神崎製紙 阿南に富岡工場建設 広葉樹100%のパルプから加工紙までの一貫生産への移行
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1948年に王子製紙の戦災工場を継いで発足した神崎製紙が、尼崎の1社1工場では規模の利益を追う各社に対抗できないとして、1956年春に徳島県への新工場建設を決めた投資。用地買収費を含む概算100億円は、当時の総資産41億円余の2倍を超えた。
- 背景
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神崎工場は用地と工業用水の面から大拡張が望めず、旧型の機械も多く残っていた。針葉樹材が高騰する一方で、神崎製紙はSCPによる広葉樹の利用に成功し、L材100%の一貫生産という目標を立てられる技術を持っていた。
- 内容
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用地は農地転用が認められず2年近く止まったのち、阿南市豊益町に陸面98,575坪・海面23,003坪を確保した。1959年1月に起工し、同年8月に1号抄紙機、1960年4月に広葉樹のクラフトパルプ設備が動いた。
- 含意
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"金藤"アートと"トップコート"は1963年度のコーテッド紙市場で31.5%を占めた。一方で建設費は4号抄紙機を含め100億円に達し、自己資金の調達が滞って借入れに依存したところへ紙とパルプの輸入自由化が重なり、会社創立以来の最悪の事態を迎えた。
いつ何が起きたか 10件
筆者の見解
見積りは工場が動くまでのものだった
概算100億円という見積りは、当時の総資産41億円余の2倍を超えていた。半期売上高が23億円、資本金が5億円の会社が、その規模の投資を1956年春に決めている。踏み切れた理由として蓮見勝氏が挙げたのは、資金計画でも需要予測でもなく、新工場を建設する技術的な裏づけと社員の団結、それに対する加藤藤太郎社長の信頼であった。SCPで広葉樹を使いこなし、晒しSCPを高級印刷紙に入れた日本で最初の会社になった経験が、その裏づけを支えていたのだろう。
ただし、100億円は工場を建設するまでの見積りにすぎなかった。60億円を長期借入れ、残りを自己資金という組み立ては崩れ、支払利息と償却費が収益を削り、価格変動準備金を取り崩す決算にまで至っている。用地でも2年近くを空費した。辰巳新田の農地転用が認められず、代替地が示されるまで計画は止まっていた。工場が動いた1960年の時点では、この投資が報われるかどうかはまだ決まっていなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
業績の推移
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参考文献
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「技術革新下の躍進」1「広葉樹の利用」
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「社運をかけた富岡工場の建設」1「富岡工場建設の推進」・2「全広葉樹の一貫生産へ」
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「社運をかけた富岡工場の建設」3「トップコートの誕生とアート紙の特殊化」・4「会社組織の拡充・強化」
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「試練のスクラップ・アンド・ビルド時代」1「神崎工場の体質改善」
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「神崎紙」の項