集中排除法による会社分割指令への抵抗と、裏金を拒んだ指定解除運動

原料乳を一手に集めた北酪社を、黒澤酉蔵氏はなぜ正攻法だけで守ろうとしたのか

更新:

時期 1949年6月
意思決定者 黒澤酉蔵 北海道酪農協同 社長
論点 集中排除法による強制分割への対応
概要
1948年2月、北海道酪農協同株式会社(北酪社)が過度経済力集中排除法の該当会社に指定され、1949年6月に会社分割の指令を受けた経営判断。社長の黒澤酉蔵氏は指定解除運動を自ら主導し、裏金を拒んで正攻法を貫いたが、最終的に二分割を受諾し、1950年6月に雪印乳業と北海道バターの二社へ分かれた。
背景
北酪社は北海道の原料乳をほぼ一手に集荷し、バター・チーズなどの生産量も国内第一であった。この外見上の独占性が問題視され、集中排除法の該当会社に指定された。
内容
黒澤氏は一万八千人の署名や代表による「五七会」の結成、GHQへの働きかけで指定解除を求め、裏金の誘惑を拒否した。当初の三分割指令は、全道酪農民大会や聴聞会での抵抗を経て二分割へと緩和された。
含意
酪農家が四半世紀をかけて築いた一体の事業が、占領政策によって外形を理由に解体された。分割から生まれた雪印乳業は、半世紀後に自ら信用を失い、ふたたび解体へ向かうことになる。
筆者の見解

外から引き裂かれた出発と、内から崩れた終幕

北海道の酪農家が四半世紀をかけて築いた、原料乳の集荷から製造までを貫く一体の事業は、占領下の集中排除政策によって、その外形だけを理由に解体された。市場を支配するための独占ではなく、酪農民が自らの乳を持ち寄って支えた協同の組織であったことを思えば、この分割には拭いがたい不条理の影がつきまとうとみることができる。それでも黒澤氏は、道理はいつか通じると信じ、近道となる裏金を最後まで拒んで正攻法を貫いた。敗れてなお筋を曲げなかった黒澤氏には、一個の経営者としての矜持がうかがえる。

もっとも、歴史はこの分割に別の含意を残している。強制的な解体のなかから生まれた雪印乳業は、戦後の乳業界を代表する企業へと成長した。その同じ会社が、半世紀を経たのちに、自らの手で食の信用を大きく損ない、ふたたび解体に近い再編の道をたどることになる。外から不条理に引き裂かれた出発と、内から信を失って崩れていった後年の姿——この対照を重ねてみると、企業の存立が制度にも自律にも支えられていることを、静かに問い返す来歴であったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

興農公社から北酪社へ、原料乳を束ねた一体の事業

北海道の酪農は、1925年に黒澤酉蔵氏らが酪農家の組合を興したことに始まる。その事業はやがて興農公社へと発展し、戦後の1945年11月には、興農公社が製乳部門と土地改良部門に分離された。このとき製乳部門は、資本金3,000万円の北海道酪農協同株式会社(北酪社)として再編され、原料乳の集荷から乳製品の製造までを一体で担う組織が形づくられた。土地改良部門も北海道農材工業として切り分けられ、戦後の再出発が図られた[1]

北酪社は、北海道の原料乳をほぼ一手に集荷し、バターやチーズなどの生産量も国内第一であった。表面だけをみれば、それは疑いなく独占的な姿にみえる事業であった。この外見上の独占性が占領下の経済民主化政策のもとで問題視され、1948年2月、北酪社は過度経済力集中排除法の該当会社に指定された。集荷網と製造を束ねた事業の形が、そのまま分割の対象として名指しされた[2]

決断

指定解除運動と、裏金を拒んだ正攻法

黒澤氏は、外見上は独占にみえても、その成り立ちや会社の性格をみれば細分割の必要はないと考えていた。北酪社は酪農家自身が原料乳を持ち寄って築いた協同の事業であり、他者を圧迫・阻害する独占とは性格を異にするというのが、その立場であった。黒澤氏は上京して東京の社寮にたてこもり、指定解除を求める反対運動を自ら主導した。会社の来歴と性格に照らせば、分割の是非は一目瞭然のはずだという確信が、その行動を支えていた[3]

道内の酪農民は、北酪社が他を圧迫・阻害するものではないとして陳情の署名運動を展開し、その数は一万八千人に達した。代表26人を東京へ送って「五七会」を結成し、持株会社整理委員会やGHQへの働きかけを重ねた。その一方で、裏金を使えば何とかなるという誘惑もしきりに入ってきた。しかし黒澤氏は、アメリカを最も進んだ民主主義国家であり道理と正義を重んじる国と信じ、頑として裏金を拒み、正攻法で押しまくった[4]

結果

三分割指令から二分割へ、そして黒澤氏の退場

その結果は、1949年6月27日、会社分割の指令として発せられた。清水と北見の重要な工場を民間会社へ売却し、会社は三分割、北酪社の社名も商号も、雪印のマークも一切使ってはならないという厳しい内容であった。そのうえ指令発令の三日前には、黒澤氏ほか六人の役員に退任勧告が示された。黒澤氏への理由は陳情という政治運動と公職追放令違反であり、指令発令以前の勧告であったため、氏は陳情運動のためとして涙をのんでこれを受けた[5]

北酪社は全員一致で「絶対不承認」を決議し、全北海道酪農民大会を開いて道庁や政府へ抗議した。日比谷市政会館では300人を超える聴聞会が開かれ、農林省も第八軍司令官へ意見書を提出した。しかし分割反対を押し通すことはできず、最終案は「二分割」に緩和された。1950年6月、北酪社は雪印乳業と北海道バターの二社に分かれ、その半年後には雪印皮革や雪印食品工業なども分離独立した。黒澤氏自身は公職追放もあって、雪印乳業の相談役に退いた[6][7]

出典・参考
  • 黒沢酉蔵『私の履歴書』(日本経済新聞社・経済人17、1981年)

免責事項およびポリシー