雪印乳業の源流は、1925年5月に札幌で設立された有限責任北海道製酪販売組合[1][2]である。関東大震災のあと本州の練乳会社が北海道へ進出し、恐慌で乳製品の市況が崩れると、練乳各社は原料乳の受け入れを制限し、酪農家は余乳の行き場を失った[3]。米国で酪農を学んだ宇都宮仙太郎氏、その門下で酪農運動を率いた黒澤酉蔵氏、佐藤善七氏ら十数名が、札幌ほか十数の町や村の酪農家629名を集め、出資金5,450円でバターの製造を始めた[4]。一口の出資は20円だったが、第一回の払い込みすら農家には重い[5]負担だった。工場建設の費用は黒澤酉蔵氏と佐藤善七氏が個人で銀行から借り入れて工面した[6]。野幌の農家の庭先を借りた仮工場で製造を担ったのは、佐藤善七氏の長男でオハイオ州立大学に学んだ佐藤貢氏[7]で、機械の据え付けから製造、掃除までを一人でこなし、手回しのバターチャーンを一日に四、五回も回した[8]。
組合の設立から2カ月後の1925年7月25日[9]、野幌の仮工場でバターの製造が始まった[10]。翌1926年3月には全道に散らばる大小の製酪組合を束ねて北海道製酪販売組合連合会を組織し[11]、同年12月に商標を『雪印』と定めて[12]製造と販売を一本化した。専務理事の黒澤酉蔵氏が全国を行商して回った調査では、道産バターが『大島バター』などの名に改装され、包装や冷蔵設備の不備で品質が損なわれる実態[13]が判明していた。そこで札幌の中央工場に米国から取り寄せた最新設備を据えて近代的なバターの製造を始め[14]、1930年ごろには鉄道貨車に氷を積む冷蔵輸送に踏み切り[15]、原料塩も精製塩へ切り替えた[16]。北海道庁は1929年にバター検査条例を設けて優良品に推奨マークを与え[17]、品質で選ばせる売り方を後押しした。
1930年の金解禁と翌年の大不況でバターの市況は崩れ、酪連だけでも80万ポンドの滞貨[18]を抱えた。市価は1ポンド95銭から半値以下の40銭まで落ち[19]、他社は牛乳の受け入れを制限しながら投げ売りに走った[20]。黒澤酉蔵氏は他社に追従した値下げをしないと決め[21]、滞貨資金の金利負担に耐えて待ち、呼び値だけを下げて実売を断る空売りで相場を動かした[22]。佐藤貢氏と瀬尾俊三氏は上海へ渡って米海軍の入札を落とし[23]、2ポンド買えば1ポンドを添える特売で7万ポンドの大半を処分した[24]。他社の在庫が尽きるのを待って売りに出た結果、1932年にバターの価格は本来の水準へ戻り、乳価ももとに復した[25]。
当時の日本は年に80万ポンドのバターを輸入していた[26]が、問屋は道産品を扱おうとしなかった。黒澤酉蔵氏らが明治屋に何度も足を運んでも動かず、神戸支店長にかけ合い[27]、先入観を除くため米国のカートンに詰めて試食させたところ、評価が一変して神戸と大阪で売り出す運びとなった[28]。東京の明治屋も雪印バターを全面的に扱い、ほかの問屋も追随して、輸入バターは日本の食品市場から姿を消した[29]。1932年には国内バター生産量の75%[30]を雪印が占めた。1935年には外貨獲得の国策に乗ってロンドンへ見本2トンを送り、ロンズデール社と100万ポンドの輸出契約を結び[31]、英国国立検査所の検査で22カ国中4位の評価[32]を受けた。
1940年になると北海道の乳業を一本化する動きが表面化し、橋渡しには町村敬貴氏が立って各社の幹部と話し合った[33]。同年8月、東京・芝の料亭『嵯峨野』で戸塚久一郎北海道庁長官を立会人に[34]、酪連と森永煉乳・明治製菓・極東煉乳の首脳が会し、製乳と土地改良を一体で担う公社案に合意した[35]。翌1941年3月、五者の現物出資により資本金1,200万円の有限会社北海道興農公社が発足して事業を継承し[36]、同年9月に株式会社へ組織を改めた[37]。社長には酪連会長の黒澤酉蔵氏が就き、専務には佐藤貢氏[38]が就いた。のちに北海道庁が500万円、農林中央金庫と北海道拓殖銀行も出資し[39]、配当は6分に抑えて超過分を生産設備へ回す仕組み[40]をとった。1944年から翌年にかけては製薬にも手を広げ、日本で最初のペニシリンを製造した[41]。
