KDD国際電信電話株式会社法の廃止と特殊会社からの離脱

自由か、保護か——国が事業を保証しなくなる立場を、西本正社長はなぜ自ら求めたか

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時期 1998年5月
意思決定者(推定) 西本正 社長
論点 制度と会社の形
概要
1998年、国際電信電話が特殊会社としての立場を手放した判断。1952年に制定された国際電信電話株式会社法は、同年5月8日公布の規制合理化法によって廃止され、12月1日に効力を生じた。1953年の設立から45年で、事業の範囲も料金も法に縛られる会社ではなくなった。
背景
1985年4月の電気通信事業法改定で制度上の独占が消え、1989年にはITJ・IDCの参入で実態の独占も崩れていた。それでも国際電信電話株式会社法だけは残り、料金の認可をはじめとする第一種電気通信事業者への規制が同社にかかり続けた。
内容
1997年の改正法に付いた付帯決議は「将来の完全民営化をめざし……特にKDDについては時期を逸することなく検討し結論を得ること」と求めた。西本正社長はこれを引き、NTTの長距離会社が完全民営化されるのにKDDだけが特殊法人のままではいられないと語った。
含意
法を手放すことは、国内への参入や他社との合併が自由になることと、国が事業を保証しなくなることの両方を意味した。廃止の前後から国際電話の値下げ競争は加速し、1999年3月期に同社は設立以来はじめての連結最終赤字となる見込みになった。
筆者の見解

消えたのは独占ではなく、独占の後に残った保護

「NTTの長距離会社が完全民営化されるのに、KDDだけが特殊法人のままでは…」。1997年夏の西本社長のこの一言に、判断のほとんどが入っている。特殊会社をやめれば、国内へ出ることも他社と一つになることも自由になる。同時に、国が事業を保証しない立場へ自分を置く選択でもあった。制度上の独占は1985年に、実態の独占は1989年に失われ、法だけが残っていた。西本社長が手放したのは独占ではなく、独占が消えたあとの保護であった。

もっとも、自由を得た最初の四半期に、KDDは初の連結最終赤字へ落ちている。値下げ競争は法の廃止と関わりなく進んでいたし、本体5800人という人員も、合併で膨らんだ間接部門も、法を捨てたからといって軽くはならなかった。1979年の時評が突いた「株式会社でありながら独占が許されている」という二つの条件のうち、片方だけが先に消えた。制度が肩代わりしていた重さは、制度が消えたあとに残った側が引き受けるほかない。その順序を、1998年12月1日のKDDは示している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

法が作った会社

1952年に国際電信電話株式会社法が制定され、翌1953年4月1日、日本電信電話公社の国際部門を分離して国際電信電話株式会社が発足した。資本金33億円、本社は東京都千代田区大手町1の5である。国際通信は明治4年に政府が大北電信会社へ免許を与え、長崎・上海間などに海底ケーブルを敷いたときに始まり、以来ながく政府の専掌事業であった。当時の記録は、この分離をもって「その運営は完全に民営に移されるに至つた」と書いている[1][2]

ただし、民営に移されたことと、競争が持ち込まれたこととは別であった。国際電報も船舶との無線電報も国際電話も海外放送の中継も、海外へ結ぶ電気通信は一切この1社の手で行われている。利益を上げることが目的の株式会社でありながら独占が法で許されるという二つの条件が、発足のときから重なっていた。1979年に貴金属の密輸と過剰接待が表沙汰になったとき、日経ビジネスの時評はこの二重の条件が経営目的そのものを歪めたと指摘している[3][4]

独占が制度から消え、実態からも消えるまで

制度の側が先に動いた。郵政省は1985年4月に電気通信事業法を改定して通信市場を開放し、自前で基幹設備を持つ第一種と、回線を借りて付加価値をつける第二種という区分を設けた。国際通信では国内に2年遅れ、三菱商事や松下電器産業などが出資する日本国際通信(ITJ)と、伊藤忠商事・英C&W・トヨタ自動車などが出資する国際デジタル通信(IDC)が1986年に設立され、1989年に専用線と一般電話のサービスを相次いで始めている[5][6]

もっとも、開いた市場をどう配るかは別の難題であった。郵政省は共倒れを避けるとして新会社の一本化を民間に働きかけ、経団連情報通信委員長の渡辺文夫氏が調整にあたったが、1987年、ケーブル敷設をめぐる両陣営の隔たりは埋まらなかった。外資の持株比率をめぐる非公開の協議が漏れて日英米の通商摩擦へ発展している。渡辺氏はこの経緯を、法律だけが先に行き、実務には昔の尻尾が残ったものとして振り返った[7][8]

