1952年〜 国際電信電話株式会社法が定めた、独占と株式会社という二重の性格
- 1952年国際電信電話法が公布
- 1952年国際通信を担う特殊会社の設立が決定
- 1953年国際電信電話が発足
- 1953年日本電信電話公社の国際部門を承継
電電公社の国際部門を切り出して発足した資本金33億円の特殊会社
1952年に制定された国際電信電話株式会社法にもとづき、翌1953年、日本電信電話公社の国際部門が分離して国際電信電話株式会社が設立された。資本金は33億円、本社は東京都千代田区大手町1の5に置かれ、事業は国際電信・電話、写真通信、放送中継とされた。初代社長には渋沢敬三氏が就いている。日本の国際通信は明治4年、政府が大北電信会社に免許を与えて長崎・上海間と長崎・ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設したところに始まり、以後80年にわたって政府の専掌事業として営まれてきた。政府が直営してきた事業が株式会社へ移ったのは、これが初めてである。 [1][2][3][4][5]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
- [1]1952年に国際電信電話株式会社法が制定され、1953年に設立された
- [2]資本金33億円
- [3]本社は東京都千代田区大手町1の5
- [4]社長は渋沢敬三氏
- [5]明治4年に政府が大北電信会社へ免許を与え長崎・上海間などに海底ケーブルを敷設した
民間の資本と機動力を国際通信に入れる試みは、戦前から二度あった。大正14年の日本無線電信、昭和7年の国際電話がそれで、両社は昭和13年に合併して国際電気通信となり、施設の建設と保守を担った。この体制のもとで日本は太平洋戦争前に50余りの国際通信回路を持つ世界有数の通信国になっている。ただし国際電気通信は1947年5月に解体され、事業は再び政府の手に戻った。1952年に電電公社が政府専掌事業を承継し、その翌年に国際部門だけが国際電信電話として切り出されたのは、この往復の末に選ばれた三度目の答えにあたる。同時代の企業史書『会社銀行八十年史』は「その運営は完全に民営に移されるに至つたが、これはわが国国際通信史上特記すべきことである」と記している。 [6][7][8]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電気」
- [6]大正14年に日本無線電信、昭和7年に国際電話が設立され、昭和13年に合併して国際電気通信となった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
- [7]太平洋戦争前には国際通信回路50余を保有する世界有数の国際通信国となった
- [8]国際電気通信は1947年5月に解体された
もっとも、民営に移されたといっても競争が持ち込まれたわけではない。国際通信を担う事業者は国際電信電話ただ一社と定められ、料金は郵政省の認可を要した。株式会社でありながら独占を法で保証されるという性格は、発足のときから会社に組み込まれていた。国内通信を担う日本電信電話公社が公社のままだったのに対し、国際通信だけが株式会社の形をとったことで、この二重性は国際電信電話に固有のものとなる。1979年の事件でも、1998年の法廃止でも、争点はこの二重性だった。 [9]
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [9]電気通信は日本電信電話公社(国内)と国際電信電話(国際)の独占で事業が進められてきた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
- [1]1952年に国際電信電話株式会社法が制定され、1953年に設立された
- [2]資本金33億円
- [3]本社は東京都千代田区大手町1の5
- [4]社長は渋沢敬三氏
- [5]明治4年に政府が大北電信会社へ免許を与え長崎・上海間などに海底ケーブルを敷設した
- [7]太平洋戦争前には国際通信回路50余を保有する世界有数の国際通信国となった
- [8]国際電気通信は1947年5月に解体された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電気」
- [6]大正14年に日本無線電信、昭和7年に国際電話が設立され、昭和13年に合併して国際電気通信となった
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- [9]電気通信は日本電信電話公社(国内)と国際電信電話(国際)の独占で事業が進められてきた
戦災復旧と、米RCAに採用された通信路再分割装置
発足後の数年は、戦時中に荒廃した施設を復旧し、急増する通信需要にサービス部門を追いつかせる作業に費やされた。1955年時点で対外通信網は直通電信回路44、直通電話回路31、直通写真回路13、放送の送受信網が約30に達し、国内では直営営業所22カ所を回線で結んでいる。電信網には国際標準の5単位テレプリンターを広く採用した。設備の実体は東京・大阪・長崎の3中央局と7カ所の無線送受信所であり、送信機91台、受信機92台、アンテナ344面を数えた。 [10][11]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
- [10]直通電信回路44、直通電話回路31、直通写真回路13、放送の送・受信網約30、直営営業所22カ所
- [11]東京・大阪・長崎の3中央局と7無線送受信所、送信機91台、受信機92台、アンテナ344面
回線を増やす手段として、国際電信電話は一つの周波数で複数の回路を構成する多重通信装置を研究し、実用化した。なかでも一周波数から16通信路を作る通信路再分割装置は自社技術陣の手になるもので、米RCA通信会社に採用されている。国際通信の設備は相手国の事業者と接続して初めて機能するため、技術が国際的に通用するかどうかは事業の前提そのものだった。発足からわずか数年で自社開発の装置が米国側に採られたことは、電電公社から移ってきた技術者集団の水準を示している。ただしこの技術力は、国内では競争にさらされないまま蓄えられたものでもあった。 [12]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
- [12]一周波数から十六通信路を構成する通信路再分割装置は当社技術陣の研究によるもので、米国RCA通信会社に採用された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
- [10]直通電信回路44、直通電話回路31、直通写真回路13、放送の送・受信網約30、直営営業所22カ所
- [11]東京・大阪・長崎の3中央局と7無線送受信所、送信機91台、受信機92台、アンテナ344面
- [12]一周波数から十六通信路を構成する通信路再分割装置は当社技術陣の研究によるもので、米国RCA通信会社に採用された