1941年4月には明治・森永両社の道内工場を合併し[42]、北海道の生乳をほぼ一手に集める体制ができた。戦後の1946年に土地改良部門を北海道農材工業として独立させ[43]、1947年1月には社名を北海道酪農協同株式会社に改め[44]、北海道庁や明治・森永が持っていた株式を酪農家へ譲渡した[45]。1948年2月、同社は過度経済力集中排除法の指定[46]を受けた。黒澤酉蔵氏は1万8,000人の署名や代表による『五七会』の結成[47]、連合国軍総司令部への働きかけで指定解除を求め、持ちかけられた裏金を拒んで正攻法を通した[48]。佐藤貢氏は2年にわたり東京に駐在してこの問題に当たり[49]、当初の三分割指令は全道酪農民大会や聴聞会での抵抗を経て二分割へ緩んだ[50]。
1950年6月、北海道酪農協同は過度経済力集中排除法の適用で二分割され[51]、資本金3億6,000万円の雪印乳業株式会社が第二会社として発足した[52]。存続会社は北海道バター株式会社と改称し、社長には三井武光氏[53]が就いた。商標は分割にあたって『雪印』を雪印乳業が引き継ぎ、北海道バターは昭和初期に関西で使っていた『クロバー』印を継いだ[54]。会長の黒澤酉蔵氏ら8人の重役が公職追放となり[55]、雪印乳業の社長には佐藤貢氏が就任した[56]。株主だった農業会は事業者団体法により乳製品の製造販売ができなくなるため[57]、その持ち株を個々の農民へ分散したうえで発足にこぎつけた[58]。
発足からわずか2カ月後の1950年8月[59]、雪印乳業は株式を上場した。同年12月には肉製品と種苗の事業を切り離して雪印食品工業株式会社と雪印種苗株式会社を設立し[60]、皮革と製薬の部門も別会社として独立させた[61]。佐藤貢氏が分割を機に雪印乳業を乳製品専門の会社とする方針をとり、付帯事業を部門ごとに株式会社として立てた[62]ためである。1952年10月には株式会社雪アイスを設立し、1957年3月には雪印運輸株式会社の株式を買い取って[63]、生産から輸送・販売までを子会社で束ねた。
分割で規模も性格も変わった雪印乳業は、本州への進出で力を取り戻そうとした[64]。1952年5月には岩手県の花巻市を中心に5工場を新設し[65]、1953年には東京に市乳工場を建てて本州での市乳事業を始めた[66]。以後は東北・九州・関西・東海・四国へ製造と販売を広げ[67]、1954年10月に資本金を4億8,000万円へ増やした[68]。1951年にはビタミン入り粉ミルク『ビタミルク』を発売し、1954年には『雪印6Pチーズ』を売り出した[69]。1954年度の売上総額は90億円に達し[70]、本社のほか東京支社・5支店・4出張所・58工場・314の処理場と集乳所[71]を抱えた。当時の製品はバター、チーズ、煉乳、ビタミルク、脱脂粉乳、バターキャラメル、マーガリン、アイスクリーム、市乳[72]などである。
分割で分かれた北海道バターはクローバー乳業と改称して同じ市場で競い合った[73]が、占領が終わって分割を強いた政策環境が変わると、再結合が課題になった。1958年11月、雪印乳業はクローバー乳業を合併し[74]、分割前の生産基盤を一つに戻した。合併時に15億円だった資本金は、1968年には75億円[75]まで増えた。1961年4月には札幌酪農牛乳を合併し、1966年3月に大阪証券取引所市場第一部[76]へ株式を上場した。1963年6月には食品部門の業務を雪印食品工業へ移し[77]、乳製品と市乳に本体の事業を絞った。商品では1962年に『雪印スライスチーズ』と缶入りの『雪印カマンベールチーズ』[78]、1963年にテトラパックの『雪印コーヒー牛乳』、1968年に『雪印ネオマーガリンソフト』を発売した[79]。
発足5年目の1955年3月、雪印乳業八雲工場が製造した脱脂粉乳による集団食中毒が東京都内の小学校で起きた[80]。製造機の故障と停電で原料乳が粉にする前に長時間放置され、黄色ブドウ球菌が増えた[81]ことが原因である。給食を口にした7,638人のうち患者は1,579人にのぼり、東京都の記録では1,936人[82]とされる。社長の佐藤貢氏は『全社員に告ぐ』[引用元]と題する文書を全社へ発し[83]、品質への出直しを求めた。この文書はのちに同社の品質管理の原点として語り継がれたが、同じ黄色ブドウ球菌による大規模な食中毒は45年後にもう一度起きた[84]。
