東洋曹達工業は1935年2月[1]、徳山曹達(現トクヤマ)の専務だった岩瀬徳三郎[2]が『理想的アンモニア法ソーダ工場[3]』を掲げて山口県富田町(現周南市)に資本金[4]300万円で設立した会社である。化学繊維のレーヨン・スフ向けに大量の苛性ソーダとソーダ灰を供給することが設立目的であり、翌1936年5月にアンモニア法ソーダ灰の量産を始めた[5]。ソーダ需要の急増を受けて1937年4月には資本金を300万円から1000万円へ増資し、ソーダ灰の能力は当初計画の日産200トン[6]から1938年12月には日産560トンへ伸びた。クロル・アルカリは塩・電力・石灰石を大量に消費し、膨大な川下需要を抱える典型的な装置産業である。瀬戸内沿岸では先行する徳山曹達の専務だった岩瀬自身が新会社を率いて同業へ競合参入した形となり、創業時点の生産は南陽の1拠点に集中した。
戦時中は人絹・スフ工業の伸びでソーダ需要が拡大し[7]、1942年には海軍の要請に応えて海水直接法による国産初の臭素工場を南陽に立ち上げる。[8]アンチノック剤の原料調達という戦時統制下の国産化要請に応える事業であり、ソーダ灰・苛性ソーダ・臭素という製品ポートフォリオが広がった。一方で設備投資は依然として南陽事業所1拠点に集中し、瀬戸内の海と塩田と石炭火力という立地条件を生かしてクロル・アルカリと無機薬品を南陽の地面に積み上げる構図が、戦時下から終戦直前までの東洋曹達の素顔となる。新拠点を地方へ広げる余力は戦時経済の統制のなかでは許されず、単一拠点への集中が逆に事業の急拡大を許した面もある。
敗戦により1946年8月、アンモニア法ソーダ・電解法ソーダの両工場[9]がGHQの賠償指定を受け、看板事業であるアンモニア法の操業再開は1950年までの4年間待たされた。当局の許可で操業を続けられた電解法ソーダ工場を軸に、この空白期間を埋めたのは電解法による苛性ソーダや有機薬品の自社生産で、本業を取り上げられた設備の遊休化を避ける代替商品づくりの色合いが強かった。1947年にはクロールスルホン酸を皮切りに塩素・臭素系の化学薬品へ進出[10]し、アンモニア法ソーダの操業再開許可は1950年1月、賠償指定そのものの解除は1952年4[11]月だった。空白を埋める苦肉の策の延長線上で、東洋曹達は1953年10月、小野田セメントとの提携[12]によって南陽の構内にセメント工場を完成させ、『三白景気』と呼ばれた戦後復興期のセメント特需の波にこの新工場で乗る。これがソーダ専業からの脱却に向けた最初の一歩となった。
1954年、3代目社長貞永敬甫の急逝を受けて二宮善基が社長に就任する[13]。二宮は本社主導の合理化と継続的な設備投資を陣頭で進め、1954年度に約57億円だった売上高は、1963年度には約136億円と9年間で2倍以上[14]へ伸びた(『日本会社史総覧』1995年版)。本業の苛性ソーダ・ソーダ灰の能力増強に加え、1962年に燐酸製造設備を新設[15]、1965年には米国ストウファー・ケミカルとの合弁会社を設立[16]、1971年4月には液体クロマトグラフィー用カラムの自社開発を糸口[17]に科学計測事業へ進出した。二宮体制のもとで事業領域は、本業の無機ソーダ事業の周辺へ同心円状に広がる。設備投資と小粒な異業種連携の積み重ねが、のちに『第三の事業の柱』と呼ばれる機能商品群の遠い種を蒔いた格好である。
二宮体制のもとで南陽の構内に並んだ設備は、ソーダ本体だけにとどまらない。1956年4月に水銀電解法ソーダ工場を新設[18]して電解能力を積み増したのに続き、1959年11月に塩安肥料工場、1960年1月に農薬EDB工場、1962年1月にアンモニア工場を相次いで立ち上げる[19]。ソーダ灰と塩化アンモニウムを同じ工程から取り出す併産法は自社の技術陣が生んだもので[20]、肥料と農薬という新しい需要家を南陽の生産に結びつけた。能力の増加に合わせて販売側も広げ、福岡と名古屋に営業所を置いて西日本と中部の販路を自前で押さえる[21]。1964年8月には水銀電解法ソーダの増産設備が完成し、電解の規模はさらに一段上がった[22]。
