KDD の歴史

創業

1953年

創業者

※国際電信電話株式会社法

創業地

東京都千代田区大手町

Q なぜ1953年、日本の国際通信は公社ではなく株式会社の形で切り出されたのか
A 国際通信は相手国の事業者と設備や費用を突き合わせて成り立ち、国の会計と人事では相手に合わせて動けない。戦前も日本無線電信と国際電話という民間会社に設備の建設と保守を担わせた前例があった。1952年の国際電信電話株式会社法にもとづき、翌1953年に日本電信電話公社の国際部門が資本金33億円で分離し、東京都千代田区大手町に国際電信電話株式会社が発足した。初代社長は渋沢敬三氏。ただし国際通信を担う事業者は1社に限られ、料金は郵政省の認可を要した。株式会社でありながら法で独占を保証される形が、発足時から組み込まれていた。
Q なぜ1997年、国際電話の独占事業者が国内通信への参入と1300億円の海底ケーブル投資を選んだのか
A 料金表の外側に安い経路ができ、値下げでは追いつけなくなったためである。1996年から広がったコールバックやインターネット電話は平日昼間の対米3分で186円や99円となり、正規料金450円の国際電話から客が流れ出した。営業利益率は20年で20%から5%へ落ちた。1997年6月の法改正で国内参入が認められると、7月に企業向け国内電話を始め、日本列島を囲む光海底ケーブルに1300億円を投じた。陸上に敷けば1キロメートルあたり1億円以上かかる回線が、海底なら170分の1で済む。国際通信の敷設技術を国内の元手に替えた。
Q なぜ1998年に45年続いた特殊会社という形を手放し、2年後に第二電電へ合流したのか
A 法が事業の範囲を国際通信に限る以上、他社との合併も国内での拡大も、法の廃止なしには選べなかった。1998年12月1日、国際電信電話株式会社法は廃止されて特殊会社でなくなり、同じ日にトヨタ系の日本高速通信を吸収合併し、商号をケイディディ株式会社へ改めた。ただし縛りが外れれば保護も消える。翌1999年3月期は値下げ競争で連結初の最終赤字に転じる見通しとなり、合併で膨らんだ間接部門の整理も残った。2000年10月、KDDは第二電電・日本移動通信との合併で解散し、海底ケーブルの技術と国際通信網は新会社へ引き継がれた

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1952年〜 国際電信電話株式会社法が定めた、独占と株式会社という二重の性格

  1. 1952年 国際電信電話法が公布
  2. 1952年 国際通信を担う特殊会社の設立が決定
  3. 1953年 国際電信電話が発足
  4. 1953年 日本電信電話公社の国際部門を承継

電電公社の国際部門を切り出して発足した資本金33億円の特殊会社

1952年に制定された国際電信電話株式会社法にもとづき、翌1953年4月、日本電信電話公社の国際部門が分離して国際電信電話株式会社が設立された[1]。資本金は33億円[2]、本社は東京都千代田区大手町1の5[3]に置かれ、事業は国際電信・電話、写真通信、放送中継[4]とされ、社長には渋沢敬三氏[5]が就いた。日本の国際通信は明治4年、政府が大北電信会社に免許を与えて長崎・上海間と長崎・ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設した[6]ときに始まり、以後80年にわたり政府の専掌事業として営まれた。政府が直営してきた事業が株式会社へ移った[7]のは、これが初めてである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
    • [1]1952年制定の国際電信電話株式会社法にもとづき1953年4月に電電公社の国際部門が分離独立
    • [2]設立時の資本金 33億円
    • [3]本社所在地 東京都千代田区大手町1の5
    • [4]事業の範囲 国際電信・電話、写真通信、放送中継
    • [5]設立時の社長 渋沢敬三
    • [6]明治4年 政府が大北電信会社へ免許を与え長崎・上海間および長崎・ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設
    • [7]明治4年以降は政府の専掌事業として発展し1953年に運営が完全に民営へ移行

国際通信に民間の資本と機動力を入れる試みは戦前に二度あり、大正末期以降の無線通信の興隆期に国際水準の通信設備を急いで整える必要が生じた[8]ことから、大正14年に日本無線電信、昭和7年に国際電話が設立され、特例をもって施設の建設と保守にあたった[9]。この体制のもとで日本は太平洋戦争前に国際通信回路50余を持つ世界有数の通信国となった[10]。両社は昭和13年に合併して国際電気通信となったが、戦後の1947年5月に解体され[11]、事業は政府の手へ戻った。1952年4月に日本電信電話公社が政府専掌の国際通信事業を承継し[12]、その翌年に国際部門だけが切り出されたのは、この往復の末に選ばれた三度目の答えにあたる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
    • [8]大正末期以降の無線通信興隆期に国際水準の通信設備を急速に整備拡充する必要
    • [9]大正14年 日本無線電信設立・昭和7年 国際電話設立・特例により施設建設と保守を担当
    • [10]太平洋戦争前 国際通信回路50余を保有する世界有数の国際通信国
    • [11]昭和13年 両社が合併し国際電気通信となる・1947年5月 解体
    • [12]1952年4月 日本電信電話公社が政府専掌の国際電信電話事業を承継

民営に移されたといっても競争が持ち込まれたわけではなく、国際通信を担う事業者は国際電信電話ただ一社と定められ[13]、料金は郵政省の認可を要した。国内通信を担う日本電信電話公社が公社のままだったのに対し、国際通信だけが株式会社の形をとった[14]ため、独占を法で保証された株式会社という性格は同社に固有のものとなった。この法は、1998年5月8日公布の法律によって廃止される[15]までの45年間、事業の範囲と料金を縛り続けた。1979年に表面化した事件でも、1998年の法廃止の議論でも、争点はこの性格に集まった[16]

  • 国際電信電話株式会社法(昭和27年法律第301号)
    • [13]国際通信を担う事業者は国際電信電話1社に限定・料金は郵政省の認可制
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [14]電気通信は日本電信電話公社(国内)と国際電信電話(国際)の独占で運営
  • 日本法令索引(国立国会図書館)「国際電信電話株式会社法 昭和27年8月7日法律第301号」
    • [15]国際電信電話株式会社法は1998年5月8日公布の平成10年法律第58号により廃止
  • 日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」
    • [16]株式会社でありながら独占が許されているという立場がKDD事件の根底にあると論評された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
    • [1]1952年制定の国際電信電話株式会社法にもとづき1953年4月に電電公社の国際部門が分離独立
    • [2]設立時の資本金 33億円
    • [3]本社所在地 東京都千代田区大手町1の5
    • [4]事業の範囲 国際電信・電話、写真通信、放送中継
    • [5]設立時の社長 渋沢敬三
    • [6]明治4年 政府が大北電信会社へ免許を与え長崎・上海間および長崎・ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設
    • [7]明治4年以降は政府の専掌事業として発展し1953年に運営が完全に民営へ移行
    • [8]大正末期以降の無線通信興隆期に国際水準の通信設備を急速に整備拡充する必要
    • [9]大正14年 日本無線電信設立・昭和7年 国際電話設立・特例により施設建設と保守を担当
    • [10]太平洋戦争前 国際通信回路50余を保有する世界有数の国際通信国
    • [11]昭和13年 両社が合併し国際電気通信となる・1947年5月 解体
    • [12]1952年4月 日本電信電話公社が政府専掌の国際電信電話事業を承継
  • 国際電信電話株式会社法(昭和27年法律第301号)
    • [13]国際通信を担う事業者は国際電信電話1社に限定・料金は郵政省の認可制
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [14]電気通信は日本電信電話公社(国内)と国際電信電話(国際)の独占で運営
  • 日本法令索引(国立国会図書館)「国際電信電話株式会社法 昭和27年8月7日法律第301号」
    • [15]国際電信電話株式会社法は1998年5月8日公布の平成10年法律第58号により廃止
  • 日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」
    • [16]株式会社でありながら独占が許されているという立場がKDD事件の根底にあると論評された