1968年3月期、雪印乳業は全国生産に占める比率でバター69.9%、チーズ62.9%、粉乳37.3%、マーガリン22.2%、市乳19.4%[85]を占め、集乳量では25.3%に達した[86]。同期の売上高は1,056億円で、集乳費・売上高・資本金のいずれでも乳業界の首位[87]に立った。社長は瀬尾俊三氏、従業員は10,281人[88]で、1966年度には米国を除く世界の大企業200社のうち175位[89]に数えられた。当時は事業部制をとり、全国に8事業所、12支店、56の主要工場、106の集乳工場[90]を置いていた。佐藤貢氏は1963年に会長へ退き、1971年に取締役相談役[91]となった。
1970年代以降、雪印乳業は市乳と日配品へ商いの中心を移し、1972年に全国農協牛乳直販株式会社を設立して農協系の牛乳販売網を築いた[92]。同年には首都圏で日本初の無調整牛乳『農協牛乳』を売り出し[93]、1979年にプレーンヨーグルト『雪印ナチュレ』、1980年に『雪印ストリングチーズ』(現・さけるチーズ)を発売した[94]。
乳で培った技術を土台に、雪印乳業は1983年、医薬品事業への進出をねらって栃木県石橋町に生物科学研究所を設立[95]した。研究所の責任者だった常務が急逝したため、当時研究本部副本部長だった片山純男氏が急きょ所長として陣頭指揮をとった[96]。130人からなる研究者の多くは社外からのスカウト[97]で、医薬品分野は同社にとって未経験の領域で、研究開発の方向づけは模索が続いた[98]。片山氏は組織をまとめるのは精神的にもつらかったと振り返りつつ、医薬品事業の必要性を明確にして部隊をまとめ、1985年に初代の医薬品本部長となった[99]。
1951年に東京大学農学部を卒業して同年に雪印乳業へ入った片山純男氏[100]は、1983年に取締役研究本部副本部長、1988年に専務、1990年に副社長を経て、1993年6月に社長へ就任した[101]。ウルグアイ・ラウンド交渉で乳製品の輸入自由化が迫り、事業環境は厳しさを増していた[102]。
1989年3月、雪印乳業は米国最大の青果会社ドールの関連会社ドール・パッケージド・フーズと折半出資で合弁会社の雪印ドールを設立[103]した。4月から『ドール』ブランドで紙パック入り100%天然果汁ジュース4種を発売し、初年度は販売目標を38%上回る売上高65億円を達成した[104]。パッケージに雪印乳業の名は製造・販売者として小さく記すだけで、テレビ広告でも雪印の名は一切出さなかった[105]。1990年度の売上高は前年度比41.5%増の92億円へ伸び、ドールブランドの総売上高は130億円近く[106]に達した。当時の雪印乳業はバターで37.4%、マーガリンで38.6%、チーズで36.4%のシェア[107]を握っていた。
1990年1月には米ハーシーとライセンス提携を結んでチョコレート飲料とチョコアイスクリームの生産販売を始め[108]、紙パック入り紅茶飲料でもトワイニングの商標使用権を得て発売した[109]。雪印乳業が雪印以外のブランドで年商100億円規模の商品を育てたのはドールが初めてで、それ以前の海外ブランド導入はいずれも成功していなかった[110]。社内には雪印ブランド至上主義といえる空気が根強く[111]、交渉段階で横やりが入ったり、雪印ブランドに気を遣って踏み込めなかったりした[112]ためである。1991年2月には、売上高を1990年度の5,300億円から1995年度に7,000億円へ広げる中期経営5カ年計画『フレッシュ70』[113]を発表した。
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|---|---|---|---|---|
| 1925〜1949年乳価の従属を断つ製酪販売組合の設立から戦時統制下の一本化まで | 有限責任 北海道製酪販売組合設立 | ★ | ||
| 保証責任北海道製酪組合連合会(酪連)に改組 | ★ | |||
