廉売合戦に追従せず、空売りで相場を本来水準へ引き戻した価格判断

投げ売りの渦中で「値下げしない」を貫いた酪連は、どのように崩れた相場を取り戻したか

更新:

時期 1931年
意思決定者 黒澤酉蔵 酪連 会長
論点 不況下の価格戦略
概要
1931年(昭和6年)から翌年にかけてのバター廉売合戦のなかで、酪連(後の雪印乳業)は「他社に追従して値下げはしない」との方針を貫き、呼び値だけで相場を落とす空売りで市況を動かした。他社の在庫が尽きるのを待って売りに出て、昭和七年に本来水準へ価格を引き戻した、黒澤酉蔵氏主導の競争判断であった。
背景
昭和五年の金解禁と翌年の大不況でバター市況は崩れ、酪連だけでも八十万ポンドの滞貨が積み上がった。他社は牛乳の受け入れを制限しながら投げ売りに走り、値を崩さぬ雪印は同業から目の敵にされていた。
内容
値下げは他社に任せて滞貨資金の金利負担に耐えつつ待機し、呼び値だけを下げて実売を断る空売りで相場を落とした。某社が三十七〜三十八銭まで値を下げるなか、在庫が尽きるのを待って雪印が売りに出た。
含意
安売りに追従せず品質を保った判断は、昭和十年のロンドン輸出で二十二カ国中四位という評価にもつながった。効率や物量ではなく品質と我慢で相場の秩序を取り戻す型が示された判断であった。
筆者の見解

品質と我慢で秩序を取り戻す型

この判断の核心は、目先の在庫を捌くための値下げに加わらず、他社の在庫が尽きて相場が戻るまで金利負担に耐え抜くという、時間を味方につける我慢にあった。呼び値だけで相場を動かす空売りは、実弾を伴わずに市況の主導権を握る手であったが、それを成り立たせていたのは、値を崩さずとも売れるという品質への自信であったとみることができる。安売りではなく品質と我慢で相場を取り戻す型が、ここに現れていた。

そしてこの型は、酪連が北海道の酪農家による共同事業として出発した来歴と、静かに結びついていたようにも見える。組合員から集めた牛乳を無駄にできない立場では、投げ売りで在庫を減らすより、価格そのものを守ることに利があった。効率や物量ではなく品質と価格の秩序に賭けた選択の背後に、生産者の共同という出自がうかがえる。断ずることはできないが、後年の輸出での高い評価もふくめ、この一戦は雪印という名が品質で立つ端緒であったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

金解禁と大不況が崩したバター市況

昭和五年(1930年)の金輸出解禁は、為替相場の急騰と輸出国の原価安を招き、国産バターにとって悪条件が重なる契機となった。翌昭和六年には、バターにとどまらず一般的な大不況が日本経済を覆い、市況はいっそう冷え込んでいった。こうした環境の反映で国内のバターの在庫はふくらみ続け、昭和六年末には、酪連だけでも八十万ポンドの滞貨が山積する事態となっていた[1]

廉売合戦のなかで目の敵にされた雪印

在庫が積み上がれば市況は乱れ、いわゆる廉売合戦へと突入する。他社は牛乳の受け入れそのものを制限しながら、手持ちのバターを投げ売りしていった。そのなかで「他社に追従して値下げはしない」との方針を掲げた雪印バターは、値を崩さぬ存在として同業から目の敵にされた。滞貨資金の金利負担を抱えたまま、値下げの誘惑にどう向き合うかが、酪連にとっての焦点となっていた[2]

決断

待機という選択

会長の黒澤酉蔵氏は、東京で販売を担う瀬尾俊三氏とともに情勢を分析した。値段を下げれば市場にはまだ消化力が残るが、他社は牛乳の受け入れを制限している以上、乱売で手持ちのバターを減らせても増産は望めない。したがって他社製品の在庫が一掃されれば、価格は必ず値上がりに転じる——こうした読みのもとで、雪印はじっと待機する道を選んだ。値下げは他社にやってもらい、滞貨資金の金利負担に当面耐えればよいという判断であった[3][4]

呼び値だけで相場を落とす空売り

待機に加えて黒澤氏らが用いたのが、呼び値だけで相場を落としていく空売りの戦術であった。雪印が一ポンド小売り六十五銭を六十銭にすると触れ込むだけで、他社はすぐ五十五銭で応じてくる。ならばこちらは五十銭と唱え、「それ雪印だ」と客が殺到しても「相すみませんが五十銭ものは売りきれまして」と断る。実売を伴わない呼び値の応酬で相場を下げていくうち、某社は三十七〜三十八銭まで値を下げていった[5]

結果

本来価格への回復と、品質が開いた海外

呼び値の下落に引きずられて他社が投げ売りを続けるうち、各社の在庫はしだいに底をつき始めた。そこで雪印はようやく売りに出て、一等品・二等品と分けて四十五銭、五十五銭と商いを進め、昭和七年(1932年)には六十五銭という本来の価格へ相場を引き戻すことができた。値下げに追従せず品質を保ったまま、崩れた市況をみずからの手で正常な水準へ戻した点に、この判断の眼目があった[6]

安売りに背を向けて守った品質は、のちの海外展開にもつながっていった。昭和十年(1935年)十一月、ロンドンへ試売品として送った雪印バター二千八百ポンドは、英国国立検査所の検査で二十二カ国中四位と評価され、折り返し五十万ポンドの注文が寄せられた。品ぐりの都合で実際の輸出は十一万四千八百ポンドにとどまったものの、廉売合戦のさなかに値を崩さず品質を保ったことが、こうした評価の下地になっていたとみることができる[7]

出典・参考
  • 黒沢酉蔵『私の履歴書』(日本経済新聞社・経済人17、1981年)

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