決断

「NTTだけが完全民営化されるのに」

1997年、国際電信電話株式会社法が改正され、同社は国内通信への参入を認められた。ただし規制の枠は残っている。同年夏、西本正社長は、設備を持つ第一種と設備を借りる第二種を区分する事業規制そのものは必要としたうえで、同じサービスを提供するのに第一種だけが料金の認可を要するのは不公平だと述べた。国際公専公が解禁されれば、外資系は第二種として自由に参入できる。こちらは何か月もかけて認可を待つ。それで公正な競争ができるか、という問いであった[9][10]

その改正法には付帯決議が付いていた。「将来の完全民営化をめざし……特にKDDについては時期を逸することなく検討し結論を得ること」。西本社長はこれを引いたうえで、NTTの長距離会社が完全民営化されるのにKDDだけが特殊法人のままではいられない、と語っている。1985年に通信の自由化が始まっても市内電話にはほぼ競争がない、とも述べた。規制が残る側と残らない側の差を社長自身が不公平として言葉にした点に、この時期の同社の立場がうかがえる[11][12]

法を手放すということ

1997年11月11日午前10時30分、西本社長は郵政記者クラブでKDD法廃止の記者会見に臨んだ。同じ日の朝刊に合併の観測記事が一面で出たため、会社は午前8時30分に役員会を開き、8時50分に「現時点で事実ではない」とのコメントを配り、9時には東京証券取引所で株式の売買が停止されている。会見が注目を集めたのは合併のほうであったが、その日に発表の場が設けられていた案件は、法の廃止であった[13]

1998年5月8日、「電気通信分野における規制の合理化のための関係法律の整備等に関する法律」が公布され、国際電信電話株式会社法はこれによって廃止された。効力が生じたのは同年12月1日で、同じ日に同社は日本高速通信を吸収合併し、商号をKDD株式会社へ改めている。1953年の設立から45年、事業の範囲も料金も法に縛られてきた会社が、普通の株式会社になった。国際通信を1社だけに担わせる戦後の枠組みも、この日に条文から消えた[14][15]

結果

保護がなくなった最初の冬

価格競争は法の廃止をはさんで一段と激しくなった。1998年10月、長距離のDDIが対米昼間3分240円で国際電話に新規参入する。12月にはKDDが450円から、日本テレコムとIDCが440円から、それぞれ240円まで下げた。翌1999年1月、DDIはさらに168円へ引き下げている。1999年3月期の連結決算は、売上高4010億円と前期比9.9%の増収でありながら、最終損益は10億円の赤字になる見込みとなった[16][17]

単体は、営業外利益であった土地建物賃貸料を売上高へ計上し、減価償却を定額法へ変更するなどのやりくりで黒字を保ったが、実質は営業赤字であった。国際電話の市場規模は3000億円に満たない。1999年7月にはNTTが再編され、秋には長距離国際NTTが本格的に参入する見通しにあった。週刊東洋経済は、国際通信会社の雄が設立以来最大の危機を迎えたと書いている。法が保証していたものが何であったかは、それがなくなってはじめて数字に表れた[18][19]

値下げに追いつかない人員

体力の差は人員に表れた。1997年末の時点で、西本社長は本体5800人を関係会社への出向などによって2001年3月期に4300人、うち本体2800人まで減らす計画を語っていた。削減の速度は、料金が下がる速度に追いついていない。合併で間接部門はむしろ膨らみ、役員数も社員数も規模に比して多いまま残った。制度の保護を外した会社が最初に向き合ったのは、規制ではなく自社の重さであった[20][21]

1998年初めの記事は、KDDが依拠してきた国際電話が儲かる時代もまた終わったと書いている。米国では旧来の電話に留まったAT&Tがインターネットで遅れ、MCIやUUネットを買収したワールドコムが伸びた。KDDはプロバイダー向けの卸に回ってインターネットを取り込み、1997年10月には韓国デーコム・香港テレコムらとアジア・パシフィック・インターネット・コミュニティを設立している。法を手放す判断は、こうした動きの前提を制度の側で外すものであったとみることができる[22][23]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本会社史 国際電信電話」
  • 日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ 密輸と過剰接待の大まじめぶり」
  • 日経ビジネス 1987年6月8日号「渡辺文夫氏 所詮ムリだった第2KDD調整」
  • 日本産業史 第4巻(情報・通信・サービス)「通信-情報通信産業の誕生」
  • 週刊東洋経済 1997年8月2日号「[編集長インタビュー]西本正 国際電信電話(KDD)社長」
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「[特別レポート]合併か? KDDとテレウェイの暗中模索」
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
  • 週刊東洋経済 1999年1月23日号「[フラッシュ]KDD崖っぷち、設立以来の危機」
  • 日本法令索引(国立国会図書館)「国際電信電話株式会社法 昭和27年8月7日法律第301号」

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