| 「雪印」商標の制定と品質・冷蔵物流への投資による道産バターのブランド化 1926年12月、有限責任北海道製酪販売組合が商標『雪印』を定め、あわせて苗穂の新工場・冷蔵貨車・原料塩の改良に投資して、道産バターを品質で選ばれるブランドへ押し上げようとした判断。専務理事の黒澤酉蔵氏が全国行商での市場調査を踏まえて主導した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 廉売合戦への不追従と、空売りによる相場水準の引き戻し 1931年(昭和6年)から翌年にかけてのバター廉売合戦のなかで、酪連(後の雪印乳業)は『他社に追従して値下げはしない』との方針を貫き、呼び値だけで相場を落とす空売りで市況を動かした。他社の在庫が尽きるのを待って売りに出て、1932年に本来水準へ価格を引き戻した、黒澤酉蔵氏主導の競争判断であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 雪印バターをロンドンへ初輸出(英国国立検査所の検査で22カ国中4位) | ★ | |||
| 嵯峨野会談で酪連と森永・明治・極東の練乳3社の統合が合意 | ★★ | |||
| 酪連と森永・明治・極東の道内乳業を束ねた「北海道興農公社」の設立 1940年から1941年にかけて、酪農家の共同組織である酪連と、森永煉乳・明治製菓・極東煉乳の練乳三社の道内事業を統合し、北海道興農公社を発足させた大同団結の判断。戦時統制と国策を背景に、狭い北海道で競い合っていた乳業を一本化する試みで、酪連会長の黒澤酉蔵氏が公社の社長に推された。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 黒澤酉蔵氏が社長に就任 | ★ | |||
| 北海道酪農協同に商号変更 | ★ | |||
| 過度経済力集中排除法の指定を受ける | ★★ | |||
| 1950〜1969年集中排除法による二分割から本州進出と乳業首位の確立まで | 集中排除法による会社分割指令への抵抗と、裏金を拒んだ指定解除運動 1948年2月、北海道酪農協同株式会社(北酪社)が過度経済力集中排除法の該当会社に指定され、1949年6月に会社分割の指令を受けた経営判断。社長の黒澤酉蔵氏は指定解除運動を自ら主導し、裏金を拒んで正攻法を貫いたが、最終的に二分割を受諾し、1950年6月に雪印乳業と北海道バターの二社へ分かれた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東京証券取引所・札幌証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 強化乳「雪印ビタミルク」発売 | ★ | |||
| 「6Pチーズ」大量生産化 | ★ | |||
| 八雲工場製造の脱脂粉乳による学校給食集団食中毒事件 | ★★ | |||
| 札幌酪農牛乳を合併 | ★ | |||
| 「雪印カマンベールチーズ」「雪印スライスチーズ」発売 | ★ | |||
| 「雪印コーヒー」発売 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第一部に株式上場 | ★ | |||
| 「雪印ネオ マーガリンソフト」発売 | ★ | |||
| 1970〜1999年市乳の全国展開と多角化、そして輸入自由化への備え | プレーンヨーグルト「雪印ナチュレ」発売 | ★ | ||
| 「ストリングチーズ」発売 | ★ | |||
| 2000〜2011年二つの不祥事によるグループ解体と統合による雪印乳業の終焉 | 雪印乳業集団食中毒事件(大阪工場製低脂肪乳、被害13,420人) | ★★ | ||
| 子会社・雪印食品の牛肉偽装事件が発覚 | ★★ | |||
| 雪印食品が解散を決議 | ★ | |||
| 高野瀬忠明 | 全国農協直販・ジャパンミルクネットと統合し日本ミルクコミュニティを設立 | ★★ | ||
| 高野瀬忠明 | 日本ミルクコミュニティと経営統合し共同持株会社「雪印メグミルク」を設立 | ★★ | ||
| 雪印乳業が解散・消滅 | ★ |
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事実根拠:出所(雪印乳業)