三井化学 の歴史

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創業 1933年
母体 三井鉱山
創業地 福岡県大牟田市
創業
現在の三井化学は、三井鉱山を母体とする2社と戦後の合弁1社が合わさってできている。1933年4月、三井鉱山の硫安事業として福岡県大牟田に資本金2,000万円の東洋高圧工業が設立された。1941年4月には三井鉱山の化学部門と目黒研究所が分離して三井化学工業(旧)ができ、その事業は1892年に三池炭砿が大牟田へ設けた三池焦媒工場のコークス製造にさかのぼる。1955年7月、三井グループ7社と興亜石油の共同出資で三井石油化学工業が設立され、旧陸軍燃料廠跡地の払い下げを受けた岩国工場が1958年2月に完成した。1997年10月、三井石油化学工業と三井東圧化学が対等合併して三井化学が発足する。合併比率は三井東圧0.6に対し三井石油化学1.0だった。
決断
重い設備は、いつも相手と半分ずつ持ってきた。1955年の共同出資に始まり、1967年11月には日本石油化学との折半出資で浮島石油化学を設立してエチレンの増強を共同で担った。1983年には三井東圧化学ら4社で三井日石ポリマーを設けて産構法の枠組みへ入る。1985年3月、エチレン生産は浮島石油化学へ全量集約され、岩国大竹工場からエチレンの火が消えた。同年10月には多角化・高付加価値化・国際化を掲げる中期ビジョンを発表した。1995年10月に宇部興産との折半でグランドポリマーを、2005年4月に出光興産との折半でプライムポリマーを設立し、2010年10月には出光興産と千葉地区エチレンの統合運営を始めた。折半の相手は日本石油化学から宇部興産、出光興産へ替わり、汎用石化の能力を自社だけで決めない形が70年続いている。
現況
売上で最大の事業だけが、3期続けて損失を出している。2026年3月期の連結売上高は1兆6,688億円、営業利益738億円。ベーシック&グリーン・マテリアルズは売上5,999億円で4事業の最大でありながら183億円の営業損失を計上し、2024年3月期の116億円、2025年3月期の114億円に続く3期連続の赤字となった。利益を出すのはモビリティソリューション(売上5,154億円・利益510億円)、ICTソリューション(2,794億円・369億円)、ライフ&ヘルスケア・ソリューション(2,591億円・342億円)の3事業である。この3事業は、2010年の農薬統合、2014年の調光レンズ材料取得、2018年1月のヘレウスからの歯科材料取得という性格の異なる買収を並べて作られた。
競合
三菱は医薬を、住友は石化を外し、三井化学は外す側に回らなかった。2000年11月、三井化学と住友化学は経営統合を発表したが、統合比率と経営権の調整が難航し、2003年3月に統合計画を撤回した。以後の3社は別々に動く。住友化学は2023年11月に抜本的構造改革を掲げ、50年以上続けたカプロラクタムから撤退した。三菱ケミカルグループは2020年に田辺三菱製薬を4,918億円のTOBで完全子会社化し、その5年後に米ベインキャピタルへ約5,100億円で譲渡している。三井化学は統合の代わりに武田薬品工業のポリウレタン材料、三共アグロの農薬、ヘレウスの歯科材料と小型の買収を継ぎ足した。統合が流れてからの25年で積み上げたのは相手を替えた買収であり、汎用石化の処理は2027年度の出光興産とのクラッカー集約へ持ち越されている。
三井化学:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1998年3月期2026年3月期

設立ストーリー 三井系8社の共同出資で始まった石油化学への進出 (1933年〜)

1955年・三井系8社の共同出資で生まれた「日本の石油化学元年」

三井化学の現在の系譜は、1933年に大牟田で硫安製造を始めた東洋高圧工業[1]、1941年設立の三井化学工業(旧)、[2]1955年7月に三井グループ7社と興亜石油の共同出資で設立[3]された三井石油化学工業の3つに分かれる。後者は戦後の通産省主導の石油化学育成策に応えて生まれた企業で、設立翌年から山口県岩国市の旧陸軍燃料廠跡地約32万平方メートル[4]の払い下げを受け、工場建設が始まった。石炭からコークスを経てベンゾールを得る原料体系を見直し、重油に切り替えて石油化学へ進むべき時期だという議論は、設立の前年には業界に出ていた[5]。1955年4月には、旧岩国燃料廠跡に14万5000坪の敷地を予定し、払い下げ決定を待ってチーグラー法でポリエチレン生産に乗り出す計画が報じられた[6]。単独で参入する体力が国内化学各社になく、三井系の総力を合わせる共同出資が唯一の解だった。