戦災復旧と、米RCAに採用された通信路再分割装置

発足後の数年は、戦時中に荒廃した施設の復旧と、戦後に急増した通信需要へサービス部門を追いつかせる作業[17]にあてられた。1955年時点で対外通信網は直通電信回路44、直通電話回路31、直通写真回路13に達し、ほかに放送の送信網と受信網が約30あった[18]。国内では直営営業所22カ所を相互に結ぶ回線を保有した[19]。内外の電信網には国際標準の5単位テレプリンターを広く採用し、通信の正確さと速さが上がった[20]。国際通信の設備は相手国の事業者と接続してはじめて働く[21]ため、規格を国際標準に合わせることが復旧と拡充の前提だった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
    • [17]戦時中に荒廃した施設の復旧と戦後急増した通信需要に対応するサービス部門の整備
    • [18]1955年時点の対外通信網 直通電信回路44・直通電話回路31・直通写真回路13・放送の送受信網約30
    • [19]国内通信網は直営営業所22カ所相互を結ぶ回線
    • [20]内外の電信網に国際標準の5単位テレプリンターを多く採用し通信の正確・迅速性が向上
    • [21]海外を結ぶ国際電気通信は相手国事業者との接続によって成立

回線を増やす手段として、同社は一つの周波数で複数の回路を構成する多重通信装置を研究し、実用化した[22]。なかでも一周波数から16通信路を構成する通信路再分割装置は自社の技術陣が開発したもので、米国のRCA通信会社に採用された[23]。サービスの面では、国際電報、航行中の船舶との無線電報、国際写真、放送電報、国際電話、海外ラジオ放送の中継まで、海外を結ぶ国際電気通信の一切が同社の手で行われた[24]。設備の実体は東京・大阪・長崎の3中央局と7カ所の無線送受信所であり、送信機91台、受信機92台、アンテナ344面を数えた[25]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
    • [22]通信網拡充のため一つの周波数で数回路を構成する多重通信装置を研究・実用化
    • [23]一周波数から十六通信路を構成する通信路再分割装置は同社技術陣の研究によるもので米国RCA通信会社が採用
    • [24]国際電報・船舶無線電報・国際写真・放送電報・国際電話・海外ラジオ放送中継など海外を結ぶ国際電気通信は一切を同社が担当
    • [25]東京・大阪・長崎の3中央局と7無線送受信所・送信機91台・受信機92台・アンテナ344面
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
    • [17]戦時中に荒廃した施設の復旧と戦後急増した通信需要に対応するサービス部門の整備
    • [18]1955年時点の対外通信網 直通電信回路44・直通電話回路31・直通写真回路13・放送の送受信網約30
    • [19]国内通信網は直営営業所22カ所相互を結ぶ回線
    • [20]内外の電信網に国際標準の5単位テレプリンターを多く採用し通信の正確・迅速性が向上
    • [21]海外を結ぶ国際電気通信は相手国事業者との接続によって成立
    • [22]通信網拡充のため一つの周波数で数回路を構成する多重通信装置を研究・実用化
    • [23]一周波数から十六通信路を構成する通信路再分割装置は同社技術陣の研究によるもので米国RCA通信会社が採用
    • [24]国際電報・船舶無線電報・国際写真・放送電報・国際電話・海外ラジオ放送中継など海外を結ぶ国際電気通信は一切を同社が担当
    • [25]東京・大阪・長崎の3中央局と7無線送受信所・送信機91台・受信機92台・アンテナ344面

1960年〜 海底ケーブルと衛星で世界をつなぎ、営業を持たずに設備を広げた歳月

  1. 1972年 日中国交回復交渉の先遣隊に技術者を派遣
  2. 1972年 小型衛星通信装置で臨時回線を開設

日本初の超高層ビルへ本社を移すまでに伸びた通信量

1968年4月に完工した霞が関ビルは日本で最初の超高層ビルで、その1年前から貸し付けが始まっていた[26]が、オフィス部分はビル不況のさなかで契約に結びつかなかった[27]。テナント獲得に自ら乗り出した三井不動産の江戸英雄社長[28]は、大手町の本社が手狭で困っていた[29]国際電信電話に目をつけ、元逓信次官の大和田悌二氏の紹介で八藤副社長に面会する[30]。社長までセールスをやるのかと問われた江戸英雄氏は、これがビル会社の社長の一番大事な仕事だと答え、この面会で本社の移転が決まった[31]。同じようにして全日空やシェル石油とも契約がまとまり、開館時の成約は7割に達した[32]。国際電信電話はその後、新宿にビルを新築して移転している[33]

  • 私の履歴書 経済人18「江戸英雄」(日本経済新聞社、1981年)
    • [26]霞が関ビルの完工 1968年4月・その1年前から貸し付けを開始
    • [27]オフィス部分はビル不況でなかなか契約に結びつかなかった
    • [28]三井不動産社長 江戸英雄によるテナント獲得への直接関与
    • [29]大手町の本社が手狭で困っていた
    • [30]大和田悌二(元逓信次官)の紹介で八藤副社長に面会
    • [31]八藤副社長の「社長までセールスをやるのですか」との問いと本社移転の決定
    • [32]全日空・シェル石油なども契約し開館時の成約は70%
    • [33]その後は新宿にビルを新築して移転

1926年に大阪の呉服屋に生まれた市原博氏[34]は、1953年の設立と同時に電電公社から移った技術者のひとりで、のちに社長となった。大学で電気工学を専攻し[35]、1948年に京都大学工学部を卒業している。通信省と電電公社を経て1953年に国際電信電話へ入社し、日米間の海底ケーブル敷設と衛星通信の導入という最先端の技術に携わった[37]。海底ケーブルの敷設では、第一線で米国側と技術的な詰めを担当している[38]。その後は国際部次長、回線統制部長を歴任した[39]。設備を作る仕事が、そのまま相手国の事業者との交渉になる職場だった[40][36]

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏[国際電信電話]登場 生え抜きの営業通に社員の期待」
    • [34]市原博 1926年大阪府生まれ・生家は大阪の呉服屋
    • [35]大学で電気工学を専攻し技術畑一筋で進むと決めた
    • [36]市原博 1948年京都大学工学部卒業・通信省・電電公社を経て1953年国際電信電話入社
    • [37]日米間の海底ケーブル敷設や衛星通信の導入など最先端の技術に従事
    • [38]海底ケーブルの敷設では第一線にあって米国側と技術的な詰めを担当
    • [39]市原博の歴任 国際部次長・回線統制部長
    • [40]海底ケーブル敷設で米国側と技術的な詰めを行う仕事の性格
  • 私の履歴書 経済人18「江戸英雄」(日本経済新聞社、1981年)
    • [26]霞が関ビルの完工 1968年4月・その1年前から貸し付けを開始
    • [27]オフィス部分はビル不況でなかなか契約に結びつかなかった
    • [28]三井不動産社長 江戸英雄によるテナント獲得への直接関与
    • [29]大手町の本社が手狭で困っていた
    • [30]大和田悌二(元逓信次官)の紹介で八藤副社長に面会
    • [31]八藤副社長の「社長までセールスをやるのですか」との問いと本社移転の決定
    • [32]全日空・シェル石油なども契約し開館時の成約は70%
    • [33]その後は新宿にビルを新築して移転
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏[国際電信電話]登場 生え抜きの営業通に社員の期待」
    • [34]市原博 1926年大阪府生まれ・生家は大阪の呉服屋
    • [35]大学で電気工学を専攻し技術畑一筋で進むと決めた
    • [36]市原博 1948年京都大学工学部卒業・通信省・電電公社を経て1953年国際電信電話入社
    • [37]日米間の海底ケーブル敷設や衛星通信の導入など最先端の技術に従事
    • [38]海底ケーブルの敷設では第一線にあって米国側と技術的な詰めを担当
    • [39]市原博の歴任 国際部次長・回線統制部長
    • [40]海底ケーブル敷設で米国側と技術的な詰めを行う仕事の性格

