KDDルートKDDの国内延伸による企業向け国内電話への参入と、列島周回海底ケーブルの敷設
国際で失う分を国内で埋められるか——独占事業者が越境した1997年
- 概要
- 1997年6月の国際電信電話株式会社法の改正を受け、KDDが同年7月26日に企業向け国内電話を始めた経営判断。顧客企業と交換機を専用線で結ぶ既存の「ルートKDD」を国内通話へ広げ、1998年4月には個人向け国内長距離にも参入した。
- 背景
- KDDの営業利益率は20年で20%から5%へ下がり、1997年3月期には5%を割り込んだ。米国発信に切り替えて料金を下げるコールバックが広がり、国際専用線の両端に公衆網をつなぐ国際公専公の解禁も控えていた。
- 内容
- 基本料月2万円・全国一律の企業向け料金で参入し、100km超・平日昼間はNTTより51%安くした。並行して総延長1万300km・総工費1300億円の列島周回海底光ケーブル(JIH)を敷き、DDI・テレウェイ・東京通信ネットワークとの提携で足回りを補った。
- 含意
- 国際通信を売上の4分の3に据えたまま国内を足す構想であった。国際の値崩れは想定より速く、経常利益は312億円から208億円、さらに170億円の見通しへ下がり、参入先の市外電話も1998年2月に最遠距離3分80円まで下がっていた。
手持ちの資産を、そのまま国内へ延ばす
3000社7600回線のルートKDDと、海底に線を敷く技術。KDDが国内へ出るときに手にしていたのは、この二つであった。営業網も市内回線もない会社が9兆円の市場に入るには、すでにある資産を国内へ延ばすほかない。企業向けを先にして個人向けを1年後に回した順番も、国内幹線を海に敷いた選び方も、そこから素直に導かれる。西本社長が国際通信を売上の4分の3に据えたまま国内を足したのは、国際で付き合いのある企業をそのまま国内の顧客として数えられるとみていたからだとみられる。
ただ、国内で足す分より国際で失う分のほうが速かった。経常利益は312億円から208億円へ落ち、参入の翌期には170億円までの下落が見込まれていた。参入先の市外電話も、個人向けを始める2カ月前に3分80円まで下がっている。1300億円を投じたJIHは1999年まで動かず、費用だけが先に立った。国際の値崩れを国内で埋めるという1997年の算段は、埋める側の値段も同じ速さで崩れるという条件までは織り込めていなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
崩れた国際電話の値段
国際電話の値段は、1990年代の半ばから崩れ始めた。KDDの営業利益率はこの20年で20%から5%へ下がり、1997年3月期にはついに5%を割り込んだ。相次ぐ値下げと割引制度の導入が直接の原因であったが、より重かったのは、日本からの通話を料金の安い米国発信に切り替えるコールバックの普及であった。セメントプラント建設の小野田エンジニアリングは1997年3月にコールバックへ切り替え、月100万円を超えていた国際電話代が4月には70万円で済んだ[1][2]。
コールバックを手がける業者は大小あわせて30社を超え、日本の国際電話市場の4〜5%を占めるまでになったといわれた。1997年中には、国際専用線の両端に公衆網をつなぐ国際公専公の解禁も控えていた。そもそも日本の国際電話市場は3500億円と、神奈川県一県の国内通信市場ほどの大きさしかない。その狭い市場をKDD・IDC・ITJの3社で分け合ってきたところへ、値段だけを武器にした新手が次々に入り込んだ[3][4]。
法改正と、手元にあった専用線
参入の扉は、法律の側から開いた。1997年6月13日、国際電信電話株式会社法の改正が国会で成立し、KDDに国内通信の道が開かれた。同じ規制緩和でNTTも子会社を通じて国際通信に出ることが決まり、国際と国内を隔ててきた壁は双方向で外れた。KDDは6月27日の株主総会で定款を変更し、郵政省の認可を得たうえで、国内サービスを三段階に分けて始める段取りをとった[5][6]。
もっとも、法が変わっただけで顧客がつくわけではない。KDDには「ルートKDD」という下地があった。顧客企業とKDDの交換機を専用線で直結し、割安な国際電話を届ける仕組みで、1997年前半の時点で3000社7600回線がKDDとつながっていた。西本正社長は「国内に進出したら、まずこのユーザーがお客さんになる」と語り、秋までにルートKDDの対象地域を19から35へ広げて顧客の獲得に動いた[7]。
決断
専用線をそのまま国内へ延ばす