  • 三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [1]東洋高圧工業は1933年に大牟田で硫安製造を始めた
    • [2]三井化学工業(旧)は1941年に設立された
    • [3]三井石油化学工業は1955年7月に三井グループ7社と興亜石油の共同出資で設立された
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [4]設立翌年から山口県岩国市の旧陸軍燃料廠跡地約32万平方メートルの払い下げを受けた
  • 経済時代 1954年2月号
    • [5]石炭からコークスをつくりベンゾールを得る原料体系を再検討し、重油に切り替えて石油化学へ進むべき時期に来ているという議論が1954年の化学業界にあった
  • 読売新聞(1955年4月12日)
    • [6]1955年4月時点で三井石油化学は旧岩国燃料廠跡に14万5000坪の工場敷地を予定し、払い下げ決定次第チーグラー法でポリエチレン生産に乗り出す計画だった

前2社の前史をたどると、いずれも三井鉱山を母体としていた。東洋高圧工業は、1928年に三井鉱山が鈴木商店系のクロード式窒素工業の経営を引き受けて硫安工業に進出したのに始まり、1933年4月に資本金2000万円で設立された[7]。一方の三井化学工業(旧)は、1941年4月に三井鉱山の化学部門と目黒研究所が分離して資本金8000万円で設立されたもので[8]、その事業そのものは1892年4月に三池炭砿が附属事業として大牟田市に三池焦媒工場を設け、コークス製造を始めた歴史にさかのぼる。[9]肥料と石炭化学を出発点とする2つの前身が、すでに大牟田に根を張っていた。1952年に欧州を回った三井化学(旧)の首脳は、日本ではICIの特許によるポリエチレンしか分かっておらず新しい触媒法は性質すら未知だとしたうえで、他社の方法をなぞらず自社の知識を総動員して独自に企業化すべきだと語った[10]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [7]東洋高圧工業は1928年に三井鉱山が鈴木商店系のクロード式窒素工業の経営を引き受け硫安工業に進出したのに始まり1933年4月に資本金2000万円で設立された
    • [8]三井化学工業(旧)は1941年4月に三井鉱山の化学部門と目黒研究所が分離して資本金8000万円で設立された
    • [9]三井化学工業の事業は1892年4月に三池炭砿が附属事業として大牟田市に三池焦媒工場を設けコークス製造を始めた歴史にさかのぼる
  • 新日本経済 1952年2月号
    • [10]1952年に欧州を視察した三井化学(旧)の首脳は、日本ではICI特許のポリエチレンしか把握されておらずチーグラーの新法は性質も未詳だとして、他社のノウハウに頼らず独自の方法で企業化すべきだと述べた