国交のない国へ持ち込んだ衛星通信装置と、注文を取りに行かない事業

1972年、田中首相の日中国交回復交渉の先遣隊が中国へ渡ったとき、市原氏は技術者として同行した[41]。国交のない相手国との交渉を24時間支える態勢が要るため、小型の衛星通信装置を持ち込み、ようやく臨時の回線を開いた[42]。本人は後年これを「この時は大変だった[43]」と振り返っている。転機になったのは1976年のデータ通信部長就任で、コンピューターとの接続をはじめ難しい技術を伴うデータ通信では、技術を熟知しなければ十分な営業活動ができない[44]。それまでセールストークとは縁がなかったが、市原氏はユーザー回りの先頭に立った[45]

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏[国際電信電話]登場 生え抜きの営業通に社員の期待」
    • [41]1972年 田中首相の日中国交回復交渉の先遣隊に技術者として同行
    • [42]24時間通信できる態勢のため小型の衛星通信装置を持ち込み臨時の回線を開設
    • [43]市原博の回想「この時は大変だった」
    • [44]1976年 データ通信部長就任が転機・データ通信はコンピューターとの接続など難しい技術を伴う
    • [45]それまでセールストークと縁がなかったがユーザー回りの先頭に立った

この時期の国際電信電話に営業活動と呼べるものはほとんどなく、1970年代末の営業利益率は20%に達し[46]、料金は認可制で、顧客はほかに選ぶ相手を持たなかった。市原氏は1979年に営業部長、1980年に東京支社副支社長へ進み、1982年に取締役、1987年に常務、1989年に副社長となった[47]。役員のなかで誰よりも営業に通じているという評価[48]は、この経歴から来ている。のちに国内向けの販売促進で休日出勤を重ねた営業本部の岡田哲也担当課長が「入社以来こうした営業は初めて」と述べた[49]のは1997年のことで、それまでの40年余りは注文を取りに行く必要のない事業だった。

  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [46]KDDの営業利益率は20年で20%から5%へ低下し1970年代末の水準は20%
    • [49]営業本部の岡田哲也担当課長の「入社以来こうした営業は初めて」との発言
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏[国際電信電話]登場 生え抜きの営業通に社員の期待」
    • [47]市原博の経歴 1979年営業部長・1980年東京支社副支社長・1982年取締役・1987年常務・1989年副社長
    • [48]役員の中で誰よりも営業に通じているとの評価
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏[国際電信電話]登場 生え抜きの営業通に社員の期待」
    • [41]1972年 田中首相の日中国交回復交渉の先遣隊に技術者として同行
    • [42]24時間通信できる態勢のため小型の衛星通信装置を持ち込み臨時の回線を開設
    • [43]市原博の回想「この時は大変だった」
    • [44]1976年 データ通信部長就任が転機・データ通信はコンピューターとの接続など難しい技術を伴う
    • [45]それまでセールストークと縁がなかったがユーザー回りの先頭に立った
    • [47]市原博の経歴 1979年営業部長・1980年東京支社副支社長・1982年取締役・1987年常務・1989年副社長
    • [48]役員の中で誰よりも営業に通じているとの評価
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [46]KDDの営業利益率は20年で20%から5%へ低下し1970年代末の水準は20%
    • [49]営業本部の岡田哲也担当課長の「入社以来こうした営業は初めて」との発言

1979年〜 KDD事件が暴いた独占の代償と、国際通信が競争へ開かれるまで

  1. 1979年 貴金属の密輸と過剰接待が発覚(KDD事件)
  2. 1979年 経営陣の刑事責任と郵政省の監督責任を追及
  3. 1980年 山一証券取締役相談役だった日高輝氏が会長に就任
  4. 1985年 電気通信事業法の施行で通信市場が開放され、国際通信の法律上の独占が終わる
  5. 1986年 日本国際通信と国際デジタル通信が設立
  6. 1989年 ITJとIDCが専用線と国際電話のサービスを開始
  7. 1989年 国際通信の独占が実態として崩壊

税引き利益98億円に対し交際費20億円という比率

1979年に発覚した貴金属などの密輸と要人への過剰接待をめぐって当時の報道が数字で示したのは、前3月期の税引き利益が約98億円だったのに対し、前年1年間の交際費が20億円に達していた[50]という比率である。商売上必要だとして要人に100万円程度の貢ぎ物を配り、新宿の高級クラブを頻繁に利用して、多いときには一晩で100万円近い飲み食いをしていた[51]。競争相手もない企業に過剰接待の必然性はなく、国際電話の高い料金と重ねて批判を招いた[52]。追及は経営陣の刑事責任にとどまらず、認可と監督にあたる郵政省の責任にも及んだ[53]

  • 日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」
    • [50]前3月期の税引き利益 約98億円・前年1年間の交際費 20億円
    • [51]要人に100万円程度の貢ぎ物・新宿の高級クラブで一晩100万円近い飲食
    • [52]競争相手もない企業に過剰接待の必然性はなく国際電話の高料金と重なって批判を招いた
    • [53]経営陣の刑事責任と郵政省の監督責任が追及された

事件の原因は担当者の金銭感覚では説明がつかず、一方で独占が許され、他方で利益を上げなければならない株式会社となれば、経営目的は独占批判を避けながら極大利益を上げることになる[54]。そこで怖いのは世間・監督官庁・政治家・報道といったお目付役の存在で、業績が良いために必要以上に媚びを売る[55]。一般企業なら血の出るような合理化に向かう努力が、国際電信電話では過剰接待にすり替わった[56]。この意識のずれは、株式会社であり完全独占であるという二つの条件を重ね持つことから生じていた[57]。立て直しには外部から人を迎え、1979年に山一証券の取締役相談役となっていた日高輝氏が、翌1980年から国際電信電話の会長を務めた[58]。批判の的になった条件そのものが動くのは、1985年4月の電気通信事業法の施行[59]を待ってからだった。