1964年の周南地区石油化学コンビナート発足を受けて[23]、東洋曹達は石油化学事業への本格進出を決めた。地元の徳山曹達との合弁で周南石油化学を設立してEDC(二塩化エチレン)工場[24]を新設し、1966年5月には自社技術であるオキシクロネーション法による塩化ビニルモノマー製造を開始[25]、同年9月に低密度ポリエチレン[26]、翌1967年10月にエチレンアミンと[27]、苛性ソーダの川下にあたるオレフィン・塩ビ系の中間化学品を南陽の構内に立て続けに並べた。電解工場と石油化学プラントを同じ敷地内で噛み合わせる『ソーダ・塩ビ一貫』生産方式の素地は、ここで形になる。苛性ソーダで生じる塩素を社内で塩ビモノマーの原料に直結させる設計は、副産物の塩素を社外販売せずに済む合理的な選択でもあった。
石油化学の装置は自前の資本だけでは背負いきれず、東洋曹達は相手を選んで合弁を重ねた。1966年4月に日本ポリケミカルを設立して高圧法ポリエチレンを企業化し[28]、1967年3月には米国エチル社などとの合弁で東洋エチルを設けてガソリン用アンチノック剤へ入る[29]。海水から臭素を取る技術を持つ自社と鉛系の製造技術を持つ相手を組ませた事業で、戦時に海軍向けとして始めた臭素が、二十数年を経て自動車燃料の添加剤という民需につながった。設備の重さは資本金にそのまま表れ、1963年10月に33億4400万円、1965年2月には50億2000万円[30]、売上高も1967年9月期に107億9900万円と初めて100億円を超える[31]。
ただし石油化学事業は依然として南陽1拠点に集中しており、敷地と用水とエチレン供給というコンビナート規模の事業展開に必要な前提条件には、明らかな地理的天井があった。塩ビモノマー製造の稼働によってソーダ専業からの卒業は形のうえでは果たされたものの、住友化学・三菱化成・三井東圧と並ぶ『総合化学会社』の規模に到達するには、南陽の外にもう一つの製造拠点と石油化学のエチレンセンターが必要になる。そこから生まれたのが、東洋曹達にとって創業以来初めて南陽以外の地に本格工場を構える四日市進出という賭けだった。
1969年、三重県の四日市コンビナートで中核企業のひとつとなっていた大協和石油化学を軸とする能力増設計画に相乗りする形で、東洋曹達は南陽以外の地に持つ初めての主力工場となる四日市進出を決めた。1971年に塩化ビニルモノマー工場と水銀法電解ソーダ工場、1972年に高圧ポリエチレン工場、1973年に塩ビポリマー工場を順次完成させて四日市事業所の基盤を整え、同事業所はわずか3年あまりの建設工事で南陽と並ぶ第二の主力工場となる。創業から36年にわたって南陽事業所だけの1社1工場[32]で事業を続けた会社が、地理的にも複数拠点体制を備えた化学メーカーへ転換した瞬間である(『日本会社史総覧』1995年版)。
四日市進出と並行して、東洋曹達は1970年代に入ると海外への生産拠点展開も同時に走らせる。1973年にギリシャでテッコウシャ・ヘラスを設立して電解二酸化マンガンの製造[33]に着手したのを皮切りに、1975年にはインドネシアで塩ビポリマー[34]、1978年にはオランダでエチレンアミンと[35]、地中海沿岸・東南アジア・北西欧という三方面の市場に向けて海外生産拠点が立ち上がった。今日まで東ソーの特徴である海外売上比率の高い化学品ポートフォリオの原型は、四日市の建設工事と並走する形で生まれる。事業環境の変化に応じた柔軟な対応が、同社の競争力を支えた。
1975年4月、東北のフェロアロイメーカーから電解二酸化マンガン・塩ビポリマーへの多角化を進めていた鐵興社を吸収合併する[36]。この合併で山形・富山・日向・酒田・石巻の5工場が加わり[37]、本社直轄の南陽・四日市と合わせて一挙に7工場体制となった。同年4月には神奈川県綾瀬市に東京研究センターを完成[38]させて研究開発機能の集約も並行し、組織面でも全国規模の総合化学会社としての輪郭が整う。鐵興社合併は、東北・九州・北陸への地理的な拡張と、特殊鋼・フェロアロイ系製品ラインナップの拡大を一度の取引で同時に達成した、東ソーの歴史のなかでも最大級のM&Aだった。
