神崎製紙徳島県阿南への富岡工場の建設と、広葉樹100%のパルプから加工紙までの一貫生産への移行

尼崎の一工場を手直しするか、総資産の2倍を徳島へ投じるか——1社1工場という制約をめぐる選択

時期 1956年10月
意思決定者(推定) 加藤藤太郎 社長
論点 設備投資と生産体制
概要
1948年に王子製紙の戦災工場を継いで発足した神崎製紙が、尼崎の1社1工場では規模の利益を追う各社に対抗できないとして、1956年春に徳島県への新工場建設を決めた投資。用地買収費を含む概算100億円は、当時の総資産41億円余の2倍を超えた。
背景
神崎工場は用地と工業用水の面から大拡張が望めず、旧型の機械も多く残っていた。針葉樹材が高騰する一方で、神崎製紙はSCPによる広葉樹の利用に成功し、L材100%の一貫生産という目標を立てられる技術を持っていた。
内容
用地は農地転用が認められず2年近く止まったのち、阿南市豊益町に陸面98,575坪・海面23,003坪を確保した。1959年1月に起工し、同年8月に1号抄紙機、1960年4月に広葉樹のクラフトパルプ設備が動いた。
含意
「金藤」アートと「トップコート」は1963年度のコーテッド紙市場で31.5%を占めた。一方で建設費は4号抄紙機を含め100億円に達し、自己資金の調達が滞って借入れに依存したところへ紙とパルプの輸入自由化が重なり、会社創立以来の最悪の事態を迎えた。
筆者の見解

見積りは工場が動くまでのものだった

概算100億円という見積りは、当時の総資産41億円余の2倍を超えていた。半期売上高が23億円、資本金が5億円の会社が、その規模の投資を1956年春に決めている。踏み切れた理由として蓮見勝氏が挙げたのは、資金計画でも需要予測でもなく、新工場を建てる技術的な裏づけと社員の団結、それに対する加藤藤太郎社長の信頼であった。SCPで広葉樹を使いこなし、晒しSCPを高級印刷紙に入れた日本で最初の会社になった経験が、その裏づけを支えていたとみられる。

ただし、100億円は工場を建てるまでの見積りにすぎなかった。60億円を長期借入れ、残りを自己資金という組み立ては崩れ、支払利息と償却費が収益を削り、価格変動準備金を取り崩す決算にまで至っている。用地でも2年近くを空費した。辰巳新田の農地転用が認められず、代替地が示されるまで計画は止まっていた。工場が動いた1960年の時点では、この投資が報われるかどうかはまだ決まっていなかったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

大拡張の望めない1社1工場

神崎製紙が1956年に置かれていた制約は、工場が尼崎に一つしかないところにあった。神崎工場は用地と工業用水の面から将来の大拡張が望めず、生産設備にも旧型の機械が多く残って更新を迫られていた。用水は淀川から引いており、濁度は平常でも10以上、大雨のときには1,000を超えて、抄いた紙が黄色くなる経験もしていた。SCPによる広葉樹の利用に成功し、アート紙の量産へ高速塗工機を入れようとしていた矢先である[1][2][3]

制約はもう一つあった。紙パルプ各社は規模の利益を追いはじめており、1社1工場の小規模生産では競争に立ち打ちできない事態が来かねないと、社史は当時の見通しを記している。神崎製紙はN材のSPとL材のSCPを混合晒しして上質紙やアート紙を抄く技術をすでに持っていた。これをすべて投入した新工場を建て、L材100%のパルプからアート紙までの一貫体制を組めば、コストの引き下げによって競争力は格段に強まると見込まれた[4][5]

針葉樹の高騰と、広葉樹への転換

原料の側でも転換が進んでいた。針葉樹の宝庫だった樺太を失ったうえ各社の生産拡大が重なり、赤松材は1950年ごろの1立方メートル1,450円が1952年秋に2,700円、1953年には3,900円へ上がった。広葉樹は薪炭に使われる程度の未利用資源で、繊維長が短く紙力を下げる難点はあったが、安く手に入った。神崎製紙は1955年3月16日にSCP設備を動かし、晒しパルプとしてのSCPを高級印刷紙に使った日本で最初の会社になった[6][7][8]

岩戸景気に入ると針葉樹材は再び騰勢に転じ、1立方メートル5,750円をつけた。紙パルプ各社は割安な広葉樹やチップへ原木を切り替え、1955年に原木総量の11%だった広葉樹は比重を高めていた。神崎製紙が新工場に据えた目標は、L材のもつ印刷適性や不透明性を生かし、L材100%のパルプで紙を抄いて加工紙までつくる一貫生産である。原木の確保が容易になるうえ、コストの引き下げ幅も大きいと当初から見込まれていた[9][10][11]

決断

総資産の2倍を超える100億円

そうした新工場を建てるには、用地買収費を含めて概算100億円の資金が必要であった。当時の資本金は1956年6月に倍額増資したばかりの5億円、半期売上高は23億円、総資産も41億円余にすぎない。投じる額は総資産の2倍を超えており、社史はこれを「大きなカケ」と書いている。会社首脳部は連日にわたる討議のすえ、1956年春に徳島県への新工場建設の断を下した[12][13][14]