  • 日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」
    • [54]一方で独占が許され他方で利益を上げなければならない株式会社では経営目的が独占批判を避けながら極大利益を上げることになる
    • [55]怖いのは世間・監督官庁・政治家・マスコミといったお目付役の存在で業績が良いために必要以上に媚びを売る
    • [56]一般企業なら血の出るような合理化努力をするところが過剰接待にすり替わった
    • [57]意識のずれは株式会社であり完全独占であるという2条件を重ね持つことから生じた
  • 私の履歴書 経済人16「日高輝」(日本経済新聞社、1981年)
    • [58]日高輝 1979年 山一証券取締役相談役・1980年より国際電信電話会長
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [59]1985年4月 電気通信事業法の施行により通信市場が開放
  • 日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」
    • [50]前3月期の税引き利益 約98億円・前年1年間の交際費 20億円
    • [51]要人に100万円程度の貢ぎ物・新宿の高級クラブで一晩100万円近い飲食
    • [52]競争相手もない企業に過剰接待の必然性はなく国際電話の高料金と重なって批判を招いた
    • [53]経営陣の刑事責任と郵政省の監督責任が追及された
    • [54]一方で独占が許され他方で利益を上げなければならない株式会社では経営目的が独占批判を避けながら極大利益を上げることになる
    • [55]怖いのは世間・監督官庁・政治家・マスコミといったお目付役の存在で業績が良いために必要以上に媚びを売る
    • [56]一般企業なら血の出るような合理化努力をするところが過剰接待にすり替わった
    • [57]意識のずれは株式会社であり完全独占であるという2条件を重ね持つことから生じた
  • 私の履歴書 経済人16「日高輝」(日本経済新聞社、1981年)
    • [58]日高輝 1979年 山一証券取締役相談役・1980年より国際電信電話会長
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [59]1985年4月 電気通信事業法の施行により通信市場が開放

電気通信事業法と第2KDD調整、独占が制度から消えるまで

1985年4月、郵政省は電気通信事業法を施行して通信市場を開放した[60]。それまで国内は日本電信電話公社、国際は国際電信電話という独占で運営されてきた電気通信[61]に、他の企業の参入が認められた。同時に、自前の回線設備を持つ第一種電気通信事業者と、他社の回線を借りて役務を提供する第二種電気通信事業者の区分が置かれた[62]。国内では長距離通信に新電電各社が現れ、国際通信では三菱商事・三井物産・住友商事・松下電器産業などが出資する日本国際通信(ITJ)と、伊藤忠商事・英ケーブル・アンド・ワイヤレス・トヨタ自動車などが出資する国際デジタル通信(IDC)が1986年に設立された[63]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [60]1985年4月 電気通信事業法の改定によりNTT・KDD以外の参入が認められた
    • [61]国内は日本電信電話公社・国際は国際電信電話の独占で電気通信事業が運営されてきた
    • [62]第一種電気通信事業者と第二種電気通信事業者の区分
    • [63]商社系のITJと伊藤忠・英C&W・トヨタ系のIDCが1986年に設立

郵政省は市場規模から見て2社が共倒れになる恐れがあるとして、新規参入を1社に束ねる調整を経済界へ持ちかけた[64]。経団連情報通信委員長だった渡辺文夫氏が引き受けたこの一本化調整は、1987年に不調へ終わっている[65]。ITJが国際電信電話の回線をまた借りして事業を始める計画だったのに対し、IDCはケーブル・アンド・ワイヤレスとともに太平洋へ独自の光ファイバーケーブルを敷く計画[66]で、設備の持ち方が正反対だったからである。調整の過程で外資の持株比率を3%未満に抑える非公開の協議が漏れると、英サッチャー首相と米レーガン大統領が中曽根首相に親書を送る通商摩擦[67]にまで広がった。認可権を持つ郵政省の前に、民間による調整の限界[68]があった。

  • 日経ビジネス 1987年6月8日号「渡辺文夫氏 所詮ムリだった第2KDD調整」
    • [64]郵政省は市場規模から2社共倒れを恐れ新規参入を1社に束ねる調整を経済界へ求めた
    • [65]経団連情報通信委員長 渡辺文夫による第2KDDの一本化調整は不調に終わった
    • [66]ITJはKDDの回線をまた借りする計画・IDCはC&Wとともに独自の光ファイバーケーブルを太平洋に敷設する計画で対立
    • [67]外資の持株比率を3%未満とする非公開の協議が漏れサッチャー首相・レーガン大統領が中曽根首相へ親書
    • [68]認可権を持つ郵政省の前に民間調整の限界

ITJとIDCは1989年に専用線と一般電話のサービスを相次いで開始した[69]。制度上の独占は1985年に消えていた[70]が、他社の回線で実際に国際電話が通じたのはこの時点である。国際通信の市場規模は約3000億円[71]にとどまるなかへ強力な親会社を持つ新会社2社が入り、対抗して通信料金を下げたこともあって、国際電信電話は1991年3月期に33年ぶりの減収減益へ落ち込んだ[72]。同じ年の6月に社長へ就いた市原博氏は、郵政省の監督下にあって歴代トップに天下りが多いなか、増田元一元社長に次ぐ2人目の生え抜き社長[73]だった。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [69]ITJとIDCは1989年に専用線と一般電話のサービスを開始
    • [70]1985年4月の電気通信事業法改定で制度上の独占が消えた
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏[国際電信電話]登場 生え抜きの営業通に社員の期待」
    • [71]国際通信の市場規模は約3000億円
    • [72]新会社2社の参入と通信料金の値下げにより1991年3月期に33年ぶりの減収減益
    • [73]市原博は1991年6月に社長就任・郵政省の監督下で歴代トップは天下りが多く増田元一元社長に次ぐ2人目の生え抜き社長
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [60]1985年4月 電気通信事業法の改定によりNTT・KDD以外の参入が認められた
    • [61]国内は日本電信電話公社・国際は国際電信電話の独占で電気通信事業が運営されてきた
    • [62]第一種電気通信事業者と第二種電気通信事業者の区分
    • [63]商社系のITJと伊藤忠・英C&W・トヨタ系のIDCが1986年に設立
    • [69]ITJとIDCは1989年に専用線と一般電話のサービスを開始
    • [70]1985年4月の電気通信事業法改定で制度上の独占が消えた
  • 日経ビジネス 1987年6月8日号「渡辺文夫氏 所詮ムリだった第2KDD調整」
    • [64]郵政省は市場規模から2社共倒れを恐れ新規参入を1社に束ねる調整を経済界へ求めた
    • [65]経団連情報通信委員長 渡辺文夫による第2KDDの一本化調整は不調に終わった
    • [66]ITJはKDDの回線をまた借りする計画・IDCはC&Wとともに独自の光ファイバーケーブルを太平洋に敷設する計画で対立
    • [67]外資の持株比率を3%未満とする非公開の協議が漏れサッチャー首相・レーガン大統領が中曽根首相へ親書
    • [68]認可権を持つ郵政省の前に民間調整の限界
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏[国際電信電話]登場 生え抜きの営業通に社員の期待」
    • [71]国際通信の市場規模は約3000億円
    • [72]新会社2社の参入と通信料金の値下げにより1991年3月期に33年ぶりの減収減益
    • [73]市原博は1991年6月に社長就任・郵政省の監督下で歴代トップは天下りが多く増田元一元社長に次ぐ2人目の生え抜き社長

コールバックが崩した「正規料金」という前提

1996年から国際電話市場に入り込んだのは、米国の交換機を経由して発信を米国側へ付け替えるコールバックと、音声をデータとして送るインターネット電話[74]という、料金表に載らない安さだった。平日昼間の対米3分で、コールバックは186円、インターネット電話は99円だった。国際電信電話の正規料金は450円である。小野田エンジニアリングは1997年3月にコールバックへ切り替え、月100万円を超えていた国際電話代が4月には70万円になった[76]。コールバック業者は30社以上あり、国際電話市場の4〜5%を占めるまで[77]になっていた。 [75]

  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [74]米国の交換機を経由して発信を米国側に付け替えるコールバックと音声をデータで送るインターネット電話
    • [75]平日昼間の対米3分料金 コールバック186円・インターネット電話99円・KDD450円
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [76]小野田エンジニアリングは1997年3月にコールバックへ切り替え月100万円超だった国際電話代が4月は70万円
    • [77]コールバック業者は30社以上・国際電話市場の4〜5%を占めた