合併相手の鐵興社は、1925年3月に資本金5万円の合資会社として合金鉄の製造を目的に興った会社である[39]。1928年10月に株式会社へ改めて福島に工場を建てたのち、東北の余った電力を使う狙いで山形・伊達・藤島・酒田・土崎・青森・黒沢尻と各地に工場を置き、北海道には鉱山を開いて原料まで押さえた[40]。1938年には主力となる酒田大浜工場を設け、フェロアロイに苛性ソーダとカーバイドを重ねて電気化学の会社としての形を作る[41]。戦後は1949年に酒田大浜で塩化ビニルの企業化に成功し、1953年に富山工場、1957年に武蔵野の中央研究所と広げ、1968年3月期には化成部門が売上の81%を占めていた[42]。
1970年代後半の日本の化学産業を襲った二度のオイルショックを受け、東洋曹達は重油から石炭への燃料転換を急ぎ、1982年6月に南陽事業所に石炭専焼ボイラーを新設[43]するなど、エネルギー構成の組み替えで装置型事業の構造改善を行った。1984年、6代目社長森嶋東三の急逝を受けて山口敏明が新社長に就任[44]すると、クロール・アルカリ事業の国内首位化、新規事業の育成、研究開発体制の強化、CI導入と新本社機能の整備による国際化対応など、事業の重心を装置産業の効率改善から『総合化学への脱皮』へ動かす一連の経営課題に取り組む方針が打ち出された。
山口敏明社長の主導で1987年10月、CI導入と企業理念の策定を伴う社名変更を実施する。社名を『東洋曹達工業』から『東ソー』[45]へと改めた――ソーダ専業の色合いを色濃く残す旧社名から、スペシャリティ事業まで取り込んだ総合化学会社としての新ブランドへの転換である。並行して山口体制が『第三の事業の柱』と呼んだスペシャリティー事業(科学計測・機能材料・電子事業)の基盤整備を進め、1988年に北米VARIAN社からスパッタリングターゲット部門を買収してトーソー・SMD, Inc.を設立し[46]、半導体材料事業へ本格参入した。電解工場主体の素材会社が電子材料の供給会社へと顔を広げた、社名変更を象徴する節目の年だった。
1990年10月、四日市コンビナートのエチレンセンターを担っていた新大協和石油化学と、その下流の四日市ポリマーを同時に合併[47]する再編に踏み切る。これによってエチレンを起点とするオレフィンとその誘導品ラインナップを東ソー本体で握る石油化学の一貫体制が完成し、合併直後の連結売上高は約3300億円にまで跳ね上がった[48]。1969年の四日市進出決定から21年、創業から数えれば55年の歳月を費やして、東ソーは住友化学・三菱化成・三井東圧と並ぶ日本を代表する総合化学会社と評される地位に到達[49]した(『日本会社史総覧』1995年版)。エチレン・塩ビ・苛性ソーダを瀬戸内と伊勢湾の二極で走らせる体制は、国内装置型化学メーカーとしては異例の二拠点均衡型となった。
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|---|---|---|---|---|
| 1935〜1968年南陽1工場・ソーダ専業の34年と事業基盤の拡充 | 東洋曹達工業を設立 | ★ | ||
| 南陽事業所でソーダ灰製造開始 | ★ | |||
| 海水直接法による国産初の臭素製造を開始 | ★ | |||
| 南陽事業所で苛性ソーダ製造設備新設 | ★ | |||
| 貞永敬甫 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 貞永敬甫 | 東洋港運を設立 | ★ | ||
| 貞永敬甫 | 小野田セメントとの提携でセメント製造を開始 | ★★ | ||
| 二宮善基 | 二宮善基氏が社長に就任 | ★ | ||
| 二宮善基 | 日本オルガノ商会に資本参加 | ★ | ||
| 二宮善基 | 日本シリカ工業を設立 | ★ | ||
| 二宮善基 | 石油化学事業への参入を決定 | ★★ | ||
| 二宮善基 | ストウファー・ケミカル社と合弁で東洋ストウファー・ケミカルを設立 | ★ | ||