1958年2月、岩国工場は年産2万トンのエチレン設備[11]と誘導品プラントを擁する総合石油化学工場として完成した。同社は日本で最初期にエチレン中心のコンビナートを稼働させた企業[12]の一つとなり、戦後日本の石油化学工業の起点を担った。操業開始時の岩国工場は、ポリエチレンをドイツと日本、フェノールを英国と米国、エチレンオキサイドを米国というように各国の最新技術を集め、全装置を自動運転し600人足らずの人員で年産100億円を見込む工場だった[13]。ポリエチレン・ポリプロピレンの量産と誘導品の誘致が岩国を拠点に始まり、後背地の広島・山口に派生産業を呼び込む形で瀬戸内コンビナート構想の先鞭となった。三井系の財界が国家プロジェクトとして支えた共同事業として、三井化学の出発点は単独経営ではなく協調体制の上にあった。この協調の型は、その後の外資合弁や業界合併の場面でも繰り返し現れる。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)/三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1958年に岩国工場が年産2万トンのエチレン設備を擁する総合石油化学工場として完成した
  • 三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [12]日本で最初期にエチレン中心のコンビナートを稼働させた企業の一つである
  • 新日本経済 1958年5月号
    • [13]岩国工場は1958年4月21日にプラントの大部分を完成して操業に入り、ポリエチレンはドイツと日本、フェノールは英国と米国、エチレンオキサイドは米国の技術を集めた全自動の装置を600人足らずの従業員で動かし年間100億円の生産を見込んだ
  • 三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [1]東洋高圧工業は1933年に大牟田で硫安製造を始めた
    • [2]三井化学工業(旧)は1941年に設立された
    • [3]三井石油化学工業は1955年7月に三井グループ7社と興亜石油の共同出資で設立された
    • [12]日本で最初期にエチレン中心のコンビナートを稼働させた企業の一つである
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [4]設立翌年から山口県岩国市の旧陸軍燃料廠跡地約32万平方メートルの払い下げを受けた
  • 経済時代 1954年2月号
    • [5]石炭からコークスをつくりベンゾールを得る原料体系を再検討し、重油に切り替えて石油化学へ進むべき時期に来ているという議論が1954年の化学業界にあった
  • 読売新聞(1955年4月12日)
    • [6]1955年4月時点で三井石油化学は旧岩国燃料廠跡に14万5000坪の工場敷地を予定し、払い下げ決定次第チーグラー法でポリエチレン生産に乗り出す計画だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [7]東洋高圧工業は1928年に三井鉱山が鈴木商店系のクロード式窒素工業の経営を引き受け硫安工業に進出したのに始まり1933年4月に資本金2000万円で設立された
    • [8]三井化学工業(旧)は1941年4月に三井鉱山の化学部門と目黒研究所が分離して資本金8000万円で設立された
    • [9]三井化学工業の事業は1892年4月に三池炭砿が附属事業として大牟田市に三池焦媒工場を設けコークス製造を始めた歴史にさかのぼる
  • 新日本経済 1952年2月号
    • [10]1952年に欧州を視察した三井化学(旧)の首脳は、日本ではICI特許のポリエチレンしか把握されておらずチーグラーの新法は性質も未詳だとして、他社のノウハウに頼らず独自の方法で企業化すべきだと述べた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)/三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1958年に岩国工場が年産2万トンのエチレン設備を擁する総合石油化学工場として完成した
  • 新日本経済 1958年5月号
    • [13]岩国工場は1958年4月21日にプラントの大部分を完成して操業に入り、ポリエチレンはドイツと日本、フェノールは英国と米国、エチレンオキサイドは米国の技術を集めた全自動の装置を600人足らずの従業員で動かし年間100億円の生産を見込んだ

千葉工場のエチレン12万トン ── 世界規模を選んだ1967年の判断

もっとも、1962年初めの時点での岩国・大竹地区は、三菱の四日市に比べれば見劣りする陣容だった。三井系のコンビナートはあらゆる面で四日市と差があり、形が整ってきたのはごく最近で参加企業も少なく規模も小さい、資本の出し手としては三井系各社が名を連ねていても現地に工場を建てたのは三井化学工業だけだ、と評されている[14]。同じ年には業界の内側からも、石油化学は成長産業には違いないが先進国に10年20年の遅れがあり、原料は同じ条件で海外から買い、装置産業ゆえ人件費の優位も働かず金利負担は重く、技術は導入品に手を加えている段階で強みらしい強みがない、それなのに新規計画だけが目白押しに出てくる、という反省が語られた[15]。関東で世界最大級の一基を建てるという判断は、こうした懐疑を織り込んだうえでの規模の選択だった。

  • ダイヤモンド 1962年2月15日号
    • [14]1962年時点の岩国・大竹地区コンビナートは三菱の四日市より参加企業も規模も小さく、三井系で現地に工場を設けていたのは三井化学だけだった
  • 野田経済 1962年6月号
    • [15]1962年当時、石油化学は成長産業だが先進国に10〜20年の遅れがあり原料条件は同じ、装置産業ゆえ人件費の優位もなく金利負担は重く技術も導入頼みで強みがないまま新規計画だけが相次いでいるという反省が業界内で語られた