国際電信電話の料金は国際比較で高かったわけではなく、昼間5分の通話を正規の料金表で比べれば、米AT&Tの6.85ドル(1ドル115円換算で788円)に対し同社は690円[78]で、むしろ安かった。差を生んだのは料金表の外側で、通信の自由化が進んだ米国では回線をまとめて安く売る特別料金が定着し、再販業者が仕入れる日米間の原価は1分あたり20〜30円程度と言われた[79]。原価に適正利益を加えた価格を郵政省に認可される第一種事業者と、届け出だけで価格を決められる第二種事業者の差[80]でもある。同社の営業利益率は20年で20%から5%へ下がり、1997年3月期には初めて5%を割り込んだ[81]

  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [78]昼間5分の通話でAT&Tは6.85ドル(1ドル115円で788円)・同条件でKDDは690円
    • [79]再販業者が仕入れる日米間の通信料金の原価は1分20〜30円程度
    • [80]第一種事業者は原価に適正利益を加えた価格を郵政省に認可される制度・第二種は届け出制
    • [81]KDDの営業利益率は20年で20%から5%へ低下し1997年3月期は初めて5%を下回った
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [74]米国の交換機を経由して発信を米国側に付け替えるコールバックと音声をデータで送るインターネット電話
    • [75]平日昼間の対米3分料金 コールバック186円・インターネット電話99円・KDD450円
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [76]小野田エンジニアリングは1997年3月にコールバックへ切り替え月100万円超だった国際電話代が4月は70万円
    • [77]コールバック業者は30社以上・国際電話市場の4〜5%を占めた
    • [78]昼間5分の通話でAT&Tは6.85ドル(1ドル115円で788円)・同条件でKDDは690円
    • [79]再販業者が仕入れる日米間の通信料金の原価は1分20〜30円程度
    • [80]第一種事業者は原価に適正利益を加えた価格を郵政省に認可される制度・第二種は届け出制
    • [81]KDDの営業利益率は20年で20%から5%へ低下し1997年3月期は初めて5%を下回った

1997年〜 国内通信への参入と法の廃止、そして第二電電への合流という幕引き

専用線から広げた国内電話と、1300億円の列島周回海底ケーブル

1997年6月13日、国際電信電話株式会社法の改正法が成立し[82]、国際電信電話は国内通信への参入を認められた。同じ改正でNTTも子会社を通じて国際通信へ出る道が開かれた[83]。同月27日の株主総会で定款を変更し[84]、7月26日から企業向けの国内電話を始めている。使ったのは国際電話で運用していた「ルートKDD」の仕組みで、顧客企業の構内交換機と同社の交換機を専用線で直結し[85]、そこからNTTの市内網へつなぐ形である。基本料は月額2万円、通話料は同社の契約者同士なら3分42円、相手がNTT加入者なら54円[86]で、距離に関係なく全国一律のため100キロメートル超の平日昼間ではNTTより51%割安になった[87]。ルートKDDは3000社7600回線が同社と直結しており、1998年3月期末には1万回線へ増やす計画[88]だった。

  • 週刊東洋経済 1997年8月2日号「[編集長インタビュー]西本正 国際電信電話(KDD)社長」
    • [82]1997年6月13日 KDD改正法成立
    • [84]1997年6月27日の株主総会で定款変更・7月26日に企業向け国内電話を開始
    • [86]基本料月2万円・3分42円(契約者同士)・54円(NTT加入者宛)の全国一律料金
    • [87]100km超の平日昼間はNTTより51%割安
    • [88]ルートKDDは3000社7600回線がKDDと直結・1998年3月期末に1万回線へ増やす目標
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [83]KDD法とNTT法の改正によるKDDの国内通信参入とNTT子会社の国際通信参入
    • [85]ルートKDDは3000社7600回線がKDDと直結する専用線接続の仕組み

国内で回線を持つ手段として選んだのが海底ケーブルで、1996年8月に15人のプロジェクトチームを組み、嶋谷吉治部長が海岸線を歩いて漁協と折衝した[89]。日本列島を光ファイバーで環状に囲む列島周回海底ケーブル(JIH)は総延長1万300キロメートル、投資額1300億円の計画[90]で、伝送容量100Gbpsは電話約120万回線にあたる[91]。地面を掘って光ファイバーを敷けば1キロメートルあたり1億円以上かかる[92]のに対し、西本正社長は海に敷く方が「コストは一七〇分の一で済む」と語った[93]。20Gbps分の第二電電への販売は決まっており、年300数十億円のNTT網使用料を200億円程度へ減らす見込み[94]だった。

  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [89]1996年8月に15人のプロジェクトチームを結成し嶋谷吉治部長が海岸線を歩いて漁協と折衝
    • [90]JIHは総延長1万300km・総投資1300億円
    • [92]陸上敷設は1kmあたり1億円以上かかる
  • 週刊東洋経済 1997年3月15日号「インタビュー KDD社長 西本正 国際通信の強化をテコに国内にも参入」
    • [91]JIHの伝送容量100Gbpsは電話約120万回線相当
    • [94]20GbpsのDDIへの販売が決定済み・NTT網使用料は年300数十億円から200億円程度へ減らせる見込み
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [93]西本正社長は陸より海に敷くほうがコストは170分の1で済むと述べた

足回りは提携で補い、1997年8月、国際電信電話は第二電電・日本高速通信と業務提携して、再販子会社を通じて国際と長距離を大口割引でまとめ売りする形[95]をとった。東京電力系の東京通信ネットワークとはGC接続で組み、NTTの回線を経由せずにつないで接続料を抑えている[96]。個人向けの国内長距離は1998年4月に始め、事前登録を要さず番号の前に「001」を付ける方式[97]とした。1998年7月1日には通話料6秒1円の国内通信サービスを出し、開始から1週間で1日あたり30万通話に達している[98]。ただし国内回線をほとんど持たない同社はNTTへ接続料を払うため、短時間の通信では収入より支払いが上回った[99]。西本社長は2000年度に本体で売上高4500億円(前期3225億円)、経常利益300億円(同208億円)を掲げ、うち国内通信で1200億円を見込んでいた[100]