| 二宮善基 | 塩化ビニルモノマー製造設備新設(自社オキシクロネーション法) | ★ | ||
| 二宮善基 | 低密度ポリエチレン製造設備新設 | ★ | ||
| 二宮善基 | エチレンアミン製造設備新設 | ★ | ||
| 1969〜1989年四日市進出と新大協和合併で総合化学に化ける | 青木周吉 | 四日市事業所建設に着手 | ★ | |
| 青木周吉 | 科学計測事業に参入 | ★★ | ||
| 青木周吉 | クロロプレンゴム製造設備新設 | ★ | ||
| 青木周吉 | 鐵興社と合併し7工場体制に | ★★ | ||
| 森嶋東三 | トーソー・USA, Inc.を設立 | ★ | ||
| 森嶋東三 | 酒田・石巻両工場を分離し東北東ソー化学を設立 | ★ | ||
| 森嶋東三 | ジルコニア粉末製造設備新設 | ★ | ||
| 山口敏明 | 山口敏明氏が社長に就任 | ★ | ||
| 山口敏明 | 東ソーに商号変更 | ★ | ||
| 山口敏明 | 北米VARIAN社よりターゲット部門を買収しトーソー・SMD, Inc.を設立 | ★ | ||
| 1990〜2024年ビニル100万t体制と機能商品の台頭と事業基盤の拡充 | 山口敏明 | 新大協和石油化学・四日市ポリマーと合併 | ★★ | |
| 山口敏明 | バブルをまたいだ石油化学の強気拡張と反動——エチレン増設・10事業撤退・塩ビ選別再投資 1990年10月の新大協和石油化学の合併で石油化学の一貫体制を得た東ソーが、バブル末期に強気のエチレン新設へ進み、崩壊後の1993年に10事業からの撤退を含むリストラへ転じ、1995年に塩ビへ絞った選別再投資『強きを強く』に行き着くまでの、拡張と反動をまたぐ一連の経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田代圓 | スパッタリングターゲット部門を分離し東ソー・スペシャリティマテリアル設立 | ★ | ||
| 田代圓 | 日向工場を分離し東ソー日向を設立 | ★ | ||
| 田代圓 | ビニル・チェーン関連大型投資により苛性ソーダ・塩ビモノマー年産100万t体制を確立 | ★★ | ||
| 土屋隆 | 東曹(広州)化工有限公司を設立 | ★ | ||
| 土屋隆 | 日本ポリウレタン(瑞安)有限公司を設立 | ★ | ||
| 土屋隆 | ビニル・イソシアネート・チェーン大型投資完了 | ★ | ||
| 土屋隆 | 宇田川憲一が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 土屋隆 | 初の連結営業赤字・純損失に転落 | ★★ | ||
| 宇田川憲一 | 日本ポリウレタン工業と合併 | ★★ | ||
| 宇田川憲一 | トーソー・アドバンスド・マテリアルズSdn.Bhdを設立 | ★ | ||
| 山本寿宣 | 山本寿宣が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 山本寿宣 | 汎用の塩ビ・クロールアルカリ基盤事業を捨てず磨き切る「死守と復活」戦略 2010年代、東ソーはアジア勢が縮小・撤退する汎用の塩ビ・クロールアルカリと電解二酸化マンガンを縮小せず、コストと技術で競争力を磨いて残す『死守と復活』の路線をとった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山本寿宣 | 東曹投資有限公司を設立 | ★ | ||
| 桒田守 | 桒田守が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 桒田守 | トーソー・ベトナム・ポリウレタンCo.Ltdを設立 | ★ | ||
| 桒田守 | 新中期経営計画(2025-2027年度)始動 | ★ | ||
| 桒田守 | FY2025通期業績予想を下方修正 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(東ソー)