「雪印」商標の制定と品質・冷蔵物流への投資による道産バターのブランド化

安値と偽名に沈んでいた道産バターを、黒澤酉蔵はいかにして品質ブランドへ引き上げようとしたか

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時期 1926年12月
意思決定者 黒澤酉蔵 製酪販売組合 専務理事
論点 ブランド確立と品質・物流投資
概要
大正十五年(1926年)十二月、有限責任北海道製酪販売組合が商標「雪印」を定め、あわせて苗穂の新工場・冷蔵貨車・原料塩の改良に投資して、道産バターを品質で選ばれるブランドへ押し上げようとした判断。専務理事の黒澤酉蔵氏が全国行商での市場調査を踏まえて主導した。
背景
関東大震災後の練乳流入で道内の練乳会社が生乳の受け入れを制限し、酪農家は余乳の行き場を失っていた。大正十四年に酪農家自身が製酪販売組合を設立してバター製造を始めたが、道産バターは全国生産の六割超を占めながら品質評価が低く、偽名で安く売られていた。
内容
黒澤氏の全国行商調査で、道産バターが「大島バター」等の名に改装され、包装や冷蔵設備の不備で品質が損なわれる実態が判明した。これを受け、品質改善・商標制定・冷蔵物流を一体の手立てと定め、商標「雪印」(1926年12月)、苗穂新工場(1926年10月、東洋一とされた設備)、冷蔵貨車(1927年6月)、精製塩への切り替えを同時に断行した。
含意
動力式コンバインドチャーンで水切りの欠点を解消し、品質を武器に変えた。品質主義は禁酒禁煙の入社誓約にまで及び、「雪印」は北海道の一組合のバターを全国ブランドへ押し上げる旗印となった。
筆者の見解

品質という旗印の出発点

振り返れば、この判断の核心は、量では全国を圧しながら価値では安物に甘んじていた道産バターに、品質という一点で立つ覚悟を与えたことにあった。名前を偽られ、包装も冷蔵もないまま安く流れていた産物を、商標・工場・物流・原料という複数の側面から同時に立て直す——生産者自身の組合がそこまで踏み込んだ点に、単なる販路づくりを超えた志がうかがえる。品質を旗印に掲げるというこの選択が、その後の「雪印」という名を支える背骨になったとみることができる。

もっとも、旗印を掲げることと、それを守り続けることは同じではない。品質を守るために従業員に禁酒禁煙まで誓わせたこの出発点は、のちに八雲工場の中毒事件(1955年)、そして大阪工場を発端とする食中毒事件(2000年)で、その旗印そのものを裏切られることになる。創業の担い手たちが最も重んじた一点が、時を経て最も大きく損なわれたという事実は、ブランドが掲げる価値と、それを担う現場の実際とのあいだに、絶えず距離が生まれうることを静かに物語っているとみられる。品質という言葉の重さは、掲げたときではなく、守り抜けたかどうかで測られる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

余乳の窮状と、安物扱いの道産バター

大正十二年の関東大震災の後、救援物資として米国産の練乳が大量に流入し、国内の練乳市況は大きく崩れた。道内の練乳会社は採算の悪化から生乳の受け入れを制限し、行き場を失った牛乳を酪農家がやむなく捨てる事態も生じていた。乳価の変動と加工資本の都合に翻弄される立場に、酪農家は追い込まれていた。大正十四年、こうした窮状を背景に、酪農家自身が有限責任北海道製酪販売組合を設立し、余った牛乳をバターに加工して自らの手で売る道を選んだ。生産と販売の仕組みを生産者の側から築こうとする試みであった。

もっとも、組合がバター製造に乗り出しても、道産バターに対する市場の評価は高くなかった。当時、北海道産のバターは全国生産の六割以上を占めるまでになっていたが、品質がよくないために価格は安く抑えられていた。生産量では他を圧していながら、価値の面では安物として扱われる構図が、生産者の手取りを押し下げていた。量を確保するだけでは酪農家の暮らしは安定せず、品質そのものを立て直すことが、避けて通れない課題として残されていた[1]

決断

全国行商が突きつけた実態

大正十五年七月から八月にかけて、専務理事の黒澤酉蔵氏は東京・横浜・静岡・名古屋・京都・大阪・広島・福岡を巡り、道産バターが市場でどう扱われているかを自ら確かめた。その報告は、組合長の宇都宮仙太郎氏あての書簡にまとめられた。問屋では道産のバターが小口に改装され、実際には北海道産でありながら「大島バター」などの名で売られていた。包装や梱包は粗く、貯蔵や輸送に冷蔵設備がないために形崩れや品質の変化も起きていた。産地の名すら失って安く流れていく実態が、そこにはあった[2]

調査を踏まえ、黒澤酉蔵氏は、品質をよくすることはもちろん、商標を定め、冷蔵貨車を使うことが焦眉の急であると判断した。三つは切り離せない一体の手立てであった。商標「雪印」を定めたのが大正十五年十二月、冷蔵貨車の使用を始めたのが翌昭和二年六月であった。品質改善の柱となる新工場は、これに先立つ大正十五年十月一日、札幌市苗穂で操業を始めていた。最新式のコンバインドチャーンやクリームパステライザーを備え、当時は東洋一とうたわれた設備であった。産地の名を隠して安く流れていたバターに、みずからの旗印と品質の裏づけを与えようとする判断であった[3][4]

結果

欠点を潰し、品質を武器に変える

新工場の設備は、品質を目に見える形で押し上げた。手回しのバターチャーンで作ったバターは水切りが悪く、日が経つと組織から水分が分離し、表面や切り口から水が涙のようにこぼれ出ていた。原因は設備にあり、新工場の動力式コンバインドチャーンによってこの問題は解消された。品質分析には技術者の佐藤貢氏があたった。塩についても、明治屋の担当者から強い異臭を指摘されたことを機に、海水由来の塩に含まれるにがりが原因と突き止め、専売局に働きかけて精製塩の改良を実現させた。安さの理由となっていた欠点を一つずつ潰し、品質を武器へと変えていった[5][6]

品質へのこだわりは、製造工程だけにとどまらなかった。技術者の一人であった佐藤貞氏が禁酒禁煙を断行し、それはやがて保証人が連署する誓約書のかたちで全従業員へと広がり、つい最近まで雪印に入社する際の条件とされていた。品質を守るために自らを律するという心構えが、組織の規律として根づいていた。こうして北海道の一組合が作るバターは、「雪印」の名のもとに品質で選ばれる全国ブランドへと押し上げられていった。名も伏せて安く流れていた道産バターを、旗印を掲げて世に問う出発点が、ここにあったとみることができる[7]

出典・参考
  • 黒沢酉蔵『私の履歴書』(日本経済新聞社・経済人17、1981年)

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