  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「[フラッシュ]KDD 3社提携で第三勢力形成」
    • [95]1997年8月 KDDはDDI・テレウェイと業務提携し再販子会社を通じて国際と長距離を大口割引でまとめ売り
    • [96]KDDはTTネットとGC接続で提携しNTTの回線を経由せずに接続することで接続料を抑えた
  • 週刊東洋経済 1997年8月2日号「[編集長インタビュー]西本正 国際電信電話(KDD)社長」
    • [97]個人向けは1998年4月開始で事前登録が不要・番号の前に「001」を付ける方式
    • [100]2000年度に本体で売上高4500億円・経常利益300億円・うち国際通信3300億円・国内1200億円を計画
  • 日経ビジネス 1998年8月3日・10日号「KDD「6秒1円電話」人気の陰に不安」
    • [98]1998年7月1日開始の通話料6秒1円の国内通信サービスは開始後1週間で1日当たり30万通話
    • [99]国内回線をほとんど持たないKDDはNTTへ公衆回線の接続料金を払い通話時間や時間帯により収入より支払いが上回る
  • 週刊東洋経済 1997年8月2日号「[編集長インタビュー]西本正 国際電信電話(KDD)社長」
    • [82]1997年6月13日 KDD改正法成立
    • [84]1997年6月27日の株主総会で定款変更・7月26日に企業向け国内電話を開始
    • [86]基本料月2万円・3分42円(契約者同士)・54円(NTT加入者宛)の全国一律料金
    • [87]100km超の平日昼間はNTTより51%割安
    • [88]ルートKDDは3000社7600回線がKDDと直結・1998年3月期末に1万回線へ増やす目標
    • [97]個人向けは1998年4月開始で事前登録が不要・番号の前に「001」を付ける方式
    • [100]2000年度に本体で売上高4500億円・経常利益300億円・うち国際通信3300億円・国内1200億円を計画
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [83]KDD法とNTT法の改正によるKDDの国内通信参入とNTT子会社の国際通信参入
    • [85]ルートKDDは3000社7600回線がKDDと直結する専用線接続の仕組み
    • [89]1996年8月に15人のプロジェクトチームを結成し嶋谷吉治部長が海岸線を歩いて漁協と折衝
    • [90]JIHは総延長1万300km・総投資1300億円
    • [92]陸上敷設は1kmあたり1億円以上かかる
  • 週刊東洋経済 1997年3月15日号「インタビュー KDD社長 西本正 国際通信の強化をテコに国内にも参入」
    • [91]JIHの伝送容量100Gbpsは電話約120万回線相当
    • [94]20GbpsのDDIへの販売が決定済み・NTT網使用料は年300数十億円から200億円程度へ減らせる見込み
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [93]西本正社長は陸より海に敷くほうがコストは170分の1で済むと述べた
  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「[フラッシュ]KDD 3社提携で第三勢力形成」
    • [95]1997年8月 KDDはDDI・テレウェイと業務提携し再販子会社を通じて国際と長距離を大口割引でまとめ売り
    • [96]KDDはTTネットとGC接続で提携しNTTの回線を経由せずに接続することで接続料を抑えた
  • 日経ビジネス 1998年8月3日・10日号「KDD「6秒1円電話」人気の陰に不安」
    • [98]1998年7月1日開始の通話料6秒1円の国内通信サービスは開始後1週間で1日当たり30万通話
    • [99]国内回線をほとんど持たないKDDはNTTへ公衆回線の接続料金を払い通話時間や時間帯により収入より支払いが上回る

トヨタとの縁談と、45年続いた特殊会社の終わり

1997年8月の時点で西本社長は規模を追う道をとらないと述べ、英BTと米MCIの合併を引き合いに、顧客をそっちのけにしてM&Aへ労力を使うことへ疑問を口にしていた[101]。その3か月後、1997年11月11日の朝日新聞朝刊が、国際電信電話とトヨタ自動車系の日本高速通信(テレウェイ)が翌年秋に合併すると一面で報じた[102]。発表に基づく記事ではなかったため、同社は午前8時30分に役員会を開き、8時50分に現時点で事実ではないとのコメントを配り、9時には東京証券取引所で株式の売買が停止された[103]。同日10時30分、KDD法廃止についての記者会見に臨んだ西本社長は「合併交渉の打診はしている」と認めている[104]。翌12日の株価は前々日比920円高の6320円をつけた[105]

  • 週刊東洋経済 1997年8月2日号「[編集長インタビュー]西本正 国際電信電話(KDD)社長」
    • [101]西本正社長は英BTと米MCIの合併を引き合いに大きくなるのがいいことばかりとは限らないと述べた
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「[特別レポート]合併か? KDDとテレウェイの暗中模索」
    • [102]1997年11月11日の朝日新聞朝刊がKDDとテレウェイの合併を一面で報道
    • [103]KDDは8時30分に役員会・8時50分に否定コメント・9時に東証で売買停止
    • [104]11日10時30分の会見で西本社長が合併交渉の打診を認めた
    • [105]12日のKDD株は前々日比920円高の6320円に急騰

交渉の力関係は単純ではなく、事業規模では国際電信電話が上で、売上高3200億円はテレウェイの3倍あり、時価総額も同社4000億円に対しテレウェイは推定700億円だった[106]。1997年の時点でNTTと国鉄由来の日本テレコムを除けば同社にしか通信技術者はいないと見られ、資金力はあっても技術者の少ないテレウェイにとって同社の技術陣は魅力[107]だった。一方、テレウェイは640億円の累損と[108]1530億円の借入を抱え[109]、筆頭株主のトヨタが1998年2月までの増減資で累損を一掃すると発表していた。株式数から計算すると新会社の筆頭株主はトヨタ自動車になり、持株比率は2割前後と見込まれた[110]。嫁入りではなく婿取りだというトヨタ首脳の言葉[111]が、この交渉の性格を示している。

  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「[特別レポート]合併か? KDDとテレウェイの暗中模索」
    • [106]売上高はKDD3200億円でテレウェイの3倍・時価総額はKDD4000億円に対しテレウェイ推定700億円
    • [108]1997年9月 筆頭株主のトヨタが1998年2月までの増減資でテレウェイの累損640億円を一掃すると発表
    • [110]新会社の筆頭株主はトヨタで持株比率2割前後と見込まれた
    • [111]トヨタ首脳の「嫁入りではない。やるならあくまで婿取りだ」との発言
  • 日経ビジネス 1997年11月17日号「トヨタが仕掛ける新たな通信再編」
    • [107]NTTと日本テレコムを除けばKDDにしか通信技術者はおらず技術者の少ないテレウェイにとってKDDの技術陣は魅力
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [109]テレウェイは1530億円の借入があり年50億円近い金利負担は経常利益10億円の同社に小さくなかった

合併の条件をめぐる綱引きは長引き、当初10月1日に予定されていた合併時期は12月1日へ延期され、4月中に行うはずだった契約書の調印も7〜8月へ先送りされた[112]。最後まで折り合わなかったのは合併比率・人事・商号の三つで、比率はKDD1に対しテレウェイ2〜3で調整された[113]。KDDの株価は合併発表時の6200円から1998年5月に4800円まで落ち、1株純資産を割っていた[114]。前期の役員数はKDD26人にテレウェイ31人を合わせて57人となり、売上高が15倍あるNTTの40人を上回った[115]。1998年12月1日、国際電信電話株式会社法が廃止されて同社は特殊会社でなくなり[116]、同じ日に日本高速通信を吸収合併して商号をケイディディ株式会社へ改めた[117]

