酪連と森永・明治・極東の道内乳業を束ねた「北海道興農公社」の設立

狭い北海道で競い合う乳業各社を、黒澤酉蔵氏はなぜ一つの公社へまとめようとしたか

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時期 1941年3月
意思決定者 黒澤酉蔵 酪連 会長・興農公社 社長
論点 北海道乳業の一本化と統制
概要
1940年から1941年にかけて、酪農家の共同組織である酪連と、森永煉乳・明治製菓・極東煉乳の練乳三社の道内事業を統合し、北海道興農公社を発足させた大同団結の判断。戦時統制と国策を背景に、狭い北海道で競い合っていた乳業を一本化する試みで、酪連会長の黒澤酉蔵氏が公社の社長に推された。
背景
震災後に本州の練乳会社が北海道へ進出して以来、酪農家が築いた酪連と練乳各社が限られた道内市場と原料をめぐって競合し、折り合いを欠いていた。戦時統制と、食糧増産・土地改良を柱とする国策が、乳業の一本化を後押しした。
内容
昭和15年1月の町村敬貴氏の来訪を機に統合が構想され、同年8月の「嵯峨野会談」で戸塚久一郎長官の興北農業総合公社案に五者が合意した。昭和16年3月に興農公社が発足、当初は有限会社で、翌17年1月に資本金1,700万円の株式会社へ改組された。
含意
営利を第一としない協同の理念を掲げつつ、国策と戦時統制のもとで進められた統合であった。母体の一つである酪連は同年10月に発展的解消し、二つの出自を束ねた公社の姿は、のちの経済秩序の再編のなかで改めて問い直されることになる。
筆者の見解

国策と協同のあいだで

北海道興農公社の設立は、戦時統制と国策のもとで進められた乳業の大同団結であった。狭い北海道で酪連と練乳三社が競い合う非効率を、国土計画に基づく総合開発の一環として一本化する——その枠組み自体は、上からの統制の産物であったとみることができる。ただ、その中心にいた黒澤酉蔵氏は、営利を第一とせず、従業員を使用人と見ない協同の理念を公社に持ち込もうとした。国策が求めた効率と、酪農家が育てた協同の思想とが、一つの公社のなかで交わろうとしていた点に、この統合の両義性がうかがえる。

もっとも、異なる出自を一つに束ねた公社が、そのままの姿で存続したわけではない。営利を旨とする練乳会社系と、産業組合の精神を継ぐ酪連系という二つの色合いは、戦後の経済秩序の再編のなかで改めて問い直されることになる。国策のもとで一体化された巨大な乳業組織は、やがて集中排除の対象として解体を迫られる場面を迎えた。発展的解消という言葉に託された協同の理念が、統制の時代を越えてどこまで受け継がれたのか——興農公社の発足は、その後を静かに問いかける出発点でもあったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

狭い北海道で競い合う酪連と練乳三社

北海道の乳業は、震災後に本州から練乳会社が進出して以来、酪農家が共同で築いた酪連と、森永煉乳・明治製菓・極東煉乳といった練乳各社とが並び立つ構図となっていた。生乳の集荷から製品化までを担う両者は、限られた道内の市場と原料をめぐって競い合い、集乳の量や取引の条件をめぐって折り合いを欠いたまま推移していた。冷涼な気候を生かした酪農は北海道の基幹産業として根を張りつつあったが、その足元では組織どうしの摩擦が絶えず、酪農の功労者からは、この狭い土地で消耗し合う姿を惜しむ声が繰り返し上がっていた[1]

折しも時代は戦時統制へと傾き、食糧増産と土地改良を柱とする国策が、北海道の農業に大きな役割を求めていた。乳業もまた、統制と計画のもとで生産を効率化することが要請され、各社が分立したままの体制は見直しを迫られていた。のちに統合の旗を振ることになる戸塚久一郎長官は、新たな公社を単なる乳製品事業の企業合同ではなく、国土計画に基づく北海道総合計画の実行案であり、農業そのものを確立する国策のためのものと位置づけていた。乳業一本化の機運は、こうした国策の要請と戦時下の空気を背景に、次第に高まっていった[2]

決断

町村敬貴氏の来訪と嵯峨野会談

転機は昭和十五年一月にあった。酪農の功労者である町村敬貴氏が黒澤酉蔵氏の自宅を訪ね、酪連と練乳各社の不和を惜しみ、統合の必要を説いた。黒澤氏もかねて一本化を構想していたが、酪連会長である自らが練乳会社へ働きかければ底意を疑われかねないと考え、みずからは前面に立たず、町村氏にその橋渡しを託した。町村氏は森永煉乳の松崎半三郎氏、極東煉乳の有島健助会長、明治製菓の植垣専務らを一人ずつ歴訪して地ならしを進め、戸塚長官も道議会に布石を打っていった。統合は、こうして水面下から静かに動き出していった[3]

昭和十五年八月十七日、東京・芝の料亭「嵯峨野」に関係者が集まった。出席したのは町村敬貴氏、明治製菓の相馬半治会長、森永煉乳の松崎半三郎社長、そして黒澤氏で、極東煉乳の有島健助会長は相馬氏に一任して欠席した。この席で戸塚長官が「興北農業総合公社案」を示した。相馬氏からは製糖事業もあわせて行うべきとの修正意見も出たが、これは将来の検討事項とされ、公社の設立は全員一致で合意をみた。個々の利害を超えて道内乳業を束ねる構想は、こうして輪郭を得ることになり、のちに嵯峨野会談と呼ばれる会合となった[4]

結果

興農公社の発足と協同の理念

こうしてまとまった案にもとづき、昭和十六年三月十七日、酪連と練乳三社の道内事業を束ねた北海道興農公社が発足した。当初は有限会社であったが、翌十七年一月には資本金一千七百万円の、公益を旨とする株式会社へと改組された。黒澤氏は成り行き上その社長に推された。就任にあたり黒澤氏は、事業運営の方針は一般の事業会社のように営利を目的とするものではなく、配当も定款で一定限度以上は行わないと定め、生じた余剰は北方農業の建設のために役立てると従業員へ説いていた。統合された組織に協同の理念を吹き込む言葉であった[5][6]

一つの公社に束ねられたことで、酪連はその役割を終えた。酪連系の産業組合員意識と、練乳会社系の営利第一主義という二つの色合いが一つになったため、黒澤氏は「従業員は使用人にあらず」と繰り返し強調し、組織の統一をはかっていた。そして昭和十六年十月二十三日、酪連は発展的な解消として解散総会を開いた。黒澤氏は開会の辞で、十七年にわたる農民の歴史がここに終わりを告げること、しかし酪連の精神は、一粒の麦が地中に消えて数十万倍の麦を生むように生き続けることを説き、言いようのない寂寞を抱きつつ会を閉じていた[7]

出典・参考
  • 黒沢酉蔵『私の履歴書』(日本経済新聞社・経済人17、1981年)

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