この合併を県内銀行の自主的な再編の到達点とだけ読むと、時代の条件を見落とす。1901年に74行あった県内の銀行は1931年に6行へ減少しており、統合そのものは30年続いた流れであった。1943年に起きたのは、その流れの最後の一歩を、戦時の国策が銀行側の都合を待たずに踏ませたことであると推察される。合併契約書の調印から創立総会まで3か月、営業開始はその2日後であった。
もっとも、外から与えられた統合が、そのまま有利な地位を意味したわけではない。公称資本金1,000万円・70か店で発足した千葉銀行は、5年後に90%減資で資本金138万円まで削られ、再建整備の手続きから戦後を始めている。県内唯一の本店銀行という肩書きは、預金封鎖と新円切り替えのなかでは重さを持たなかった。国策が与えた地位を地域金融機関としての実体に変える作業は、戦後に残された課題であったといえる。