  • 週刊東洋経済 1998年5月30日号「[フラッシュ]KDDとテレウェイ 合併延期」
    • [112]10月1日に予定されていた合併時期が12月1日に延期・4月中の契約書調印も7〜8月に先送り
    • [113]最終合意できない3点は合併比率・人事・商号で比率はKDD1対テレウェイ2〜3で調整
    • [114]KDDの株価は合併発表時の6200円から4800円まで下落し1株純資産を割った
    • [115]前期の役員数はKDD26人・テレウェイ31人(うち常勤18人)で合計57人・売上高15倍のNTTは40人
  • 日本法令索引(国立国会図書館)「国際電信電話株式会社法 昭和27年8月7日法律第301号」
    • [116]国際電信電話株式会社法は1998年5月8日公布の平成10年法律第58号で廃止され12月1日に効力が生じた
  • 週刊東洋経済 1999年1月23日号「[フラッシュ]KDD崖っぷち、設立以来の危機」
    • [117]1998年12月1日にトヨタ系のテレウェイと合併し商号をケイディディへ変更
  • 週刊東洋経済 1997年8月2日号「[編集長インタビュー]西本正 国際電信電話(KDD)社長」
    • [101]西本正社長は英BTと米MCIの合併を引き合いに大きくなるのがいいことばかりとは限らないと述べた
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「[特別レポート]合併か? KDDとテレウェイの暗中模索」
    • [102]1997年11月11日の朝日新聞朝刊がKDDとテレウェイの合併を一面で報道
    • [103]KDDは8時30分に役員会・8時50分に否定コメント・9時に東証で売買停止
    • [104]11日10時30分の会見で西本社長が合併交渉の打診を認めた
    • [105]12日のKDD株は前々日比920円高の6320円に急騰
    • [106]売上高はKDD3200億円でテレウェイの3倍・時価総額はKDD4000億円に対しテレウェイ推定700億円
    • [108]1997年9月 筆頭株主のトヨタが1998年2月までの増減資でテレウェイの累損640億円を一掃すると発表
    • [110]新会社の筆頭株主はトヨタで持株比率2割前後と見込まれた
    • [111]トヨタ首脳の「嫁入りではない。やるならあくまで婿取りだ」との発言
  • 日経ビジネス 1997年11月17日号「トヨタが仕掛ける新たな通信再編」
    • [107]NTTと日本テレコムを除けばKDDにしか通信技術者はおらず技術者の少ないテレウェイにとってKDDの技術陣は魅力
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [109]テレウェイは1530億円の借入があり年50億円近い金利負担は経常利益10億円の同社に小さくなかった
  • 週刊東洋経済 1998年5月30日号「[フラッシュ]KDDとテレウェイ 合併延期」
    • [112]10月1日に予定されていた合併時期が12月1日に延期・4月中の契約書調印も7〜8月に先送り
    • [113]最終合意できない3点は合併比率・人事・商号で比率はKDD1対テレウェイ2〜3で調整
    • [114]KDDの株価は合併発表時の6200円から4800円まで下落し1株純資産を割った
    • [115]前期の役員数はKDD26人・テレウェイ31人(うち常勤18人)で合計57人・売上高15倍のNTTは40人
  • 日本法令索引(国立国会図書館)「国際電信電話株式会社法 昭和27年8月7日法律第301号」
    • [116]国際電信電話株式会社法は1998年5月8日公布の平成10年法律第58号で廃止され12月1日に効力が生じた
  • 週刊東洋経済 1999年1月23日号「[フラッシュ]KDD崖っぷち、設立以来の危機」
    • [117]1998年12月1日にトヨタ系のテレウェイと合併し商号をケイディディへ変更

初の連結赤字と、47年で閉じた国際通信専業

価格競争は法の廃止と合併をはさんで一段と激しくなり、合併の2か月前にあたる1998年10月に第二電電が対米昼間3分240円で国際電話に参入し、12月にはKDDが450円から、日本テレコムとIDCが440円から、それぞれ240円へ下げた。翌1999年1月、第二電電はさらに168円へ引き下げている。1999年3月期のKDDの連結決算は、売上高4010億円と前期比9.9%の増収でありながら、最終損益は10億円の赤字となる見込みになった。前期は49億円の黒字である。単体は土地建物賃貸料を営業外から売上高へ計上し直し、減価償却を定額法へ変更するなどのやりくりで黒字を保ったが、実質は営業赤字だった[120][118][119]

  • 週刊東洋経済 1999年1月23日号「[フラッシュ]KDD崖っぷち、設立以来の危機」
    • [118]1998年10月にDDIが対米昼間3分240円で参入・12月にKDDが450円から、日本テレコムとIDCが440円から240円へ値下げ・1999年1月にDDIが168円へ再値下げ
    • [119]1999年3月期の連結決算は売上高4010億円(前期比9.9%増)ながら初の最終赤字10億円(前期49億円の黒字)の見込み
    • [120]単体は土地建物賃貸料の売上高計上や減価償却の定額法変更で黒字を保ったが実質は営業赤字

赤字の原因は値下げだけではなく、国際電話の市場規模そのものが1997年半ばで3500億円と神奈川県一県の国内通信市場にすぎず[121]、1999年初めには3000億円に満たないところまで縮んでいた[122]。1999年3月期の連結売上高は、KDDの4057億円が第二電電の3分の1にとどまり、未公開の日本移動通信の4107億円にも及ばない規模だった[123]。1999年7月にはNTTが再編され、秋には長距離国際NTTが本格参入する[124]ことも決まっていた。テレウェイとの合併で水膨れした間接部門の大幅な合理化が急務[125]だと会社四季報は指摘し、西本社長は5800人の人員を関係会社への出向などで2001年3月期に4300人(うち本体2800人)へ減らす計画[126]を掲げた。合併後の国内電話はKDDの「001」とテレウェイの「0070」の二頭立てが続き、課金方式が異なるためシステム統合には2年程度を要すると見られた[127]

  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [121]日本の国際電話市場は3500億円で神奈川県1県の国内通信市場にすぎない
  • 週刊東洋経済 1999年1月23日号「[フラッシュ]KDD崖っぷち、設立以来の危機」
    • [122]1999年初めの時点で国際電話市場は3000億円に満たない規模
    • [124]1999年7月のNTT再編で秋には長距離国際NTTが本格参入する見通し
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号「打倒NTTへ DDI、KDD、IDO合併が長期化した本当の事情」
    • [123]1999年3月期の連結売上高はKDD4057億円でDDIの3分の1・IDOの4107億円にも及ばない
  • 週刊東洋経済 1999年1月30日号「会社四季報」最新情報
    • [125]会社四季報の指摘 テレウェイとの合併で水膨れした間接部門の大幅な合理化が急務
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [126]西本社長は5800人を関係会社への出向等で2001年3月期に4300人(うち本体2800人)まで減らすと述べた
  • 週刊東洋経済 1998年5月30日号「[フラッシュ]KDDとテレウェイ 合併延期」
    • [127]合併後の国内識別番号はKDDの001とテレウェイの0070の二頭立てで課金方式が異なりシステム統合に2年程度

1999年11月10日、KDDはシンガポールテレコムと資本提携し、多国籍企業向けの国際通信サービスで合弁会社を設立すると発表した[128]。1997年10月には韓国デーコム・香港テレコム・豪テルストラとアジア・パシフィック・インターネット・コミュニティ(APIC)を設立し[129]ていた。しかし携帯電話部門を持たないことが決定的[130]で、1999年12月15日、第二電電・KDD・日本移動通信の3社は合併の最終合意に達し、翌16日に第二電電が2社を吸収合併すると発表した[131]。同日時点の株式時価総額は第二電電が3兆1800億円、KDDは1兆円を割って9146億円だった[132]。2000年10月1日、KDDは合併により解散し、株式の上場も終わっている[133]。外国ではKDDのほうが名前が売れているとして営業用の名称はKDDIと決まり[134]、消えたのは法人格と上場、そして1953年から47年続いた国際通信専業という立場[135]だった。