岩国大竹工場の建設と並行して、需要地である関東で立地を探していた同社は、三井物産の推奨で千葉県五井姉崎の埋立地への進出を決めた[16]。1961年に東洋レーヨンや三井物産など三井系各社とともに約330万平方メートルの埋め立て分譲契約を千葉県と締結し、1967年3月に千葉工場が操業を始めた[17]。エチレン能力は年産12万トンで[18]、当時としては日本最大、世界でも最大級のプラントだった。東洋高圧工業の肥料事業と三井化学工業(旧)の染料・医薬事業に加え、三井石油化学の基礎化学品生産という3つの事業基盤が、千葉・岩国大竹・大牟田の3拠点に分かれて布陣する構図もここで整った。国内他社の追随を許さない規模投資であり、岩国大竹の後背地として東西2極を形づくる布石となった。

  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [16]千葉県五井姉崎の埋立地へ進出することを決めた
  • 三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1967年3月に千葉工場が操業を始めた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)/三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [18]千葉工場のエチレン能力は年産12万トンで当時日本最大・世界でも最大級だった

これにより同社は東西2極の供給体制を整え、1962年に東証・大証2部[19]、1965年に1部へ指定替えされた[20]。1960年代後半に国内エチレン業界ではプラントの建設競争が激化し、1969年から1972年にかけてエチレンプラント9基が新設された。この設備投資ラッシュに対し同社は単独拡張を避け、1967年11月に日本石油化学との折半出資で浮島石油化学を設立し、能力増強を共同で担う独自モデルを採った。共同出資による拡張は1955年の創業時の枠組みを応用したやり方で、協調で戦う同社の行動様式を示す選択となった。単独増強による設備過剰のリスクを避けながら規模の経済を確保する折衷型の成長戦略は、ここで同社の基本型として定着した。

  • 三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1962年に東証・大証2部へ上場した
    • [20]1965年に東証・大証1部へ指定替えされた
  • ダイヤモンド 1962年2月15日号
    • [14]1962年時点の岩国・大竹地区コンビナートは三菱の四日市より参加企業も規模も小さく、三井系で現地に工場を設けていたのは三井化学だけだった
  • 野田経済 1962年6月号
    • [15]1962年当時、石油化学は成長産業だが先進国に10〜20年の遅れがあり原料条件は同じ、装置産業ゆえ人件費の優位もなく金利負担は重く技術も導入頼みで強みがないまま新規計画だけが相次いでいるという反省が業界内で語られた
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [16]千葉県五井姉崎の埋立地へ進出することを決めた
  • 三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1967年3月に千葉工場が操業を始めた
    • [19]1962年に東証・大証2部へ上場した
    • [20]1965年に東証・大証1部へ指定替えされた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)/三井化学 有価証券報告書【沿革】
    • [18]千葉工場のエチレン能力は年産12万トンで当時日本最大・世界でも最大級だった

浮島集約と産構法 ── エチレンの火が岩国大竹から消えた日

二度の石油危機と為替変動相場制への移行は、設備過剰に苦しむ石油化学業界を直撃した。1983年には同社・三井東圧化学・日本石油化学・三井デュポンポリケミカルの4社で三井日石ポリマーを設立し、特定産業構造改善臨時措置法(産構法)に基づく過剰設備処理の枠組みに入った。1984年から1985年にかけて、同社は岩国大竹工場のエチレン8万7000トンと千葉工場の14万3000トンを廃棄した[21]。国主導の業界再編に全面的に組み込まれ、拡大の時代から整理の時代への転換を主力拠点で引き受けた。折半出資で拡張した浮島石油化学の枠組みはそのまま能力削減の受け皿となり、共同事業という出発点がこのときも意思決定の前提となった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [21]1984年から1985年にかけて岩国大竹工場のエチレン8万7000トンと千葉工場の14万3000トンを廃棄した

