プロダクト・マネジャー制を軸にした「守り」から「攻め」への方針転換
縮むしょうゆ市場とPBの価格攻勢のなかで、茂木友三郎社長は老舗の組織をどう動かそうとしたか
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- 概要
- 1996年、キッコーマンの茂木友三郎社長が、社長直属のプロダクト・マネジャー制を軸に、収益を優先する「守り」から成長を重視する「攻め」へと経営方針を転じた組織運営の判断。1995年4月に新設した商品横断の責任者組織を先導役に据えた。
- 背景
- 国内のしょうゆ市場は1970年代前半以降縮小し、1993年に登場したプライベートブランド(PB)しょうゆの価格攻勢で主力商品が侵食されていた。国内事業は10年近く伸び悩み、決算も減益基調が続いていた。
- 内容
- 生産から販売まで商品を横断して見る7人のプロダクト・マネジャーに権限を与え、社長直属の組織とした。価格と商品開発の両面で攻めに転じ、「しょうゆ需要の深耕」を掲げて、つゆ・たれなど周辺調味料の育成と海外拠点の増強を成長の軸に据えた。
- 含意
- 米国駐在で経営手法を学んだ茂木社長が、同族色の強い老舗にトップダウンと商品別責任制を持ち込んだ判断であった。既存事業の停滞を、価格競争への正面対応ではなく周辺市場と海外への広がりで乗り越えようとした点に、後年の海外中心の収益構造へつながる転機をみることができる。
縮む本業を、どこで埋めるか
この判断の核心は、成熟して縮むしょうゆという本業を、値下げ競争で守るのではなく、組織の作り替えと市場の広げ方で乗り越えようとした点にある。米国で経営を学んだ茂木友三郎社長は、同族色の強い老舗に社長直属の商品別責任制を持ち込み、意思決定の速さそのものを競争力にしようとした。プロダクト・マネジャーに全責任を負わせる仕組みは、縦割りに慣れた組織にとっては大きな緊張をともなうものであったとみられる。
攻めの矛先が、しょうゆそのものではなく、つゆ・たれといった周辺調味料と海外の現地生産に向いた点も見逃せない。縮む中心を無理に押し返すのではなく、まだ伸びる縁へ資源を移す——この選択は、後年のキッコーマンが国内より海外で稼ぐ姿へとつながっていく。1996年に始まった「攻め」への転換が、単年の掛け声で終わらず、収益の柱を海外へ移していく長い流れの入り口になったのかどうか。それは、その後の海外事業の伸びが答えていくことになる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
縮むしょうゆ市場と、PBの価格攻勢
キッコーマンの主力であるしょうゆは、国内市場が1970年代前半を境に縮小へ転じ、以後その傾向が止まらなかった。1993年には流通側のプライベートブランド(PB)しょうゆが登場し、価格競争が一段と激しくなった。同社の最大の売れ筋であるこいくちしょうゆ1リットル入りが希望小売価格330円、特売でも250〜260円だったのに対し、PBは200円を割り込み、1993年春には158円のPBしょうゆも現れた。値段で真正面から張り合えば、利幅は削られる一方であった[1]。
国内事業の停滞は、一時の落ち込みではなかった。同社の国内事業は過去10年ほとんど伸びず、とりわけ1993年に現れたPBしょうゆへの対応は後手に回った。しょうゆという成熟した市場で価格を軸に競うかぎり、収益の改善は見込みにくい。縮む本業を抱えたまま、どこに成長の余地を見いだすかが、経営の焦点になっていた[2]。
就任1年、組織の動かし方をつかむ
茂木友三郎社長は、1995年2月に中野孝三郎前社長が急死したことで、予定より早くトップに就いた。慶応義塾大学法学部を出て野田醤油(現キッコーマン)に入り、米コロンビア大学の経営学大学院を修めたのち、同社の米国工場建設など海外進出を手がけた国際派である。就任から1年、茂木社長は「どこをどう押せば、組織が動くのかがわかってきた」と語り、老舗の意思決定を自らの手で動かす手ごたえを得つつあった[3]。