  • 週刊東洋経済 1999年11月20日号「[Lineup]注目の人事 KDD西本社長続投が濃厚」
    • [128]1999年11月10日 シンガポールテレコムと資本提携し多国籍企業向け国際通信サービスの合弁会社設立を発表
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [129]1997年10月 KDD・韓国デーコム・香港テレコム・豪テルストラによるアジア・パシフィック・インターネット・コミュニティ(APIC)の設立
  • 週刊東洋経済 1999年12月25日号「[Lineup/産業・企業]救済通信3社大合併の深層 “名門”KDDはなぜDDIにのみ込まれたか」
    • [130]KDDは携帯電話部門がないうえ急激な規制緩和で最もワリを食い主力の国際通信は価格競争が最も激烈
    • [131]1999年12月15日にDDI・KDD・IDOの3社が合併の最終合意に達し16日にDDIが2社を吸収合併すると発表
    • [132]1999年12月15日現在の株式時価総額はDDI3兆1800億円・KDDは1兆円を割り9146億円
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号「打倒NTTへ DDI、KDD、IDO合併が長期化した本当の事情」
    • [133]2000年10月1日付でDDIを存続会社としてKDDとIDOを合併しKDDは解散
    • [135]1953年の設立から2000年の合併まで47年間の国際通信専業
  • 週刊東洋経済 2000年1月22日号「[特別レポート]モバイル進出がKDDを救う 西本正KDD社長「通信3社大合併」を語る」
    • [134]外国ではKDDのほうが名前が売れているため営業用の名称をKDDIに決めた
  • 週刊東洋経済 1999年1月23日号「[フラッシュ]KDD崖っぷち、設立以来の危機」
    • [118]1998年10月にDDIが対米昼間3分240円で参入・12月にKDDが450円から、日本テレコムとIDCが440円から240円へ値下げ・1999年1月にDDIが168円へ再値下げ
    • [119]1999年3月期の連結決算は売上高4010億円(前期比9.9%増)ながら初の最終赤字10億円(前期49億円の黒字)の見込み
    • [120]単体は土地建物賃貸料の売上高計上や減価償却の定額法変更で黒字を保ったが実質は営業赤字
    • [122]1999年初めの時点で国際電話市場は3000億円に満たない規模
    • [124]1999年7月のNTT再編で秋には長距離国際NTTが本格参入する見通し
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
    • [121]日本の国際電話市場は3500億円で神奈川県1県の国内通信市場にすぎない
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号「打倒NTTへ DDI、KDD、IDO合併が長期化した本当の事情」
    • [123]1999年3月期の連結売上高はKDD4057億円でDDIの3分の1・IDOの4107億円にも及ばない
    • [133]2000年10月1日付でDDIを存続会社としてKDDとIDOを合併しKDDは解散
    • [135]1953年の設立から2000年の合併まで47年間の国際通信専業
  • 週刊東洋経済 1999年1月30日号「会社四季報」最新情報
    • [125]会社四季報の指摘 テレウェイとの合併で水膨れした間接部門の大幅な合理化が急務
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
    • [126]西本社長は5800人を関係会社への出向等で2001年3月期に4300人(うち本体2800人)まで減らすと述べた
    • [129]1997年10月 KDD・韓国デーコム・香港テレコム・豪テルストラによるアジア・パシフィック・インターネット・コミュニティ(APIC)の設立
  • 週刊東洋経済 1998年5月30日号「[フラッシュ]KDDとテレウェイ 合併延期」
    • [127]合併後の国内識別番号はKDDの001とテレウェイの0070の二頭立てで課金方式が異なりシステム統合に2年程度
  • 週刊東洋経済 1999年11月20日号「[Lineup]注目の人事 KDD西本社長続投が濃厚」
    • [128]1999年11月10日 シンガポールテレコムと資本提携し多国籍企業向け国際通信サービスの合弁会社設立を発表
  • 週刊東洋経済 1999年12月25日号「[Lineup/産業・企業]救済通信3社大合併の深層 “名門”KDDはなぜDDIにのみ込まれたか」
    • [130]KDDは携帯電話部門がないうえ急激な規制緩和で最もワリを食い主力の国際通信は価格競争が最も激烈
    • [131]1999年12月15日にDDI・KDD・IDOの3社が合併の最終合意に達し16日にDDIが2社を吸収合併すると発表
    • [132]1999年12月15日現在の株式時価総額はDDI3兆1800億円・KDDは1兆円を割り9146億円
  • 週刊東洋経済 2000年1月22日号「[特別レポート]モバイル進出がKDDを救う 西本正KDD社長「通信3社大合併」を語る」
    • [134]外国ではKDDのほうが名前が売れているため営業用の名称をKDDIに決めた

KDDの沿革1952〜2000年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
国際電信電話法が公布
国際通信を担う特殊会社の設立が決定
国際電信電話が発足
日本電信電話公社の国際部門を承継
日中国交回復交渉の先遣隊に技術者を派遣
小型衛星通信装置で臨時回線を開設
貴金属の密輸と過剰接待が発覚(KDD事件)★★
経営陣の刑事責任と郵政省の監督責任を追及
山一証券取締役相談役だった日高輝氏が会長に就任★★
電気通信事業法の施行で通信市場が開放され、国際通信の法律上の独占が終わる
日本国際通信と国際デジタル通信が設立
ITJとIDCが専用線と国際電話のサービスを開始
国際通信の独占が実態として崩壊
ルートKDDの国内延伸による企業向け国内電話への参入と、列島周回海底ケーブルの敷設国際で失う分を国内で埋められるか——独占事業者が越境した1997年 詳細を読む★★★
国際電信電話株式会社法の廃止と特殊会社からの離脱自由か、保護か——国が事業を保証しなくなる立場を、西本正社長はなぜ自ら求めたか 詳細を読む★★★
日本高速通信(テレウェイ)の吸収合併と、商号のKDD株式会社への変更嫁入りか婿取りか——国内の陸上網を得るために、国際電信電話はトヨタ系との合併条件をどこまで譲ったか 詳細を読む★★★
ケイディディに商号変更
国際電話の値下げ競争により連結で初の最終赤字見通し★★
DDI・KDD・IDOの三社合併——長距離・国際・携帯を1社に束ねたKDDIの発足存続会社は第二電電、残した名前はKDD——京セラとトヨタが3年かけて詰めた距離 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「国際電信電話」
  • 国際電信電話株式会社法(昭和27年法律第301号)
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
  • 日本法令索引(国立国会図書館)「国際電信電話株式会社法 昭和27年8月7日法律第301号」
  • 日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」
  • 私の履歴書 経済人18「江戸英雄」(日本経済新聞社、1981年)
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏[国際電信電話]登場 生え抜きの営業通に社員の期待」
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話(KDD)海底ケーブルで国内参入 名門通信の期待と不安」
  • 私の履歴書 経済人16「日高輝」(日本経済新聞社、1981年)
  • 日経ビジネス 1987年6月8日号「渡辺文夫氏 所詮ムリだった第2KDD調整」
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」
  • 週刊東洋経済 1997年8月2日号「[編集長インタビュー]西本正 国際電信電話(KDD)社長」
  • 週刊東洋経済 1997年3月15日号「インタビュー KDD社長 西本正 国際通信の強化をテコに国内にも参入」
  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「[フラッシュ]KDD 3社提携で第三勢力形成」
  • 日経ビジネス 1998年8月3日・10日号「KDD「6秒1円電話」人気の陰に不安」
  • 週刊東洋経済 1997年11月22日号「[特別レポート]合併か? KDDとテレウェイの暗中模索」
  • 日経ビジネス 1997年11月17日号「トヨタが仕掛ける新たな通信再編」
  • 週刊東洋経済 1998年5月30日号「[フラッシュ]KDDとテレウェイ 合併延期」
  • 週刊東洋経済 1999年1月23日号「[フラッシュ]KDD崖っぷち、設立以来の危機」
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号「打倒NTTへ DDI、KDD、IDO合併が長期化した本当の事情」
  • 週刊東洋経済 1999年1月30日号「会社四季報」最新情報
  • 週刊東洋経済 1999年11月20日号「[Lineup]注目の人事 KDD西本社長続投が濃厚」
  • 週刊東洋経済 1999年12月25日号「[Lineup/産業・企業]救済通信3社大合併の深層 “名門”KDDはなぜDDIにのみ込まれたか」
  • 週刊東洋経済 2000年1月22日号「[特別レポート]モバイル進出がKDDを救う 西本正KDD社長「通信3社大合併」を語る」

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