作社長は開業の狙いを、スポーツ用品だけでなくスポーツを行う場所も提供する考えによるものと説明している[4][5]

拡大の見通しも大きかった。創立40周年を機に策定した「ビジョン21」では、2000年までに2,000億円企業へ挑戦するというスローガンを掲げ、3年ごとの三段階で進める計画を立てていた。当時の売上高は1991年3月期で541億円である。通商産業省が市場規模を2000年までに15兆円へ育成する方針を打ち出していたことも、この目標の後押しとなった。実際の1996年3月期の売上高は779億円にとどまった[6][7]

決断

3カ年計画による整理と2期の損失

1997年から1999年にかけて、ゴールドウインは経営の合理化のために多角化した事業とブランドを整理する3カ年計画を実行した。処理の費用は決算にそのまま出た。1998年3月期に41億円、1999年3月期に55億円の当期損失を計上し、1999年の損失には多角化事業の清算に伴うものが含まれる。2期の合計は96億円で、当時の年間売上高のおよそ1割強にあたる規模であった[8]

整理を終えた2000年、会社は経営資源の集中と財務体質の強化によって黒字化を果たした。同年6月、1977年入社で1997年から専務取締役を務めていた西田明男氏が代表取締役社長に就任し、「強い経営・速い経営・きれいな経営」という経営行動指針のもとで経営体質の強化を進めた。損失の処理は前任の体制で終え、その先の作り替えを新しい社長が引き受ける順序であった[9][10]

売場を自分で持ち、生産を外へ出す

2000年、以前から展開していた直営店「ウエザーステーション」を「THE NORTH FACE原宿」へ店名変更し、自主管理売場の展開を本格化させた。さらにアウトドアブランドをそろえた「THE NORTH FACE+」など、市場に合わせた形態の店舗を並べ、卸型ビジネスから実需型ビジネスへ移した。売場に立って客の用途を聞き、売れ行きを見てから作る手順に組み替える作業であった[11]

生産の側では海外調達への移行が同時に進んだ。1995年4月に中国北京市へ現地資本との合弁で北京奥冠英有限公司を設立しており、統合報告書の年表は2000年前後を「海外生産に着手」、2001年から2006年の再構築期を「海外生産本格化」と記す。2006年3月期の有価証券報告書は、製品調達の多くが競争力のある調達を目的として中国を主とし、ベトナム・タイなどの海外調達に依存していると記載している[12][13]

結果

縮んだ売上と残った生産拠点

数年間の連結数値は、規模の縮小と利益の改善が並んだ推移を示している。売上高は2002年3月期の493億円から2003年3月期450億円、2004年3月期427億円へ下がり、2006年3月期に462億円まで戻した。一方で経常利益は同じ期間に9億2,500万円から18億2,200万円へ増えている。連結の従業員数は2002年3月期の1,450人から2004年3月期には1,303人となり、2006年3月期は子会社2社の連結加入を含めて1,500人であった[14]

国内の生産機能は富山に縮小して残った。1979年6月に生産部門を分離して営業を譲り受けた子会社トヤマゴールドウインは、2003年4月に株式会社ゴールドウインテクニカルセンターへ商号を変更している。2006年3月期の設備の状況では、小矢部市の本店は生産管理施設として従業員72人、同社の本社工場が生産設備を持って323人、中国の北京奥冠英有限公司の本社工場は21人と記載されている。作る場所は移り、作り方を決める場所は創業地に置かれた[15][16]

実需型ビジネスの定着

販売と原価の作り替えは2007年からの中期経営計画へ引き継がれた。展開する品番数を減らし、素材を共有し、調達手法を変えて原価率を下げる一方、需要予測の精度を上げて返品と値引きを減らす。在庫の総量を抑えて回転率を高め、物流費を削る。統合報告書はこの期間を「体質改善期」と呼び、営業利益の改善に取り組んだと記している。売場から吸い上げた情報を生産計画へ返す経路が、ここで実務として固まった[17]

効果は10年以上の時間をかけて数字に出た。2018年の誌面は、かつて卸売りが大半を占めたザ・ノース・フェイスの販売のうち直営店が半分近くを占めるようになり、2000年以降に相次いで出した直営店が60店を超えたと伝えている。2017年度の営業利益は71億円で前年度比8割増、スキーとテニスに沸いた1991年度以来26年ぶりに最高益を更新した。直営店の数は2023年3月期に国内外156店となっている[18][19]

出典・参考
  • ゴールドウイン 統合報告書2023
  • ゴールドウイン 有価証券報告書【沿革】
  • ゴールドウイン 有価証券報告書(2006年3月期・連結)
  • ゴールドウイン 有価証券報告書(2006年3月期)主要な経営指標等の推移・連結
  • ゴールドウイン「当社代表取締役会長 西田明男が『旭日小綬章』を受章」(2024年11月3日)
  • 週刊東洋経済 2018年9月29日号「【産業リポート ノース快走のゴールドウイン】ノース快走のゴールドウイン 次は自社ブランドで海外へ」
  • 証券アナリストジャーナル 1992年2月号 別冊付録「企業」ゴールドウイン(西田東作・1991年12月27日東京講演要旨)
  • 会社年鑑(ゴールドウイン 1984年6月期・単体)

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