1918年〜 豊田佐吉系列の紡織会社から戦中合併・戦後再独立まで
トヨタ紡織の業績推移:単体
- 1918年 豊田紡織を創立
- 1942年 内海紡織・中央紡織・協和紡績・豊田押切紡織の4社と合併し中央紡績を設立
- 1943年 トヨタ自動車工業に合併
- 1950年 戦時にトヨタ自工へ吸収された紡織事業を民成紡績として分離独立 企業再建整備法の第二会社として、豊田佐吉氏以来の紡織はどう法人格を取り戻したか
- 1967年 石田退三氏の会長就任と豊田紡織への社名変更による立て直し 多角化に失敗して無配へ落ちた民成紡績へ、トヨタグループはなぜ総帥を送り込んだか
- 1967年 経営の立て直しに着手
- 1972年 定款に自動車部品の製造を追加し紡織から自動車部品メーカーへ転換 紡績の採算が細るなかで、豊田紡織は営業の目的をどう書き換えたか
豊田佐吉氏の紡織遺伝子と1918年の創業
1918年1月、豊田紡織株式会社が愛知県で創立[1]された。豊田自動織機の発明者である豊田佐吉氏[2]が公称資本金500万円をもって設立した会社で[3]、自動織機開発の延長線上で紡績原料から織物完成品までの一貫生産を担う紡織会社として出発した。後年のトヨタグループにおいて豊田佐吉氏の系譜は自動車(トヨタ自動車工業)と織機・紡織(豊田自動織機・豊田紡織)の二系列に分かれていくが、創立時点では織機の販路として自社内の紡織工場を持つことが事業の合理にかなっていた。1923年11月には愛知県刈谷市に刈谷工場を新設し[4]、紡織生産能力を拡張した。豊田家の主力事業は依然として紡織にあり、後の自動車事業はこの紡織会社の事業基盤上で1933年に開始される自動車部の派生事業として動き出した。
- トヨタ紡織 有価証券報告書/統合報告書
- [1]1918年1月に豊田紡織株式会社が愛知県で創立された
- 有価証券報告書/トヨタ紡織50年史
- [2]豊田紡織は豊田自動織機の発明者である豊田佐吉が設立した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]豊田佐吉は1918年に公称資本金500万円をもって豊田紡織を設立した
- トヨタ紡織 有価証券報告書
- [4]1923年11月に愛知県刈谷市に刈谷工場を新設した
1931年9月には菊井紡織株式会社を合併し[5]、1942年2月には内海紡織・中央紡織・協和紡績[6]・豊田押切紡織の4社と合併して中央紡績株式会社を設立した。戦時統制経済下で繊維業界の集約が国策として進むなか、豊田系列の紡織会社群も統合再編の流れに組み込まれた。中央紡績は豊田佐吉氏の系列に連なる紡織会社が集約された存在であり、戦時下の繊維生産を担う立場にあった。1943年11月、中央紡績はトヨタ自動車工業株式会社に合併された[7]。戦時下の物資統制で繊維生産が縮小する一方、軍需向けの自動車生産は拡大する政策が進み、豊田佐吉氏系列の紡織会社は本来の祖業から自動車事業の一部門として吸収された。
- トヨタ紡織 有価証券報告書
- [5]1931年9月に菊井紡織株式会社を合併した
- [6]1942年2月に内海紡織・中央紡織・協和紡績・豊田押切紡織の4社と合併して中央紡績株式会社を設立した
- [7]1943年11月に中央紡績はトヨタ自動車工業株式会社に合併された
戦後の1950年5月、紡織会社の経営資源はトヨタ自動車工業から分離独立し[8]、民成紡績株式会社として再出発した。戦時統合で自動車本体に吸収された紡織事業を、GHQの経済民主化政策と財閥解体の流れのなかで切り離す判断であり、紡織会社としての独立した法人格を再び持った。1950年8月には名古屋証券取引所に株式上場を果たし[9]、戦後復興期の繊維需要拡大を捉える資本基盤を整えた。1956年9月には大口工場を新設し[10]、戦後の旺盛な綿糸・綿布需要に応える生産体制を整えた。トヨタ自動車から分離独立した後、約20年間は紡織会社として独自の経営を続けた時期である。
- トヨタ紡織 有価証券報告書
- [8]1950年5月にトヨタ自動車工業から分離独立し民成紡績株式会社として再出発した
- [9]1950年8月に名古屋証券取引所に株式上場した
- [10]1956年9月に大口工場を新設した
- トヨタ紡織 有価証券報告書/統合報告書
- [1]1918年1月に豊田紡織株式会社が愛知県で創立された
- 有価証券報告書/トヨタ紡織50年史
- [2]豊田紡織は豊田自動織機の発明者である豊田佐吉が設立した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]豊田佐吉は1918年に公称資本金500万円をもって豊田紡織を設立した
- トヨタ紡織 有価証券報告書