1985年3月、同社のエチレン生産は浮島石油化学に全量集約され、岩国大竹工場からエチレンの火が消えた。日本の石油化学発祥の地から基幹設備が消えたこの再構築は、産構法時代の業界再編を代表する事例となった。事業内容は千葉工場を基礎化学品の生産拠点、岩国大竹工場を高度技術による特殊化学品の中核拠点とするものに改められ、汎用品から特殊品への転換が事業構造として明示された。創業から30年で、出発地である岩国大竹は汎用エチレンの現場ではなく特殊品拠点として第二の役割を担う場に生まれ変わった。その後のライセンス収益と機能性素材事業の地盤づくりは、ここから始まった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [21]1984年から1985年にかけて岩国大竹工場のエチレン8万7000トンと千葉工場の14万3000トンを廃棄した

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三井化学の沿革1933〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1933〜1984年三井系8社の共同出資で始まった石油化学への進出東洋高圧工業設立
三井化学工業設立
三井化学工業が名古屋工場操業開始
三井石油化学工業を設立★★
岩国工場操業開始
安居喜造岩国大竹工場へ拡張
安居喜造東京証券取引所・大阪証券取引所2部に上場
岩永巌千葉工場操業開始
岩永巌浮島石油化学を設立
岩永巌東洋高圧工業が三井化学工業を吸収合併し三井東圧化学に商号変更★★
鳥居保治東京セロファン紙に資本参加
鳥居保治独自触媒技術によるポリオレフィン技術を確立
中野精紀構造改革によりエチレン設備を大幅縮小★★
1985〜2009年「超石油化学」宣言から三菱追随の対等合併と住友化学との統合撤回中野精紀エチレン生産を浮島石油化学に集約完了
竹林省吾エチレンの浮島集約と「超石油化学」ビジョン ── 汎用石化からの脱却宣言

1985年、三井石油化学工業が産構法に基づく過剰設備処理でエチレン生産を浮島石油化学へ全量集約し、同年10月に『超石油化学』を掲げる経営ビジョンを打ち出した経営判断。汎用の量産型石油化学から、特殊化学品と機能性素材へ事業構造を転換する転機となった。

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★★★
竹林省吾新技術研究開発センター設置
竹林省吾Mitsui Toatsu Chemicals (Asia) Pte.Ltd.設立
竹林省吾Mitsui Petrochemical Industries Europe GmbH設立
幸田重教宇部興産との折半出資でグランドポリマーを設立
佐藤彰夫三井東圧化学と合併し三井化学に商号変更★★
佐藤彰夫三井化学(上海)有限公司設立
中西宏幸武田薬品工業のポリウレタン材料事業を統合し三井武田ケミカル設立
中西宏幸三井化学と住友化学の経営統合(2003年破談)

2000年に発表された三井化学と住友化学の全面的事業統合。実現すれば三菱化学を抜き国内最大級の総合化学会社が生まれるはずだったが、2003年3月に統合比率で折り合えず白紙撤回された。

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中西宏幸Advanced Composites Inc.発足
中西宏幸大阪証券取引所1部上場廃止(東京証券取引所1部上場は継続)
中西宏幸出光興産とのJVプライムポリマーを設立★★
藤吉建二三井化学ポリウレタンを吸収合併
2010〜2019年3期連続赤字から淡輪敏の構造改革で営業利益1021億円まで戻した5年田中稔一三共アグロの農業化学品事業を統合し三井化学アグロ設立
田中稔一初の連結純損失計上★★
淡輪敏収益力大幅回復
淡輪敏Heraeus Kulzerの歯科材料事業を買収★★
淡輪敏橋本修が代表取締役社長に就任
橋本修SKC Co. Ltd.とポリウレタン材料事業を統合★★
橋本修アーク・本州化学工業を子会社化
橋本修SKCとのポリウレタンJVを解消
市村聡市村聡が代表取締役社長に就任予定
出典・参考
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)/三井化学 有価証券報告書【沿革】
  • 三井化学 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 新日本経済 1952年2月号
  • 経済時代 1954年2月号
  • 新日本経済 1958年5月号
  • ダイヤモンド 1962年2月15日号
  • 野田経済 1962年6月号
  • 読売新聞(1955年4月12日)

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