もっとも、記事の見出しが「停滞打ち破れるか」と問いの形をとったように、改革が実を結ぶかどうかは、この時点では見通せなかった。価格競争にさらされる本業をどう立て直すか、縦割りに慣れた組織が商品別の責任制になじむか——茂木社長が手ごたえを口にする一方で、成熟した市場に挑む改革の帰趨は、まだ開かれたままであった[4]。
決断
社長直属のプロダクト・マネジャー制
改革の先導役に据えられたのが、生産から販売まで商品を横断して見て調整するプロダクト・マネジャーであった。茂木社長は1995年4月、その肝いりでプロダクト・マネジャー室を新設し、社長直属の組織とした。ここに7人のプロダクト・マネジャーを置き、商品ごとに生産から販売までの全責任を負わせた。部門ごとに分かれていた意思決定を、商品を軸に一本化し、社長の意向が現場まで速く通る仕組みへ組み替えた[5]。
プロダクト・マネジャーが商品の全責任を負う体制は、生産・営業・開発が縦割りで動いてきた老舗の運営を、市場に向き合う横串の組織へ変える試みであった。商品ごとに損益と戦略を見る責任者が定まれば、価格や新商品への対応を現場任せにせず、素早く打ち返せる。停滞した国内事業を立て直す推進力を、この商品横断の責任制に負わせた[6]。
収益第一から成長重視へ
茂木社長の狙いは、収益を守る経営から成長を取りにいく経営への転換にあった。PBへの対抗を掲げ、「しょうゆ需要の深耕」を合言葉に、価格でも商品開発でも守りから攻めへ転じた。既存のしょうゆで値下げ競争に巻き込まれるのではなく、しょうゆを使った加工調味料へ需要を広げ、そこで採算のとれる成長を積み上げる方針である。縮む本業を守るより、周辺へ市場を耕す道を選んだ[7]。
攻めの標的として見込まれたのが、つゆ・たれといった加工調味料であった。国内のしょうゆ市場が1970年代前半を境に縮小するなかでも、しょうゆを使った加工調味料は、料理の手間を省きたい消費者の需要をつかんで伸びていた。本体のしょうゆで削られた分を、周辺の調味料で取り返す——茂木社長の攻めは、市場が縮む中心から、まだ伸びる縁へと資源を移す設計であった[8]。
結果
周辺調味料と、海外二拠点への投資
攻めへの転換は、国内の商品戦略にとどまらず、海外の生産能力の増強にも向かった。同社は1995年中に海外の生産拠点を2カ所増やすことを決め、1つを米国の第2工場(ウィスコンシン)、もう1つを欧州向けのオランダ工場とした。いずれも1998年中の稼働を見込み、1996年4月には欧州向けの製造販売拠点としてオランダにKIKKOMAN FOODS EUROPEを設立した。国内でしょうゆ需要を深耕する一方、海外では現地生産の網を広げ、二つの方向で成長を取りにいく構えであった[9][10]。
決算の数字は、この転換が停滞のただ中で始まったことを示している。1995年12月期の連結売上高は2033億円、経常利益は85億円、当期純利益は44億円で、国内では減益の基調が続いていた。攻めへの転換は、業績が上向いてからの余裕ある拡張ではなく、成熟した本業の縮みに追われるなかでの選択であった。プロダクト・マネジャー制が停滞を打ち破れるか、周辺調味料と海外がしょうゆの縮みを埋められるか——この時点では、まだその答えは出ていなかった[11]。
- 日経ビジネス 1996年4月22日号「キッコーマン、『攻め』へ大転換 プロダクト・マネジャーが先導役 停滞打ち破れるか茂木改革」
- 日経ビジネス 1995年5月15日号「茂木友三郎氏[キッコーマン]登場 米国流トップダウンで老舗を改革」
- キッコーマン 有価証券報告書(1995年12月期・連結)
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】