1997年7月26日、KDDは企業向けの国内電話を始めた。ルートKDDの専用線を国内通話にも使い、基本料は月2万円、通話料はルートKDD契約者同士で3分42円、相手がNTT加入者なら3分54円とした。距離に関係のない全国一律の料金であり、100キロメートル超・平日昼間ならNTTより51%安くなる。契約回線は7600回線であったが、西本社長は1998年3月末に1万回線まで増やす考えを示した[8][9]。
参入は三段階に分けられた。第一弾が企業向け、第二弾が1998年4月からの個人向け国内長距離で、新電電のような事前登録を求めず、相手の番号の前に「001」を付けるだけでつながる仕組みとした。ICカード式の公衆電話「ICグローバルホン」も国内通話に開き、市内3分20円とNTTの30円より下げた。KDDは2000年度に本体で売上高4500億円・経常利益300億円を掲げ、うち国内通信で1200億円を見込んだ[10][11]。
国内幹線を海に敷く
足回りの回線を他社から借り続ける限り、料金では勝てない。1996年8月、KDD本社に15人のプロジェクトチームが置かれた。リーダーとなったネットワーク計画部の嶋谷吉治・技術総括担当部長は、夏休みを返上して日本列島の海岸線を歩き、陸揚げ地の漁業協同組合との折衝を重ねた。日本列島を光ファイバーで環状に取り囲むJIH(列島周回海底光ケーブル)は、総延長1万300km、総工費1300億円の計画であった[12]。
海に敷く理由は費用にあった。陸上に光ファイバーを敷けば1kmあたり1億円以上かかる。西本社長は「陸より海に敷く方がコストは170分の1で済む」と述べ、陸揚げや漁業補償を含めても地上建設のおよそ10分の1に収まると説明した。容量は100Gbpsで電話約120万回線分にあたり、うち20GbpsはすでにDDIへの販売が決まっていた。KDDはJIHを東京通信ネットワークなど電力系の地域網につなぎ、年300数十億円のNTT網使用料を200億円ほどへ減らす計画であった[13][14][15]。
結果
提携で埋めた足回り
国内の回線も顧客も持たないまま参入した以上、他社の力を借りるほかなかった。1997年8月、KDDは第二電電(DDI)と日本高速通信(テレウェイ)の双方と業務提携を結び、再販子会社を通じて国際と長距離をまとめ、大口割引で売る仕組みをつくった。請求書も一本化される。KDDの天野正紀取締役は両社と「等距離」だと説明したが、統一ブランドやマルチメディア、設備の共同建設まで盛り込んだのはDDIとの提携であった[16][17]。
回線の側でも手を打った。KDDは東京通信ネットワーク(TTネット)と、NTTの回線を経由せずに接続するGC接続で提携し、接続料の支払いを抑えた。両社はすでにJIHで組んでおり、ケーブルが陸に上がった先を電力系の地域網が受け持つ形が整った。営業はDDIの分厚い顧客名簿に、伝送路は自前のJIHと電力系の網に頼る——国内に足場のない事業者が1年足らずで組み上げた参入の骨格であった[18][19]。
入った先も、値下げの市場だった
1998年4月、KDDは個人向けの国内長距離電話を始めた。参入先の国内通信は9兆円の市場であり、3500億円の国際電話とは桁が違う。ただし値段の下がり方も速く、市外電話は1998年2月に最遠距離で3分80円まで下がっていた。KDDの料金はそれを下回る70円台と見込まれ、西本社長も「できるだけ安い値段で」と述べるにとどめた。参入したその日から、KDDは値下げ競争の当事者になった[20][21]。
本業の国際電話も削られ続けた。経常利益は1996年3月期の312億円から1997年3月期に208億円へ落ち、1998年3月期は170億円までの下落が見込まれた。1997年10月には深夜割引の時間帯を広げる「ヨルドニッチ」を始め、大口割引と重ねれば通常の最大6割引となる料金で応じた。人員では、1997年末に5800人であったグループ社員を、2001年3月期に4300人(うち本体2800人)まで減らす計画を示した[22][23][24]。
- 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
- 週刊東洋経済 1997年3月15日号「インタビュー KDD社長 西本正 国際通信の強化をテコに国内にも参入」
- 週刊東洋経済 1997年8月2日号「[編集長インタビュー]西本正 国際電信電話(KDD)社長」
- 週刊東洋経済 1997年8月23日号「[フラッシュ]KDD 3社提携で第三勢力形成」
- 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」