踏み切れた理由を、のちに常務となる蓮見勝氏はこう語っている。新工場を建設する技術的な裏づけは十分であり、そこに社員の団結が加われば「多少の困難はあっても必ずやり抜けるであろう」、そういう「加藤社長の社員に対する絶大な信頼」が大事業に踏み切った最大の理由だった、と。すでに2〜3の県から誘致の申込みが来ていたが、吉野川と那賀川の水量、剣山周辺に見込める原木、紀伊水道をへだてて大阪に面する位置から、徳島県が選ばれた[15][16]

2年近くを費やした用地

用地探しは1956年10月に始まった。常務の遠藤福雄氏が管理部副部長の蓮見勝氏を伴って徳島県に入り、参議院議員の三木与吉郎氏と徳島バス常務の松村滋寿氏の案内で、富岡町の辰巳新田、橘町、徳島市内の吉野川下流の3カ所を検分した。選んだのは那賀川の先端に位置して取水が至便な辰巳新田である。同年11月25日に県知事あて照会状を出し、翌1957年1月23日に県と富岡町から知事名の正式回答を得た[17][18][19]

辰巳新田は国有の干拓地で、工場への転用には農林省の承認が要った。1957年7月に県の関係者と遠藤氏が再度上京して陳情したが、農地として国が造成したばかりの土地は転用させられないという線は動かず、計画は暗礁に乗り上げた。行き詰まりが解けたのは1958年8月9日で、県と阿南市が代替地として豊益・眉毛の2地区を持ち込む。同月21日の調査で豊益に決め、9月1日に加藤藤太郎社長名で工場指定申請書を県と市へ提出した[20][21][22][23]

結果

着工から7カ月で紙が出た

阿南市は最初の誘致工場であるとして、1958年11月17日に工場用地40ヘクタールを無償で提供した。約70人に及ぶ地主との農地買収も同月27日に妥結し、農地転用の許可は年の瀬の折衝を経て下りる。1959年1月7日午前9時、岡山農地事務局長名の許可証が届き、午前10時からの起工式の会場で原菊太郎知事から加藤藤太郎社長へ手渡された。断を下してから、2年半あまりが過ぎていた[24][25][26]

起工式のあとの祝賀会で、加藤藤太郎社長は旧王子製紙から爆撃を受けた工場を買って無一文で出発した会社だと述べ、計画をすべて完成させるには「今までにわかっただけで50億円の資金がいります」と続けた。造成は2月5日に浚渫船で始まり、岡川の川底の土で40ヘクタールを2.5メートルかさ上げした。基礎工事と並行させたため、基礎部分は築堤で囲んでサンドポンプの水が入らないようにしている[27][28][29]

一貫工場の完成と、待っていた不況

1959年8月11日に1号抄紙機関連設備の組立てが完了した。着手から1カ月という短期日である。8月15日午後5時20分、幅112インチ・日産41トンの多筒式長網抄紙機のリールに紙が巻き取られた。1960年4月15日にはKP設備が初の晒しクラフトパルプを出し、同年11月には広葉樹100%のパルプで抄速毎分300メートルを突破する。KPから加工紙までの一貫工場が、ここで揃った[30][31][32]

建設費は4号抄紙機を含めて100億円に達した。うち60億円を長期の銀行借入れ、残りを自己資金で調達する当初計画は狂い、自己資金が思うように集まらず不足分も借入れに頼ったため、支払利息の激増と償却費の増大が重なる。神崎製紙は価格変動準備金などを取り崩して決算を行なうところまで追い込まれた。そこへ1962年4月に紙、10月にパルプの輸入自由化が重なり、会社創立以来の最悪の事態を迎えた[33][34][35]

「トップコート」とコーテッド紙市場の3割

富岡工場のもう一つの目標であったマシン・コーテッド紙も、この工場で形になった。1959年5月に米チャンピオン社と技術導入の仮契約を結び、契約料は15万3,000ドルであった。塗工設備を備えた2号抄紙機は1960年4月にオンマシン・コーターとして動き出し、「トップコート」は同年5月から本格生産に入って、年末には月産1,200トンに達している[36][37]

第1期工事の最後となる4号抄紙機は、加藤藤太郎社長の判断で2号抄紙機と同じ「トップコート」専抄機とされ、1962年4月に日産100トン・全長125メートルの機械が動き出した。1963年度の国内コーテッド紙生産22万5,000トンのうち、「金藤」アートと「トップコート」は合わせて7万1,000トンを占め、市場占有率は31.5%に上がっている。社員数は1953年1月の747人から1963年7月には2,070人になった[38][39][40]

出典・参考
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「技術革新下の躍進」1「広葉樹の利用」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「社運をかけた富岡工場の建設」1「富岡工場建設の推進」・2「全広葉樹の一貫生産へ」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「社運をかけた富岡工場の建設」3「トップコートの誕生とアート紙の特殊化」・4「会社組織の拡充・強化」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「試練のスクラップ・アンド・ビルド時代」1「神崎工場の体質改善」
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「神崎紙」の項

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