- [4]1923年11月に愛知県刈谷市に刈谷工場を新設した
- [5]1931年9月に菊井紡織株式会社を合併した
- [6]1942年2月に内海紡織・中央紡織・協和紡績・豊田押切紡織の4社と合併して中央紡績株式会社を設立した
- [7]1943年11月に中央紡績はトヨタ自動車工業株式会社に合併された
- [8]1950年5月にトヨタ自動車工業から分離独立し民成紡績株式会社として再出発した
- [9]1950年8月に名古屋証券取引所に株式上場した
- [10]1956年9月に大口工場を新設した
1967年豊田紡織への社名変更と自動車部品への接続
社名変更の前段には、紡績本業の不振があった。民成紡績は1966年4月にボーリングなど異業種への進出[11]で経営の多角化を狙ったが、この方針は実を結ばず6億円の赤字を出して無配に転落した。立て直しのため1967年6月、トヨタグループの総帥である石田退三氏[12]が代表取締役会長に就任した。同年8月、民成紡績は社名を豊田紡織株式会社に変更した[13]。1950年の独立時に付けた「民成」の名称を改め、豊田佐吉氏の系譜と本来の事業領域を象徴する「豊田紡織」を再び社名として掲げるとともに、遊休資産の処分を進めた。1968年3月には子会社の岐阜紡績株式会社を合併(現・岐阜工場)し[14]、同年8月には民成化学繊維紡績を合併して[15]、経営の立て直しと生産能力の集約を進めた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [11]民成紡績は1966年4月にボーリングなどへの進出で多角化を狙ったが失敗し6億円の赤字を出して無配に転落した
- [12]1967年6月にトヨタグループの総帥である石田退三氏が代表取締役会長に就任した
- [15]1968年8月に子会社の民成化学繊維紡績を合併した
- トヨタ紡織 有価証券報告書
- [13]1967年8月に民成紡績は社名を豊田紡織株式会社に変更した
- [14]1968年3月に岐阜紡績株式会社を合併した(現・岐阜工場)
1971年8月のニクソンショックと1973年10月の第一次石油危機は、日本繊維業界全体を直撃した。原油価格の高騰で合成繊維の原料コストが上昇し、ドル円の急変動で輸出採算が悪化した。加えて1970年代を通じて韓国・台湾・中国の繊維産業の競争力が向上し、日本繊維業界は構造的な国際競争力低下の局面に入った。豊田紡織も例外ではなく、紡績事業の収益性低下に直面した。ただし豊田紡織には、他の独立系紡績各社にはない選択肢があった。創業の系譜上、親密な関係にあるトヨタ自動車工業(当時)への部品供給という新たな事業領域の可能性である。1970年代初頭、繊維事業の構造的低迷とトヨタ自動車本体の成長という対照的な状況は、豊田紡織に事業領域転換の道を選ばせる契機となった。
1972年12月、豊田紡織は営業の目的に「自動車部品の製造、加工並びに販売」を追加[16]した。定款変更による事業領域の拡張であり、紡織会社から自動車部品メーカーへの転換を制度的に開始した瞬間である。1973年2月にはイグニッションコイルの製造を開始し[17]、自動車電装部品の生産にも着手した。同年9月にはシートファブリック(自動車シート用織物)の製造を開始し[18]、紡織技術を自動車内装分野へ転用する、本業との連続性のある事業を立ち上げた。1973年は豊田紡織が紡織会社から自動車部品メーカーへの転換を実務面で開始した年であり、後の内装システムサプライヤー化につながる始点となった。
- トヨタ紡織 有価証券報告書
- [16]1972年12月に営業の目的に「自動車部品の製造、加工並びに販売」を追加した
- [17]1973年2月にイグニッションコイルの製造を開始した
- [18]1973年9月にシートファブリック(自動車シート用織物)の製造を開始した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [11]民成紡績は1966年4月にボーリングなどへの進出で多角化を狙ったが失敗し6億円の赤字を出して無配に転落した
- [12]1967年6月にトヨタグループの総帥である石田退三氏が代表取締役会長に就任した
- [15]1968年8月に子会社の民成化学繊維紡績を合併した
- トヨタ紡織 有価証券報告書
- [13]1967年8月に民成紡績は社名を豊田紡織株式会社に変更した
- [14]1968年3月に岐阜紡績株式会社を合併した(現・岐阜工場)
- [16]1972年12月に営業の目的に「自動車部品の製造、加工並びに販売」を追加した
- [17]1973年2月にイグニッションコイルの製造を開始した
- [18]1973年9月にシートファブリック(自動車シート用織物)の製造を開始した